2020年2月21日金曜日

オトナと大人



「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、近現代哲学・倫理学の林誓雄先生です。



先輩、上司、学長、理事長、社長、大臣、王様、大統領
役職として高位な人間が、理不尽な要求をつきつけてきたとき
立場が上である人間が、不当な手段で集めた、偽の証拠などから
何らの整合性・正当性もない処分・措置を押し付けてきたとき
それに、唯々諾々と従うことをよしとする人間が、
それに、従うことこそ自分たちのなすべきことだ、と考える人間が
この世の中には、いる。

目的・結論がまずありきで、それに沿うものであるならば
どれほど悪質な手段を使おうとも、どれほど卑劣な手を使おうとも
どれほどの人間に迷惑をかけ、数多くの人間を傷つけようとも
目的達成のために、まったく論理的でない議論を組み立てて
権威を振りかざし、「決定権は自分たちにあるのだから従え」の一辺倒で
不当な要求を飲ませて、しかし、それに伴って引き起こされる害悪については
まったく責任を取らない人間が、この世の中には、いる。

他方で、どれほど自分よりも年上だからといって
どれほど自分よりも立場が上だからといって
どれほど自分よりも世間では偉いとされているからといって
理事長であれ、大臣であれ、大統領であれ
誰が何を言おうとも、そこに論理的な正当性がない限り
正当な手段であつめた正当な証拠に基づいた結論でない限り
不当な要求に従うことを断固拒否し、ただひたすら、論理に基づく議論を求め
正義を貫き通そうとする人間が、この世の中には、いる。

「天に唾する」という言葉がある。どういう意味だろうか。
天に向かって唾を吐くと、重力によりその唾が自分に返ってくる。
転じて、何らかの意味で自分よりも上のものに口答えする、
文句をいう、反論する、抗議をすると、それをやった自分が
最後は痛い目に合うという意味だ、と思っている人がいるかもしれないが
実はそれは間違いのようだ。
正しい意味は、「人に害を与えようとして、かえって自分が損をする」
からやめておく方がよい、という教訓のようだ。
正しい意味で捉えると、確かに教訓として、真っ当なものであることがわかる。

一方、前者の間違った意味で捉える場合、教訓としては
「だから、天には逆らわない方がいい。おかみの言ったことには従うべきだ。」
というものが、導き出されるのかもしれない。
そして、その教訓に従って、上に平服し、上を忖度することこそ
自分たち下々のものはやるべきなのだ、と考えられることがあるようだ。
それはシステムとしてそもそも成り立つのか、格差や差別を生まないのか
その結果、公平・平等は確保されるのか、そのために傷つく人はいないのか
そういったことをまったく考えずに、と言うより、何もものを考えずに、
上からの命令に従い続けることがよいと、考えられることがあるようだ。
そういう人間のことを、世間では「オトナ」と言うらしい。
「オトナなんだから、もう決まったことには従おうよ」というように
「オトナ」であることが、さも良いことであるように、言われることが、ある。
ただ、そういう人は、決して「自分が決めたことだから」とは言わない。
自分では何も責任を取らず、権威や権力にのみ頼って、権威や権力のみを使って、
論理的に話をしない。
自分で証拠を集めないし、集めるときも、不正な手段で、上で決まったことに
合わせるような証拠しか集めない。そして、力づくで言うのである。「上に従え」と。
そのような人間のことを、「オトナ」というのだそうだ...「オトナ」と呼ぶのだそうだ...

他方で、哲学において、あるいは倫理学において、「大人」とは、
自分の頭で物事を判断し、自分で決定し、そして何より
自分で責任を取る人間のことを言う。
「人間」であるからには、自分の頭を使って、自分で物事を考えられるようになってこそ
「大人」と呼ばれるわけであって、上の言うことを、ただ聞いているのは
ただの「子供」あるいは、「奴隷」と言われることに、なる。
もちろん、世間には「子供」のままの、あるいは「奴隷」に過ぎないオトナが
もしかすると沢山いるのかもしれない。
自分で物事を調査して、自分で論理的に考えて、そして自分で決断をする
ということをしないオトナ・できないオトナが、数多くいるのかもしれない。
ただ、数多くいるから、それでよい、ということには、ならない。
むしろ、われわれは「子供」のままでいてはならず、そして「奴隷」のまま
人生を終えることを、可能な限り回避すべきなのだと、哲学者ならば、言うであろう。
われわれは「大人」になるべきだと、そう言うであろう。

パスカルは『パンセ』の中で、正義と力について、次のように述べている。
 正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に 力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。
 このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。
(パスカル『パンセ』298)

パスカルの言葉は、私にとっては警句であるように受け止められる。
人は一般に、強いものを正しいとし、それでよいと、しがちであるからこそ
むしろ、それに抗わねばならないのだ、と。
ただ、なかなかそれは、難しいのかもしれない。これまで、正義が力に勝てていないからこそ
上述の「オトナ」になりなよ、とよくよく言われているのであろう。

私は、それでもなんとか、抗いたい。その方法を、見つけたい。
それが一体、いつになるのかは、わからないけれども
見つけることを目指さねばならないと思う。
論理が、正義が勝たねば、いけないはずだからである。
そうでなければ、「人間」とは言えないからである。

〔参考資料〕
パスカル『パンセ』前田陽一、由木康 訳、中公文庫、2018年
古川雄嗣『大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す』東洋経済新報社、2018年

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