2019年7月21日日曜日

映画研究ゼミへの招待(小笠原史樹先生)

本年度第5回目の「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、中世哲学・宗教哲学の小笠原史樹先生です。



映画研究ゼミへの招待

小笠原史樹(宗教学

あるSF映画の前半に、次のような場面があります。

地球から遠く離れて航行する宇宙船の中、長い冷凍睡眠から覚めた乗組員たち。彼らの前に二人の考古学者が立ち、様々な古代文明の図像が共通して、宇宙空間のある座標を指していることがわかった、と説明。そこには太陽があり、生命が生存可能な惑星が一つだけある。
 「そして我々は今朝、この惑星に到着した。」
 「じゃあ、お前ら二人が洞窟で見つけた地図のせいで、俺たちはここに居るってことか?」
 「違うわ。違う、地図じゃない。招待状よ。」

さて、このブログ記事も、招待状のようなものです。今年度、私は二年生対象の「文化学演習Ⅰ・Ⅱ」を担当しているのですが、それぞれ「映画の哲学①:神とは何か」、「映画の哲学②:人間とは何か」と題し、専門ゼミでの新しい試みとして、映画に関する哲学的な研究を行っています。略して、「映画研究ゼミ」。

このゼミの参加者に求められるのは、ゼミのテーマに関連する映画を10本鑑賞し、その10本を研究対象として1万字以上の論文を書くこと。今年度の前期は「神とは何か」がテーマなので、広い意味での「神」に関わる作品を10本鑑賞して、1万字以上の論文を執筆。

いきなり「映画を10本」、「1万字以上の論文」と聞くと、ハードルが高すぎるように感じられるかもしれませんが、半期15回の授業を通して、このゴールを目指して少しずつ作業を進めていくので、最初の印象ほど大変ではない……はず。

具体的に、ゼミは次のように進みます。

映画を10本、と書きましたが、10本すべてをゼミ内で扱うわけではなく、また、ゼミの時間内に映画を観るわけでもありません。ゼミ内で扱うのは10本中5本のみで、かつ、それらの作品は授業前に予め、各自で観ておくことが前提。

今年度の前期、授業で扱ったのは次の5作品です。

 「十戒」(アメリカ、1957年、セシル・B・デミル監督)
 「裁かるゝジャンヌ」(フランス、1928年、カール・ドレイエル監督)
 「沈黙 サイレンス」(アメリカ、2016年、マーティン・スコセッシ監督)
 「もののけ姫」(日本、1997年、宮崎駿監督)
 「2001年宇宙の旅」(アメリカ、1968年、スタンリー・キューブリック監督)

上記の5作品は、図書館のDVDコーナーに置いてあるものの中から選定。つまり、すべて図書館で観ることができます。

これら5作品に各2回ずつ、授業の時間をあてます。例えば「十戒」の1回目は、「十戒」に関する全体討論の回。誰か発表者を決めてレジュメを作ってもらう、という進め方はせず、参加者全員が各自で予め「十戒」を観て、「神とは何か」という問いとの関連でこの作品を分析し、800字程度のコメントを作成してゼミの前日までに提出。当日、参加者全員のコメントを資料として配布し、この資料に基づいて全体で討論。自分の書いたコメントについて説明したり、他の参加者のコメントに質問したり、その場で提起された問題について議論したり。

翌週が「十戒」の2回目で、グループ討論の回。全体討論での議論を踏まえて、私が出題。幾つかのグループに分かれて(今年度は参加者が少ないため、大抵、二つのグループ)その問題に取り組み、授業の後半、チーム毎に5分ずつ発表して質疑応答。「十戒」に関しては、旧約聖書『出エジプト記』14章(有名な、海が二つに分かれるエピソードの箇所)を参考資料にして、「『出エジプト記』14章において、神はどのような存在として描かれているか、説明せよ」という問題を出しました。

以上2回で、「十戒」に関する授業は終了。次は「裁かるゝジャンヌ」について2回、その次は「沈黙」について2回、という仕方で、ゼミが進んでいきます。

毎回の授業の課題をこなしつつ、並行して、参加者は各自で論文を執筆。授業で3本の映画を検討し終えた段階で、まず、論文の前半を提出してもらいます。授業で扱った3本に、さらに自分で自由に選択した2本を加えて、計5本の映画を扱い、字数は4000字以上。すでに授業内で「3本×800字=2400字」の下書きは終わっているので、同じ作業を自由選択の2本に関しても行い、1600字。それらを合わせて、計4000字以上。提出された論文は私が添削してコメントをつけ、修正要求と共に返却。最終論文の段階で、この修正要求などに応じて書き直してもらう、というわけです。


レポートや論文を書く際、やはり重要なのは、一度書いて終わりにするのではなく、何度も繰り返し書き直す、ということ。通常の講義の場合、参加者が多く、なかなか全員のレポートにコメントを付して返却し、書き直して再提出してもらう、というのは難しいのですが、少人数のゼミの場合は別。一度完成させたものを再び壊して作り直す、という作業は案外大変なものですし、せっかく必死で書いたものを、教員からの一方的な指示に従って修正する、というのも苦痛かもしれませんが、それがゼミの「醍醐味」でもある……はず。

授業の後半では、論文前半の課題に続き、授業で扱った残りの2本に、自由選択の3本を加えて、同じく4000字以上の論文後半を提出。同様に、コメントと修正要求を付して返却。この時点で、10本の映画作品を扱った、計8000字以上の下書きが準備できたことになります。これに、序論と結論を約1000字ずつ加えると、1万字以上の論文が完成。

いよいよ大詰め。授業では、論文の結論に向けて全員でアイディアを出したり、論文の結論部分の草稿を提出して、その草稿に基づいてグループ毎に議論したりなど、今までの成果をまとめるための作業をします。今年度の前期は、様々な映画の中で描かれている神について、それらすべてに共通する「神であるための条件」はあるのかどうか、あるとすれば何か、という問題や、様々な「神」を分類するとすれば、どのような分け方があるのか、という問題などについて議論しました。「神」を分類する基準として挙がったのは、目に見える形があるかどうか、人間の言葉を話すかどうか、特別な力を持っているかどうか、人間を救済するかどうか、人間によって理解可能かどうか、等々。

上記のようなまとめの作業を踏まえて、序論と結論を書き、今までの原稿を修正して、ついに最終論文が完成。これを提出して、ゼミの課題はすべて終了。提出された論文は一つのファイルにまとめ、ゼミの論集として参加者全員に送ります。(この場を借りて、ゼミ生各位へ最終論文の提出締切は明日の正午です。締切までに必ず提出を……。)

以上が、今年度の映画研究ゼミの概要です。

昨年度までのゼミでは主に、聖書や『歎異抄』、『ギルガメシュ叙事詩』などの古典を扱っていて、今年度、専門のゼミでは初めて映画を扱いました。やはり古典を地道に読む作業が恋しく感じられる一方、様々な映画作品を通して新しく気づかされることも多く、現時点ではかなりの手応えを感じています。後期は「人間とは何か」。来年度、私は三・四年生対象のゼミを担当する予定で、その場合は通年のため、もし引き続き映画研究を行うならば、一年をかけて、映画20本で2万字以上の論文を……? あるいは、同様の進め方で古典を読むかもしれず、映画と古典を組み合わせるかもしれず、いずれにせよ、未定。

ところで、冒頭で言及したSF映画、実はホラーです。「招待状」に応じて降り立った惑星で待っていたのは、陰惨な出来事の数々……。私のゼミも、この招待に応じて入ってしまうと、そこに待っているのは、大量の課題と論文執筆に苦しむ苛酷な日々かもしれません。

ただし、このSF映画の場合、主人公たちは確かな情報なしにその惑星に降り立つわけですが、私のゼミの場合、このブログ記事を読んでもらえれば、大体の雰囲気はつかめるはず。「絶対に入りたくない!」という人は、ゼミの希望票で「小笠原」を最下位にしておけば、一安心。ゼミの希望票を提出しないと、機械的に私のゼミに回されてしまう恐れがあるので、希望票は必ず締切までに提出を。

なお、このSF映画には続編があり、その作中、ワーグナー作曲の「ヴァルハラへの神々の入城」という曲が流れる場面があります。「ヴァルハラ」とは、北欧神話に登場するオーディンの宮殿。戦場で死んだ戦士たちはヴァルキューレたちによってヴァルハラに導かれ、この宮殿で豪華な酒宴の日々を過ごす、とされています。ゼミで「戦死」してしまうのは好ましくありませんし、ヴァルハラ宮殿の酒宴には遠く及びませんが、ゼミの合間と最後には、ぜひ酒宴を。

しかし、今年の参加者は未成年が多く、その点はやや残念なところ……。ヴァルハラの酒宴は来年の楽しみにして、私は独り、天神のオクトーバーフェストへ。

※上記の写真の内、最初の3枚は、広い意味での「神」に関連するもの。1枚目と2枚目は、郷里の秋田県に帰省中、秋田駅やその近辺で撮影。3枚目は、去年のゼミ合宿の際、長崎市内で撮影した、諏訪神社の鳥居。4枚目は、昨年度の卒業式の日、ゼミ生たちからもらったお花(改めて、ありがとう)。5枚目は、今年のオクトーバーフェストで撮影。

□小笠原先生のブログ記事
真昼の悪魔
スマホと空と攻殻機動隊
歌詞の中の神々
木曜日のラグナロク
映画から考える――おすすめ映画10選

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