「教員記事」をお届けします。第十一回は古代哲学の小林信行教授です。
年寄り趣味で申し訳ありませんが(小林信行教授)
年寄り趣味丸出しで申し訳ありませんが、小説にせよ劇にせよ、いわゆる時代ものを好んで読んだり観たりすることが多いこのごろです。本当は洋の東西を問わないのですが、気楽にしたい場合はどうしても日本のものが中心になります。ただし古代ものとか戦国時代や幕末時代にはあまり興味はなく、むしろどちらかというと武家社会が形成されて平和で安定した江戸時代ものに限られており、きわめて狭い興味かもしれません。それでも年長者の需要を考慮してか、かなり多くの作品が提供されており、眠りに就く前のひとときを楽しませてくれます。
ただ残念なことに、現代ではファンタジーものが商売とされたり、あるいはCGなどが駆使された映像が作られて辟易としてしまうことが多いので、期待を満たしてくれるような小説や劇に出会うことはあまり多くはありません。アナログ時代のものはどうしてもそれなりのリアリズムを求めたくなります。たとえばとうの昔に既婚婦人のお歯黒が省略されて演出されるようになり、時代劇の与えていたある種のグロテスクさがすっかり失せてしまったり、もっと意識して丁寧に描かれるべき身分制度もデモクラシーの波に飲み込まれてしまい、いたずらに女性が活躍する物語りになってしまうと、もはや単なる娯楽や現代イデオロギーの喧伝以外なにものでもないように思われます。風俗や身分制度ばかりではなく、それぞれの時代にはそれぞれの制約や条件や約束事や前提が無数にあり、その緊張の中で苦労して生きぬいてゆくところを丁寧に描く点に時代ものの醍醐味もあるし、そこから学ぶべきことも多いのではないかと思っています。
自分の周囲に幾重にも張りめぐらされた網の目のような複雑で窮屈な社会制度や人間関係と向き合って生きるしかない時代では、そこから無理に逃れ離れようとすると直ちに命がけとなってしまう場合もまれではなかったと思われます。恋愛関係ひとつを取ってみてもそうでしょうし、仲間との些細な諍いさえもすぐに決闘や自決にまで発展してしまうのですから。もちろん、現代でも似たような状況ではないか、と言われるかもしれません。そのように指摘するひとは現実をよく見ているほうではないかと思います。なにも死ななくてもいいではないか、もっと別の生き方だってあるのに、というのが多様な生の可能性を提供されている昨今の一般的な感覚でしょう。たしかに腹切りや心中といった行為は、それなりの説得力をもたなければ不合理や狂気と見なされます。しかし他面では、どこかでそのような緊張感を伴う生を送っていなければ、ひとはただ生きることに執着したり、享楽に耽る人生を送ることになりかねないとも思われます。なんの心配もない平和な時代に人のいい仲間と楽しく面白く好き勝手に生きている状況は、劇や小説に仕立てられてもすぐに退屈してしまいそうです。日曜日の夕方はみんなでホームドラマ・アニメを見て笑っているという一家団欒の図式は平和の象徴にはなるでしょうが、自家中毒症状にも似た閉塞的な印象もまぬがれません。
安穏とした環境で命や生それ自体をたたえることとは、なにか美的雰囲気をかきたてるところがあります。しかしやはり現実から目を背けていたり、あるいは数世紀前のヨーロッパ思潮の古色蒼然たる信念に囚われている可能性もあります。私たちと同じように繁栄する社会に生きていたと思われる古代ローマ人でさえギリシアから受け継いだ「自らの分を知れ」「死を思え」という格言を大切にしていたようですが、生成消滅の必然についてしっかりした認識をもっていたのではないでしょうか。ここで悲観論を主張したいわけではありません。むしろひとが生きてゆくときにどのような選択をするのかという問題です。捕食動物に狙われた脆弱な動物たちはいつも悲鳴を上げ平穏な世界を願うでしょうが、同時にそのとき自分を犠牲にして子供を逃すかそれとも我先に逃げ出すかの大きな岐路にも立たされます。TVで紹介されて有名になったアメリカ人研究者の白熱教室でも類似的な難問が提示されていました。ある線路上で保線工事をする五人の労働者のところにブレーキが故障して暴走する電車が近づきます。運転手であるあなたは、そのとき脇にある待避線に気づきます。しかしその線の先にも仕事をする一人の労働者がいました。さてあなたはどちらの線を選びますか。これはひとを困惑させるためだけの知的遊びやパズルでしょうか。いや、どこかで私たちが遭遇している現実であることを忘れるべきではありません。アリストテレス的言葉づかいにならえば、私たちの願望は現実を無視することもできますが、選択は生成消滅する現実的諸制約の中でなされる、ということです。
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