1. 真実の終わりとフェイクニュース・フェイク科学・フェイク歴史
昨年読んで面白かった本に、アメリカの文芸評論家ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(原題はThe Death of Truth)がある。それによれば現在、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアをとおして、フェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史などの様々な嘘が世界中に溢れている。その結果、「事実が軽んじられ、感情が理性に取って代わり、言語が侵食されることで、真実の価値そのものが低下」している(1)。
この現状を体現するのがアメリカのトランプ大統領である。「トランプの虚言癖はあまりに極端であるため、報道各社が事実関係を調べる校閲者をチーム単位で雇うだけでなく、彼が発した嘘や侮辱、違反した規範の長いリストを作成するという手段に訴えるほどである。」(2)
こうした現象が起きる背景には、ソーシャルメディアが台頭するよりも前から学術界に存在する、相対主義やポストモダニズムがあるというのがカクタニの見立てである。
「相対主義の影響力は1960年代に文化戦争の幕が開いて以降、高まりつつあった。当時それは、西洋中心的、ブルジョア的、男性支配的な思想のバイアスを暴くことに熱心な新左翼と、普遍的な真実を否定するポストモダニズムの真理を唱える学者に採用された。あるのは小さな個人的な真実、つまりその時々の文化的・社会的背景によって形成された認識に過ぎないというのだ。その後、相対主義的な主張は右派のポピュリストに乗っ取られた。」(3)
「乗っ取られ」る過程について、カクタニは別の箇所でもう少し詳しく述べている。
「皮肉なのは、右派ポピュリストによるポストモダン的議論の流用、その客観的実在の哲学的否認の採用だ。〔中略〕トランプが、デリダやボードリヤール、リオタールの作品を読破したことがないのは明らかだ。〔中略〕しかし、思想家たちの理論は、俗物化された産物として大衆文化に浸み出し、大統領の擁護者に乗っ取られてしまった。彼らは、その相対主義的な主張を、大統領の嘘を弁明するために用いようと欲したのだ。右派はそれを、進化論に異議を唱えるため、気候変動の現実を否定するため、もう一つの事実を売り込むために使った。」(4)
「真実は民主主義の基盤である」と考えるカクタニは、本書のなかで、フェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史など様々な嘘の作り手だけでなく、「乗っ取られた」側の相対主義やポストモダニズムの論者も厳しく批判している。
カクタニによれば、ポストモダニズムとは広義には「人間の知覚から独立して存在する客観的実在を否定し、認識が、階級、人種、ジェンダー等のプリズムによってフィルタリングされている」という考え方である(5)。ポストモダニズムの論理では、「科学理論は社会的に構築された」ものであり、「中立的・普遍的な真実であるとは断言できない」。こうした論理は、「圧倒的多数の科学者が同意した見解の受け入れを拒む今日の気候変動否定論者や反ワクチン主義者に道を開いた。」(6)
そして、「明らかに信用できない説の信憑性を高めようとする―あるいは、ホロコースト修正主義者たちの場合に及んでは歴史を数章分も塗り潰そうとする―人々が、すべての真実にバイアスがかかっているというポストモダン的な主張を転用するようになった。〔中略〕脱構築主義的な歴史観は、〔中略〕「どんな事実も、どんな出来事も、歴史のどんな場面も、確固たる意味や内容を持たない。いかなる真実も書き換えられる。究極的な歴史的リアリティなど存在しない」という知的環境を助長しかねない」とカクタニは指摘する(7)。
「脱構築主義は、すべてのテクストが不安定で還元不可能なまでに複雑であり、読者や観察者によってますます可変の意味が付与されると仮定した。あるテクストについて生じ得る矛盾や多義性に焦点を絞る〔中略〕ことで、極端な相対主義を広めた。それが意味することは究極に虚無的だった。何だって、どんな意味でもあり得るのだ。〔中略〕明白な、あるいは常識的な解釈などない。〔中略〕つまり、真実というものなど存在しないのだ。」(8)
このように、現代世界にみられる「真実の終わり」が、20世紀後期に学術界で流行したポストモダニズムによって準備されていたのは否定しがたい(直接的な証拠は無いにせよ、状況証拠は十分にある)。
2. 歴史修正主義と集合知
だがもちろん、ポストモダニズムの論者たちの手でフェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史が作りだされているのではない。カクタニは『真実の終わり』のなかで、フェイクニュースの作り手として、トランプ大統領やその取り巻き、彼を支持する右派ニュースサイト、ロシアの「トロール製造工場」(ロシア政府がネット世論を操作するために設けたとされる組織)をしばしば挙げて非難している。彼らの行為により「民衆が、扇動と政治的操作を受け入れやすくな」っていると言うのだ(9)。
ただ、カクタニが示唆するように、一般市民が常に操作されるだけの受け身の存在であるとは思えない。現代日本の歴史修正主義を例に考えてみよう。歴史修正主義とは、歴史学的な手法を採らず、恣意的な観点から歴史を修正しようとする立場のことである(10)。
1990年代、従軍慰安婦や南京事件などに関する歴史修正主義的な言説が盛んになった。社会学者の倉橋耕平は、こうした言説は歴史を科学ではなく物語として論じる傾向があると指摘する。これにより、歴史の認定をめぐる実証性・客観性は問題でなくなり、歴史はそれを語る主体の価値観によって変わるものになる(11)。
倉橋は、90年代の歴史修正主義的言説が、従来の歴史学の通説に対抗する形で、学術誌・学術書以外の商業的な出版物で展開され、これらの読者を巻き込む「参加型文化」のなかで「集合知」として発展していったと述べている。出版物を中心に展開されたこれらの言説は、やがてネットメディアによって世間に広がっていく(12)。そして、2005年頃には「ネット右翼」が出現する。これは、90年代の参加型文化が継続・発展した結果として生まれた(13)。
ジャーナリストの安田浩一は、歴史修正主義に関する倉橋との対談のなかで、インターネットの情報には「あいだに人が介在しない」という大きな問題があると指摘している。ネットの場合、思いつきで書いた裏づけのない原稿であっても、簡単にアップすることができ、そうした検証不可能な情報を鵜呑みにする人がSNSなどで拡散してしまう。「つまり、デマがネットを通じて広がっていく。」(14)
安田はこのように指摘する一方で、かつては自身を含む多くの人々がインターネットの可能性に大きな期待を寄せていたと述べている。「興味深いのは、立ち位置を問わず多くの人が、ウィンドウズ95の登場に大きな期待を寄せていたことです。大手メディアが隠している情報や、社会の裏側でささやかれているような言説が、ネットによって表に出るのではないか、と思っていたのですね。〔中略〕僕はネットの進化をポジティブに受けとめていた。ウィンドウズ95が発売された当時の僕は、ネットが現在のようなものになるとはまったく思っていませんでした。」(15)
3. 集合知とWeb 2.0・民主主義2.0
安田が指摘するように、かつてインターネットの進化や普及によってより良い社会が生まれるという期待が広く存在した。このような期待感は、今から10年ほど前まで持続していた。梅田望夫の『ウェブ進化論』(2006年)と東浩紀の『一般意志2.0』(2011年)からは、当時のこうした期待感がよく伝わってくる。
『ウェブ進化論』の著者紹介によれば、梅田は「はてなブックマーク」(はてぶ)を運営する(株)はてなの取締役にして、シリコンバレーに在住する「IT分野の知的リーダー」である。梅田は本書のなかで、Googleの登場により、インターネットでの懸案だった「玉石混交問題」を解決する道筋がみえてくるとの期待を示した。「ネット上の玉石混交問題さえ解決されれば、在野のトップクラスが情報を公開し、レベルの高い参加者がネット上で語り合った結果まとまってくる情報のほうが、権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家など)によって届けられる情報よりも質が高い」と彼は予想している(16)。
梅田は、スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』(原題はWisdom of Crowds)に基づいて「群衆の叡智」の可能性を評価し、「不特定多数の参加イコール衆愚だと考えて思考停止に陥る」ことを戒める(17)。そして、今後のIT産業にはWeb 2.0、すなわち「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」が求められると述べた(18)。さらに梅田は、従来のエリートと大衆の間に、ブロガーからなる「総表現社会参加者層」(総人口の10分の1程度)が新たに形成され、彼らを中心とした「総表現社会」が到来することを予言した(19)。
東は『動物化するポストモダン』などの著書で知られる哲学者である。東はスロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』や梅田の『ウェブ進化論』、ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』などを引用しつつ、彼らの主張をさらに発展させる形で『一般意志2.0』を著した。本書では、「群衆の叡智」に相当する「集合知」がキーワードとして用いられる。
「みんなで集まって考えると、ひとりでは生み出せなかったようなうまい回答が出てくることがしばしばある。それが集合知だ」。東は「三人寄れば文殊の知恵」という諺を引きながら、情報技術の革新の結果、我々は三人どころか「三千人、三万人の他者とモニタ越しに関心を共有し、同じ話題を追いかけて意見を集約することができるようになった」ので、「集合知の思想はいまや、まったく異なる規模、異なる可能性のもとで再検討する必要がでてきている」と指摘する(20)。
東は、梅田の「総表現社会」を「総記録社会」と言い換えた。総記録社会では、人々の呟きや行動に関する情報が蓄積されて、巨大なデータベースが構築されている。東はこれを、ルソーの『社会契約論』における「一般意志」概念の現代版、すなわち「一般意志2.0」とみなした(21)。
東は、現代社会では「熟議」や「公共圏」の理想が成立困難であると指摘し、代わりに「熟議らしきもの」・「公共圏らしきもの」を成立させる方法を考えた(22)。現代では「大きな公共」が壊れ、政策課題ごとに専門家や当事者が集まっては「小さな公共」を立ち上げて議論を深めるよりほかない。しかし専門家や当事者の議論はしばしば暴走する。そこで一般意志を可視化し、「暴走する熟議を、匿名の大衆の呟きで制限する」とよい(23)。
例えば、全省庁の審議会や委員会の模様を例外なく中継する。人々がその中継画像を見てUstreamやニコニコ動画にコメントを打ち込むと、その呟きが政策審議の行方に影響を及ぼす。「ひきこもりたちの集合知を活かした新しい公共の場。熟議とデータベース、小さな公共と一般意志が補いあう社会という本書の理想は、ひとつにはそのような制度設計を目指している。」(24)
代議制民主主義には、「熟議はあるがデータベースがない」(25)。しかし、「総記録社会の台頭と一般意志2.0の出現は、わたしたちをまったく新しい民主主義のかたちへと導く」。「選良と大衆、人間と動物、熟議とデータベース、間接民主主義と無意識民主主義のその独特の組み合わせ」を東は「民主主義2.0」と呼んでいる(26)。「もしかりに以上の提案がポピュリズムの強化のように見えたとしても、その流れはもはや押しとどめられない、ならば最初から制度化し政策決定に組み込んだほうがよいのではないか」というのが東の考えである(27)。
4. Web 2.0と集合愚
このように、梅田や東はポピュリズム批判に対抗して、ウェブ上の「群衆の叡智」や「集合知」を正当に評価し、これを役立てることでより良い社会が実現すると考えた。一方、『一般意志2.0』の2年前に、これと正反対の主張を展開したのが中川淳一郎である。ニュースサイトの編集者で自称「IT小作農」の中川は、自著『ウェブはバカと暇人のもの』(2009年)のなかで、ネットの運営当事者の立場から、Web 2.0や集合知に強い違和感を表明する。
中川は「梅田氏の話は「頭の良い人」にまつわる話」だと述べ、「私は本書で「普通の人」「バカ」にまつわる話をする」と宣言する。彼はインターネットによって従来発信の機会のなかった人が発信できるようになったことを評価しつつも、「むしろ、凡庸な人が凡庸なネタを外に吐き出しまくるせいで本当に良いものが見えにくくなること」や「バカが発言ツールを手に入れて大暴れしたり、犯罪予告をするようなリスクにこそ目を向けるべきである」と主張する(28)。
中川は言う。「そもそも、ネットの世界は気持ち悪すぎる」(29)。ネットは「暇人」による「異端なことをしたり、バカな発言をした人物」への「いじめ行為」や所属組織への「「電凸」(=電話突撃=電話で関係者に直撃=単なるチクり≒業務妨害)」(30)、「一般人のどうでもいい日常」(昼ごはんに何を食べただの、ネイルサロンに行っただの、観たテレビ番組の感想だったり、総理大臣への文句だったり)に関する情報で溢れている(31)。真偽不明な情報をもとに名誉毀損の書き込みをする「バカ」もいる。また、ネットニュースは紙媒体と比べて、些細なことでクレームが寄せられる傾向にあり、そのためにライターが意欲を失ってしまうことも少なくない(32)。
本書は、実証的データや技術的知見に基づく学術文献でもなければ、高邁な理想を語った思想書でもない。基本的には、ネット上でおきたB級事件を多数紹介する本である。しかし、中川がニュースサイトの編集経験で得た次の指摘は大いに傾聴に値する。
・「Web 2.0というものが、少なくとも頭の良い人ではなく、普通の人を相手にしている場合は、たいして意味がない〔中略〕。相手が暇つぶしの道具としてインターネットを使っている「普通の人」か「バカ」の場合、双方向性は運営当事者にとっては無駄である。」(33)
・ニュースサイトの「コメント欄のコメント数が増えると質は低下してくる。」(34)
・「人が多く集まれば集まるほどヘンな人が含まれていたり、その場を乱そうとする人が出る。単にストレスを吐き出したい人も出てくる。」(35)
中川は、ネット掲示板の誤情報を鵜呑みにしてヒアルロン酸を自ら注射し後遺症を負った女性の話や、いわゆる「田代祭」(36)の騒動を例示し、これらを「集合愚」と呼んでいる。結局、「ネットの声に頼るとバカな声ばかり集まる」のだ(37)。
5. 民主主義2.0と「表現の不自由展・その後」
中川は『ウェブはバカと暇人のもの』刊行から10年が経過した昨年、自著を梅田の『ウェブ進化論』とあらためて比較し「多分私が述べたことの方が理解されるだろう。ウェブはやっぱりバカと暇人のものだった」と述べている(38)。確かに中川が指摘するとおり、集合愚が集合知を上回っているのがインターネットの現状である。梅田や東も、後にインターネットについての認識を改めている。
梅田は『ウェブ進化論』から2年後の2008年、自身のTwitterで「はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる」と呟き、これが“炎上”してしまう。彼はこの頃には「Webについて語ることは少なく」なっていた。翌年のインタビューでは「今のネット空間について〔中略〕残念に思っている」と述べ、『ウェブはバカと暇人のもの』についても「そう言われればそういう切り分け方はあるんだろうなと思った」と一定の評価をしている。英語圏では「総表現社会参加者層」のような層が分厚く存在し、彼らがリーダーシップを発揮しているのに対し、「今の日本のネット空間では、そういう人が出てくるインセンティブがあまりないわけさ、多くの場合」と彼は指摘する(39)。
2013年には、情報学者の西垣通が『集合知とは何か』を著した。この中で西垣は、梅田や東が依拠したスロッウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』を厳しく批判している。ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』については「この指摘は、ルソーの社会契約論などの議論を、安易にネット集合知に結びつけることに対する痛烈な警告といえる」と評し、東が同書を誤読して引用したことを示唆している(40)。西垣は「今や、地球上の無数のコンピュータ群をインターネットで結び、あらゆる知識を高速検索することが可能になったのだから、〔中略〕その延長上に集合知が自動発生すると勘違いしている連中さえ少なくない」と批判している(41)。
『一般意志2.0』は2015年に文庫化されたが、その「文庫版あとがき」のなかで東は、自説の有効性を強調しつつ、本書で「民主主義2.0」という言葉を用いたことが誤解を招いたと「反省」している。「ぼくの考える「一般意志2.0」または「民主主義2.0」は、〔中略〕欲望(一般意志)と政治(統治)のあいだの闘争のアリーナを意味する言葉なのである。ぼくは、大衆の「民意」がそのまま政治を動かし始めたら、世界はヘイトと暴力ばかりになると確信している。」(42)しかしそもそも、「小さな公共と一般意志が補いあう社会」の実現が「本書の理想」ではなかったか?仮にそれが「ポピュリズムの強化」のように見えたとしても。
昨年8月3日、東が企画アドバイザーを務める国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止が決まった。慰安婦を連想させる少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品の展示などが問題視され、事務局や愛知県庁へ電話・FAXなどで抗議が殺到した。その際、応対する職員に激高したり、脅迫やテロ予告を行ったりする者もおり、職員が疲弊してしまったのが中止の理由である(43)。
その背景として、SNSで作品に対する誤解を含む批判が拡散され、「来場していない人たちから強い拒否反応と抗議を受けた」(44)ことや、「電凸」のマニュアルがネット上で共有され、これに基づく執拗な抗議が相次いだこと(45)があった。穏当な抗議ならまだしも、激高や脅迫、テロ予告などについては「バカ」としか言いようがない。
東は同月14日、自身のTwitterで企画アドバイザーの辞任を発表した。そこにはこのように記されていた。
「ぼくの観察するかぎり、今回「表現の不自由展」が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、政治家による圧力や一部テロリストによる脅迫にあるのではなく(それもたしかに存在しましたが)、天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。」「それら抗議は検閲とはとりあえずべつの問題です。日本人は天皇を用いた表現にセンシティブすぎる、それはダメだと「議論」することはできますが、トリエンナーレはその日本人の税金で運営され、彼らを主要な対象としたお祭りでもあります。芸術監督として顧客の感情に配慮するのは当然の義務です。」(46)
この文面からは、「一般意志」、あるいは「バカ」や「集合愚」に対する「闘争」の意思を感じとることはできない。あいちトリエンナーレ2019芸術監督の津田大介は、この企画展が大衆からのクレームという「下からの検閲」を受けたと指摘するが(47)、「民主主義2.0」の思想はこうした「検閲」には全く無力である。
さらに東は10月に、「思うところあって」個人のTwitterアカウントを削除してしまった。彼はその告知文(48)のなかで「ツイッターにはほとほと疲れました。」「インターネットは僕たちの生活の可能性を広げましたが、同時にすごく不自由にもしました。」「いいかえれば、いまのSNSはまったくオルタナティブメディアではなくなっている。〔中略〕おそろしく画一的で同調圧力の強いメディアになっている。そんなところを主戦場にするのは、もう違うな、という気分もありました」と述べている。彼はもはや「一般意志2.0」と対話することを諦めてしまったのだろうか?
6. 「民主主義3.0」?
今回の展示中止事件の背景には、慰安婦問題に関する歴史修正主義の存在が指摘されている。例えば、8月2日に展示会場を視察した河村たかし名古屋市長は、慰安婦問題について「事実でないという説も強い」と発言し、少女像の撤去を求めた(49)。8月5日には、慰安婦の強制連行は「事実と違う」と述べている(50)。これらの発言は事実と異なる歴史修正主義の言説であり、電凸を後押ししたと批判されている(51)。哲学者の西谷修は、こうした歴史修正主義の言説が、情報「民主化」のSNSの時代に「ポスト・トゥルース」状況の出現とともに「自由」を獲得したと指摘する(52)。
この事件は、現代社会の「真実の終わり」や「集合愚」を象徴する出来事である。今後も我々は「真実の終わり」や「集合愚」に悩まされることが続きそうだが、一方で楽観的な見方もある。先月の日本経済新聞朝刊に「プラトンと「民主主義3.0」」というコラムが掲載された。このなかで政治部次長の桃井裕理は次のよう主張している。
「市民参加や熟議の政治には時間とコストがかかる。直接民主主義から間接民主主義に移行した歴史に逆行するようにもみえる。だが今や人工知能や量子コンピューターも実現する時代だ。技術の力で時間とコストを節約しつつ民意を広く映し出す「民主主義3.0」の模索も可能ではないか。
紀元前4世紀、プラトンは民主主義を厳しく批判した。民主制は必ず衆愚政治に陥り、過度の自由に疲れた民衆は独裁者を連れてくるという。今、世界はプラトンの予言そのものだ。
だが21世紀を生きる人々が紀元前の予言を覆せないわけがない。20年代を流れを変えた時代とするためにまずは議論から始めよう。そしてまだ分断の前で踏みとどまれている日本には世界を変えるイノベーション発信地となる資格がある。」(53)
このコラムは「民主主義2.0」には言及していない。だが「民主主義3.0」を語る前に、まずは「民主主義2.0」について十分に検証してもらいたいものだ。もし「民主主義2.0」の欠陥も人工知能や量子コンピューターでどうにかなると考えているならば、何とも能天気な話である。
(1)ミチコ・カクタニ著、岡崎玲子訳『真実の終わり』集英社、2019年(原著2018年)、8頁。
(2)『真実の終わり』77頁。
(3)『真実の終わり』12頁。
(4)『真実の終わり』35~36頁。
(5)『真実の終わり』37頁。
(6)『真実の終わり』41~42頁。
(7)『真実の終わり』43頁。
(8)『真実の終わり』44頁。
(9)『真実の終わり』8頁。
(10)安田浩一・倉橋耕平『歪む社会―歴史修正主義の台頭と虚妄の愛国に抗う』論創社、2019年、17頁。
(11)倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー―90年代保守言説のメディア文化』青弓社、2018年、47~48頁。
(12)『歪む社会』38~45頁。
(13)『歪む社会』183頁。
(14)『歪む社会』185頁。
(15)『歪む社会』同184~185頁
(16)梅田望夫『ウェブ進化論―本当の大衆化はこれから始まる』ちくま新書、2006年、16頁。
(17)『ウェブ進化論』同205~206頁。
(18)『ウェブ進化論』120頁。
(19)『ウェブ進化論』148~150頁。
(20)東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』講談社、2011年、29~31頁。
(21)『一般意志2.0』83~89頁。
(22)『一般意志2.0』119~120頁。
(23)『一般意志2.0』157~158頁。
(24)『一般意志2.0』176~177頁。
(25)『一般意志2.0』175頁。
(26)『一般意志2.0』198頁。
(27)『一般意志2.0』183頁。
(28)中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの―現場からのネット敗北宣言』光文社新書、2009年、18~19頁。
(29)『ウェブはバカと暇人のもの』11頁。
(30)『ウェブはバカと暇人のもの』31~34頁、58~62頁。
(31)『ウェブはバカと暇人のもの』64~67頁。
(32)『ウェブはバカと暇人のもの』82~90頁。
(33)『ウェブはバカと暇人のもの』92頁。
(34)『ウェブはバカと暇人のもの』97頁。
(35)『ウェブはバカと暇人のもの』240頁。
(36)「2ちゃんねる」ユーザーらが、米『Time』誌の「Person of the Year」のネット投票でタレントの田代まさしを1位にするため、自動投票ツール(通称「田代砲」)を開発して大量投票した出来事。
(37)『ウェブはバカと暇人のもの』108~117頁。
(38)中川淳一郎「ウェブは「バカと暇人と格差社会勝者のもの」になった」『BLOGOS』2019年10月18日付(2020年1月6日閲覧)。
https://blogos.com/outline/411349/
(39)岡田有花「日本のWebは「残念」梅田望夫さんに聞く(前編)」『ITmedia NEWS』2009年6月1日付(2020年1月6日閲覧)。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html
(40)西垣通『集合知とは何か』中公新書、2013年、21~42頁。
(41)『集合知とは何か』77頁。
(42)東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』講談社文庫、2015年、332頁。
(43)黄澈・前川浩之「表現の不自由展 中止」『朝日新聞』2019年8月4日付朝刊。千葉恵理子・上田真由美「抗議・脅迫 エスカレート」同上。
(44)あいちトリエンナーレのあり方検討委員会『「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書』2019年12月18日付、12頁(2020年2月14日閲覧)。
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/267118_926147_misc.pdf
(45)「「電凸」を考えませんか?」『NHK NEWS WEB』2019年8月14日(2020年2月14日閲覧)。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/enjyou/expression/articles/expression_20190814-02.html
(46)現在、このTweetは後述の理由により閲覧できないが、次の記事で全文を読むことができる。神庭亮介「東浩紀があいちトリエンナーレのアドバイザー辞任へ」『BuzzFeed News』2019年8月14日付(2020年2月10日閲覧)。
https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/azuma
(47)津田大介「論壇時評」『朝日新聞』2020年1月30日付朝刊。
(48)「ゲンロン」(東が創業した企業)の公式Twitterで2019年10月26日に告知された(2020年2月10日閲覧)。
https://twitter.com/genroninfo/status/1188028210551775233
(49)山田泰生・野村阿悠子「名古屋市長「慰安婦像撤去を」」『毎日新聞』2019年8月3日付朝刊
(50)名古屋市「令和元年8月5日 市長定例記者会見」2019年8月28日更新(2020年2月17日閲覧)
http://www.city.nagoya.jp/mayor/page/0000118997.html
(51)吉井理記「「慰安婦問題はデマ」というデマを考える 中央大名誉教授 吉見義明さん」『毎日新聞』2019年9月13日付夕刊。岡本有佳「<表現の不自由展・その後>中止事件―当事者として記録する二七〇日の断章」岡本有佳・アライ=ヒロユキ編『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件―表現の不自由と日本』岩波書店、2019年、30~32頁。
(52)西谷修「日々実践されている歴史修正―何が展示を中止させたか」『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』226頁。
(53)桃井裕理「プラトンと「民主主義3.0」」日本経済新聞2020年1月12日付朝刊。
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