この映画を見終わって、同趣向の映画をいつか観たような気がして記憶をたどると、『小さな中国のお針子』という映画を思い出した。これも70年ほど前の中国の話。文化大革命と呼ばれる政治的混乱で多くの人たちが迫害されていた頃を舞台にした青春物語だったように思う。党からの指令で地方農村労働に従事させられた学生たちが困難な生活をしながらも、そこで出会ったお針子にバルザックなどを語り聞かせて青春を謳歌していた、といった話だったと思う。中国の辺鄙な農村にバルザックという組み合わせの面白さと、そんな時代を後になってから回想するという形式がこの作品の場合の効果的印象として残っている。
郵便配達人の場合もお針子の場合も、ことばの力が重要なテーマとなっている。私たちはどんな環境下におかれても、それが自分の生命にとって深刻でもない限りはほとんどその環境に慣れてしまい、それなりに適応して生きてゆくようになるものだ。たとえば私たちが地底人であるとした場合、ぼんやりとした光さえあれば、そしてそれ以上の明るさというものを知らなければ、地底環境下での物事の認識にもとづいて生活をしてゆくことになるだろうし、それなりの文化もそこには形成されるだろう。ところがそのような世界にも奥行きと広がりはあり、自分の日常的な生活空間とは異質なものに出会い、いわゆる異文化経験をすることがある。その時ちょうど戸外の光に出会ったときのように、人は驚いたり戸惑ったり憤ったり恐怖を感じたりあるいは喜んだりする。それは異質なものが私たちの感覚を刺戟した結果であろうが、ことばとの接触によっても引き起こされることもある。
この後者の経験内容は注目に値する。とくに言語的に未熟な場合がそうであるように、日本語がしゃべられているにもかかわらず、しかも知らないことばが羅列されているわけでもないのに、何が言われているのかさっぱり理解できない経験は誰しも思い当たるところがあるだろう。日頃用いている言語でさえも表現の仕方が変わると、途端に不可解になってしまうわけである。だが他方で、その難解な経験が思いもよらない形で世界の見方を教えてくれることがある。たとえば自分の愛する人が思いもかけず別の人と親密な関係をもっていると知ったときの不愉快さ、苦々しい気分、吐き気、呪詛の言葉を発するなどの経験が「要するにおまえは嫉妬しているのだ」と表現されたとき、そのことばによる自己理解は、その人を情念にまみれて懊悩しているだけの地底人であることを止めさせ、違う存在に変える可能性がある。これは単に使う語彙数の多寡の問題だというよりも、当事者が物事をどのように見たり感じたりするかの問題である。もしそのことばを学び知らなければ、ひとは自らの内面をも見ないままに相変わらず感情に翻弄されるばかりの生き方をすることになりかねない。郵便配達人はそのようなことぱを暗喩で学び、お針子はバルザックで学び、かれらは文学とか物語といったものを通じて違う世界に踏み出し始めるのである。その先に何が待っているかは人それぞれであるにせよ。
できるかぎり物語り的であることから離れて、客観的で事実的な語りを無反省に重視する現代は、文学的世界をファンタジーという美名のもとに貧相な世界に変えてしまったり、少し読むだけでうんざりとしてしまう同語反復の世界に変えてしまっている。(この場合の同語反復とは、文学が自然風物についても人間関係についてもあれこれと同じのような言葉を何世紀にもわたって操っているにすぎないという意味。)物語や文学に真実はない、リアルはない、あるのはそのときどきの各人の思いに過ぎないという強い信念は、なにも現代人特有の思想基盤をなすものとは言えないだろうが、そのような認識は文学から真理への道を閉ざしてしまうという、やっかいな立場に片足を踏み込んでいる。ことばの豊かさは生半可な客観性を凌駕しており、リアルで真なる存在への道を切り開くこともある、という認識が文学の信条となるべきものであると思う。客観性や事実だけが文化の中心にあるわけではない。
最後に、語彙貧困を嘆く若い人たちのために、穂村弘『短歌の友人』(河出文庫)というすぐれた現代歌論集を紹介しておきたい。スマホによる情報収集ばかりの人には最後まで読み通すことに困難はあるだろうが、時間をかけて熟読することに挑戦する人にとっては、ことばのさまざまな用法に気づかされ、文化との深い関係を知り、言語的教養の裾野を広げることができるだろう。
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