2022年11月18日金曜日

手書きの地図

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、文化人類学・民俗学の中村亮先生です。


 ある人との何気ない会話中「○○というお店に行ったことがありますか?」と聞かれた。「ないですね」と答えると、その人は「場所はここなんですよ」と言いながら、紙に地図を描いてくれた。私はそれを手にし、店の場所を確認しながら、「久しぶりに手書きの地図を見たなぁ」という思いにひたった。今の生活ではどこへ行くにもインターネットの地図アプリを使うことが多い。人に場所を説明する時も、目的地の名前や住所を伝えるだけで、あとは地図アプリにお任せである。最後に手書きの地図を描いたのはいつだったろうか?

 私はかつて、文化人類学のフィールドワークで「手書きの地図」をよく使っていた。とは言えそれは道案内のためではなく、人びとの「空間認識」を知るためであった。2000年からタンザニア南部のキルワ島という小島で漁民文化について調査しているが、その当初、漁業に詳しい人を探す目的で、「島の地図を描いてください。そしてそこに漁場も書き加えてください」などと複数の漁師にお願いすることがあった。島の形を正確に描けたり、多くの漁場を示すことができる漁師は、観察力や記憶力がものをいう空間認識に優れた人だと判断できる。そして大抵の場合「腕の良い漁師」なのである。

 このように、その土地に住む人びとの空間認識を表象した地図のことを「認知地図(cognitive map)」とよぶ(竹川2002)。キルワ島で、詳細な認知地図(注1)が描ける人になかなか出会えなかったところ、ミルンバという一人の若い漁師が驚くほど上手な地図を描いてくれた。多数の漁場に加え、島のマングローブの分布や、マングローブを切り開いて作った船着き場など、私のリクエストに応えて地図にどんどん情報を加えてくれた。翌日、ミルンバと一緒に島をめぐり歩き、彼の描いた地図が正確であったことがわかった。2003年の出来事であったが、それ以来今日まで20年近く、ミルンバは親友として私の調査に協力してくれている。

 タンザニアでの調査と並行して、2011年から、スーダンの紅海に面したドンゴナーブ村という沙漠の漁村でも調査を始めた。村の面前に広がるドンゴナーブ湾の漁民文化について調べるために、漁業に詳しい人に協力してもらう必要があった。ますは腕の良い漁師探しである。ここでも「認知地図」を活用することとなった。

 ドンゴナーブ村では、スーダンの紅海大学のフィールドステーションに間借りして住み込み調査を行なった。このフィールドステーションに頻繁に遊びにくるイーサーという四十歳代の漁師がいた。聞くと、「俺は漁業についてよく知っている」と言う。大抵の漁師はこう答えるので、彼の言葉に半信半疑ではあったが試しに、「ドンゴナーブ湾の地図を描いてください」とお願いしてみた。もちろん、事前に衛星写真などを見せることなく、日々の漁の経験からイーサーの頭の中にあるドンゴナーブ湾の空間イメージをそのまま描いてもらったのである。

 
「いいよ」と言ってイーサーはスラスラとペンを走らせた。そしてものの五分ほどでドンゴナーブ湾の地図を描きあげたのである。それが図1である(村から湾を望む構図になっているので左手が北)。これを実際の地図(衛星写真)と比べてみると、小さな入り江や岬、湾内の小島などの地理的特徴がきちんと描かれており、イーサーがドンゴナーブ湾について詳細な空間認識をもっていることが分かった。なんという幸運であろうか。この村で初めて親しくなった漁師が、優れた空間認識をもった人物だったのだ。 

図1.イーサーが描いたドンゴナーブ湾の地図(右下は衛星写真)


 この地図にさらに、主要な漁場の場所を加えてもらったところ、それぞれの漁場の位置、名前、水深、海底の質、獲れる魚などについてイーサーがとても詳しいことがわかった。ドンゴナーブ湾の自然と漁業について学ぶにあたり、彼以上の先生はいないと判断し、すぐさま調査への協力をお願いした。その後8年にわたり、イーサーのおかげで、ドンゴナーブ湾の漁民文化について詳細に調べることができたのである。

 キルワ島のミルンバも、ドンゴナーブ村のイーサーも、二人とも漁の腕は確かで、人格も優れた尊敬すべき人物である。そういった人たちと長い間親交を結ぶことができたことは、フィールドワーカーとしての私の誇りでもある。この文章を書くにあたり、二人との出会いや一緒に成し遂げてきた調査のことを懐かしく思い出しながら、あらためて「手書きの地図」が引き合わせてくれた縁に深く感謝するのである。

注1:ここでの「詳細」とは、距離や地形描写が正確であるという意味だけではなく、生活において重要な情報がいかに多く描かれているかを意味する。実際の地図とは似ていなくても、生活や生業に役立つ情報がつまったものであれば、それは詳細な認知地図であるといえる。

参考文献

竹川大介2002「結節点地図と領域面地図、メラネシア海洋民の認知地図」松井健編『核としての周辺』京都大学学術出版会、pp. 159-193.


2 件のコメント:

  1. 空間認識は鍛えられるものなのか、それとも生来のものなのか気になりました。

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    1. コメントありがとうございます。中村先生からの返答は以下の通りです。

      「空間認識」は先天的なものというより、後天的に日常的経験の中で育てられるものだと思います。その人が何を重要視するかによって、空間認識において強調されるものも変わってきます。したがって、同じ環境にいても、人によって空間認識が異なる(=認知地図の詳細度や強調点が異なる)点が面白いですね。例えば、同じ「教室」という環境でも、教師と生徒とでは教室という空間の認識が異なる、のような感じでしょうか。

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