2018年11月24日土曜日

倫理的な議論のための、非(反?)倫理的な思考実験?

平成30年度第11回目の「教員記事」をお届けします。哲学の林 誓雄先生です。今回の記事では、若干グロテスクな・人によっては想像するだけで嫌な気持ちになるような表現が出てきます。心臓の弱い方、グロテスクなものが苦手な方、辛いことを考えるのは嫌だという方は、お読みにならないことをお勧めします。お読みになられる場合は、何が起ころうと、ご本人の自己責任となりますこと、予めご了承ください。



倫理的な議論のための、非(反?)倫理的な思考実験?
   
     林 誓雄(哲学

 今年の私のゼミでは、毎回、倫理的に問題となるトピックを一つとりあげて、冒頭40分、それについてグループワークをした後、グループで出た意見や主張をとりまとめてプレゼンしあった上で、全体でディスカッションを行なっている。とある回のトピックは「安楽死」であった。古典的な、しかし、医療技術が進歩する昨今、ますますその判断が難しくなっている、倫理学における王道のトピックである。このトピックについてゼミの時間に議論するにあたり、あらかじめゼミ学生には、次の課題について、それぞれ考えてもらっておいた。

「治療中止」(医療者が、今やっている治療の継続を中止して、患者を死ぬに任せること:例 人工呼吸器のスイッチを切る)と「自発的・積極的安楽死」(医療者が、患者からの依頼を受けて、致死薬=毒物などを注射器や点滴で投与することによって患者を殺すこと)を区別した上で、自発的・積極的安楽死を、あなたが医療者に頼んで実現することは、道徳的に許されることだろうか?
この問いについて考える上での条件は、次の通り。この場合の患者は、あなたの愛する人(家族や恋人など)とする。また、仮に安楽死が実現した場合、医療従事者、および安楽死を依頼したあなたは、法的な罪に問われるものとする(例:懲役2年執行猶予2年)。日本において、安楽死OKとする場合、NGとする場合、それぞれの場合の理由を一つ以上考えた上で、最終的に自分がどちらの立場に立つのか、考えてくること。

 「倫理学」を授業で講じている身として、安楽死については一通り、どういう論点があるのかということを、把握しているつもりであった。そのため、実は教員としては、安楽死というトピックは、そこまで掘り下げるには値しない・ある程度答えが出てしまっている(ので、つまらない)ものであるという印象を持っていた。
 従来の議論を、簡単に紹介しておくならば、次の通りである。安楽死は、「(医療者側の・一般に考えられる)生命の神聖さ」と「(患者側の)生命の質」の対立の問題として描かれることが多く、近年、「患者の自己決定権」は尊重されるべきだという論調が強いことから、「生命の質」の方が支持され、その結果として、倫理的に安楽死は認められるべきだ、という主張が大勢を占めているように思われる。もちろん、日本において、医療者による積極的安楽死は法律で禁止されており、条件付きで(東海大学安楽死事件の4条件)なら認められるという判決を裁判所が下している。とはいえ、この条件付き安楽死については、いまだにその条件を満たす案件が出ておらず、実質的に日本において安楽死が合法的に行われたことはない。しかし、これ以上ない苦痛に苛まされている患者からの強い意思を尊重するならば、慈悲の心でもって早く楽にしてあげることこそが倫理的であると、一般には考えられているように思われるし、そのような風潮を受けて、安楽死の議論が日本において活性化することを望む研究者もいる*。そして実際に、私のゼミにおいても、学生たちの出してくる意見・主張は、「安楽死許容」に傾くものが多かった。

*参考:「安楽死という選択」〔「児玉聡の倫理学的にはどうなの?」より〕[2018.11.24確認]

 さて、ゼミの教員として、やはりそれでは物足りないわけである。ありきたりでいつも通りの穏当な結論は、哲学・倫理学をやっている身からすると、つまらないものである。むしろ、これまでにない、別の観点からも、このトピックについて考えてもらいたい、さらに掘り下げて考えもらいたいという思いがどうしても募ってしまう。「安楽死」というトピックの論点は、「患者の自己決定権を尊重する」のか、それとも「生命の神聖さを守り抜く」かのどちらか、というもので尽きるはずはない。もっと別の、考えるべき論点があるのではないか、と。しかしそれでは、どのようなさらなる論点が、安楽死について議論する場合にありえるのか。......いろいろと考え抜いた挙句(というよりも、学生たちに、患者の意思や自己決定権を重視する立場から離れてもらうことを当初は目的として)、ゼミの後半で議論が煮詰まってきたときに、先の課題に加えて、以下の話を提示し、再度「安楽死」の問題について考えてもらった。(注意:以下は、グロテスクな内容が含まれていると考えられるため、文章をドラッグするなどして反転させなければ読めないようにしてあります。そういった内容が苦手な方・不愉快に感じられる方は、読まないでください。)

愛する人(末期ガン余命3ヶ月。毎日激痛に苦しみほとんど眠れない)が安楽死を望んでいる。その人は、自身では死ねないので、あなたに自分を殺して欲しいと頼んでいる。医療者は安楽死を認めず、協力してもらえないので、あなただけが頼りである。さて、愛する人を安楽死させることを、あなたは受け入れ、実行するべきだろうか?
仮に、あなたが安楽死を実行しない場合、愛する人は3ヶ月間、地獄のような苦痛に四六時中苛まされて死んでいく。他方、あなたが愛する人を安楽死させるには、金属バットで頭を3回叩き割らねばならない(その他の手段が様々な事情で使えない、とする)。なお、1回バットで頭を殴ると、愛する人は気絶するので、これに関連する痛みについてはカウントしなくてよい(その意味でも、「安楽」死である)。ただし、完全に殺すには、あと2回、全力で頭を叩き割る必要がある。また、あなたが愛する人を殺しても、罪には問われない。さて、あなたは、愛する人の望みを受け入れて、安楽死を実行するか?  それとも、望みを受け入れず、愛する人が3ヶ月の間、地獄のような痛みを感じ続けることを、見守るか?

 大変辛い状況である。愛する人は、いま現在、これ以上ない苦痛に苦しんでいる。他方で、それを救う(?)方法として「あなた」に残されているのは、極めて悲惨な・暴力的な手段のみである。条件として、法律上、罪には問われないとされてはいるが、しかし、愛する人の願い・望みだからといって、そこまで悲惨で暴力的な手段をもちいて安楽死を実行することに、ためらいを覚える人は少なくないのではないだろうか。そうだとすると、おそらく安楽死について議論するときに、これまでとは異なる論点があるとしたら、それは、次の点にあると考えられるのである。すなわち、たとえ「安楽死」と呼ばれるとしても、しかしやっていることは依然として「殺人」であるわけだから、そのために自分の手が汚れ、そして自分の人生も、「殺人者の人生」となるわけだから、拭きれない穢れを帯びてしまうことになる。果たして、愛する人の願いを叶えること・愛する人の自己決定権を尊重することは、自分の手が汚れてしまうことを防いだり、穢れなくひたすら善く生きようと努めてきた自分の人生設計が狂ってしまうことを防いだりすること以上に、重視されなければならないことなのか。

 たとえ求められていることが「殺人」であるとしても、それこそが愛する人の願いなのだから、自分の手を汚すくらいのことは引き受けるべきなのであり、愛する人を殺したのちには、自分の人生は永久に善いものにはなりえないことを、どこまでいっても幸福にはなり得ないことを、受け入れるべきである。愛する人を殺して、自分の人生も台無しとなる。しかし、まさにそれこそが「純愛」なのである。このように言われることもあるかもしれない。もちろん、この話が、「愛する人」と「自分」という二者間の出来事であるのならば、愛だなんだということで、そのように納得してもよいのかもしれない。しかしながら、現実問題として、「安楽死」には医療者が、実際に手を汚す者として、「殺人」を実行する者として、関わってくる。そして、医療者にとって、「自分」の愛する人は、担当する患者の一人ではあるのだろうけれども、しかし依然として赤の他人に過ぎない。そのような赤の他人のために、医療者はどうして、自分の手を汚さなければならず、これまで徳を積み続けてきた自分の人生を台無しにされなければならず、そして、臨終の間際に人生を振り返って、なんの落ち度も穢れもない善い人生だったと幸せな気持ちに浸る瞬間を奪われなければならないのだろうか。そこまでの義務が、自分の人生を犠牲にしてまで患者に尽くさなければいけない義務が、医療者に、本当にあると言い切れるのだろうか。もともと、病気に苦しむ人を一人でも救いたいと強く願い、そのために日々過酷な仕事をこなしながら、命を救い続けてきた医療者に、たとえ手段が注射器で毒薬を投与するという、見かけは悲惨でも暴力的でもないやり方ではあるにしても、しかし、患者の自己決定権は尊重されるべきだからという理由で、安楽死の実行を求めても・強いてもよいのだろうか。自己決定権とは、他人に手を汚させることになっても、他人の人生を台無しにしてその人の幸福な人生を奪うことになっても、守られるべきものなのだろうか……。ただし、だからといって、医療者に安楽死を依頼せず、「自分」には、自らの手を汚すこともできないのならば、愛する人には3ヶ月もの間、地獄のような苦痛に四六時中苦しむことになることを受け入れてもらうしかなく、「自分」もその様子を見守り続けなければならない。「なぜ殺してくれないのか」「なぜ楽にしてくれないのか」と訴える愛する人から、恨まれ続けながら...である。大変難しく、悩ましい問題である。ここまで読んでくださった方は、どうすればよいとお考えになるだろうか。

 ところで、この話をゼミにて持ち出したのち、学生たちはだいぶん混乱したようでもあった。中には、悲惨で暴力的な手段を使うことを想像し、苦悩している学生もいたように記憶している。しかし、倫理学を学ぶときには、あるいは倫理・道徳について考えるにあたっては、ときにこのような、悲惨で辛く、想像するだけでも苦しくて泣きそうになるような場面について、考えなければならないことがある。そうした場面について考えてみなければ、倫理的な問題の本質的な論点は、見えてこないのかもしれないのだ......。

 とはいえ、そのような辛い目にあってまで、倫理的な問題の本質的な論点について、われわれは考察しなければならないのか、と疑問に思う人がいるかもしれない。むしろ、「そのような辛く悲惨なことを、教育という名目で学生に考えさせるだなんて、この林とかいう教員は、ひどいやつなんじゃないか。あんな悲惨な例を思いつくだなんて、性格が邪悪な方向にひん曲がっているのではないか。そもそも、そういうことを考えさせるのって教育じゃなくて、アカハラ・モラハラなんじゃないのか?」と思う人がいるかもしれない。いやいや、違いますよ誤解ですよ私は学生たちから優しい先生だと常日頃から評判の明るくて気前が良くて卒論の諮問で毎回学生を泣かせたりとかしてないですしねこれほんとハラスメントとかからは一番遠いところにいると評判なのでしてあの......。(この記事のせいで、来年度のゼミ希望者が、ゼロになりませんように。)

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