2020年8月3日月曜日

中世ヨーロッパにおける健康、あるいは医師としてのイエス・キリスト

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、宗教学の小笠原史樹先生です。


昨年9月、九州産業大学で開催された某シンポジウムで登壇した際、「中世ヨーロッパにおける健康」について質問されて何も思いつかず、「今後の課題にさせて下さい」と答えた。「今後の課題にさせて下さい」とは、つまり「わかりません、ごめんなさい、許して下さい」という意味である……いや、このまま何もせずにいると、そのような意味になってしまう……。

もし今、改めてこの質問に応答しようと試みるならば、何が話せるだろう? 付け焼き刃に西洋史関連の本を紐解きつつ、知ったかぶりをして、例えば、次のように話してみることができるかもしれない。

「中世ヨーロッパにおける『健康』に関しては、月並みですが、とりあえず二つの文脈について考えてみる必要があります。一つ目は、古代ギリシアやイスラーム世界の影響を受けた、当時の医学です。宇宙が空気、水、火、土という四つの元素から成り立つのに対応して、人間の身体も血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁という四つの体液から成り立つ、という『体液説』があり、この説によれば、健康とは、これらの体液のバランスがとれている状態のことで、逆に病気とは、これらの体液のバランスが崩れている状態のことです。体液の割合によって、その人の性格・気質も決定される、と見なされており、血液の多い体質の人は明るく、粘液質の人は鈍重、黄胆汁質の人は怒りっぽく、黒胆汁質の人は憂鬱、とされたりします。」

「体液の割合は人によって異なるため、どのような状態が『バランスのとれている状態=健康』なのか、という点が個々人によって変わってくるだろうことも、興味深いところです。また、人間の身体が宇宙との対応関係で捉えられている、という点を特に強調するならば、健康とは、人間が宇宙の秩序を体現していること、あるいは人間と宇宙とのバランスがとれていることであり、病気はその逆、とも言えそうです。なお、健康な生活のためのポイントとして、呼吸、飲食、運動、睡眠、排泄などと並んで、情念について論じられることもあり、健康は単に、身体だけの問題として捉えられているわけではありません。」

「考慮すべき二つ目の文脈は、キリスト教です。この場合も、やはり人間と宇宙・世界との関係が問題になります。人間は神によって、この世界の秩序を体現し、この世界に調和する存在として創造された。しかし、最初の人間であるアダムが罪を犯したため、今や人間は堕落し、世界の秩序を乱している。この悲惨な状態からの完全な救済は、イエス・キリストを通して、終末のときに実現される――。以上のような、①堕落以前の健全な状態(健康)、②堕落後の病める状態(病気)、③最後の治癒・回復(健康)、という三段階の流れが、上記の『体液説』に重なります。バランスのとれた存在として創造されたはずの人間において、にもかかわらず体液のバランスが崩れるのは、アダムが犯した罪の故。①から③へ向かう大きな流れの中で、つまり『かつて健康であり、今病んでいるが、やがて癒される』という『旅』の途上で、人間は健康や病気を経験しながら生きている、というわけです。」

「人間の身体内部の調和、人間と宇宙・世界との調和に、さらに人間と神との調和の問題が加わってくる。医学的な『健康/病気』と神学的な『健康/病気』が重なる。まずはこの点に、中世ヨーロッパにおける『健康』の特徴を見ることができそうです。」

……と書いてはみたものの、しかし、この説明はあまりにも大雑把すぎるし、不正確でもある。そもそも「中世ヨーロッパ」という言葉でどの範囲を指すのか、より明確にしない限り、ちゃんと何かを説明したことにはならない。しかも最近、文化学科の新入生を対象にした必修科目で、「高校までの勉強と大学での勉強の違いは、一次資料を使うかどうかにある。大学では、教科書を暗記するのではなく、教科書を疑う。一次資料まで遡って調べ直し、教科書を書き直す」とか、偉そうに話したにもかかわらず、上記の説明では一次資料を使っていない……。

医学的な「健康/病気」と神学的な「健康/病気」が重なる、という点も、決して中世に固有なものではなく、他の時代にも見られる。今更ながら、ほんの少しだけ一次資料を参照してみると、例えば古代末期、4世紀後半から5世紀前半に生きたアウグスティヌスは、『キリスト教の教えについて』(De doctrina christiana)という著作において、次のように述べている。

Sicut autem curatio via est ad sanitatem, sic ista curatio peccatores sanandos reficiendosque suscepit.(…)sic Sapientia Dei hominem curans seipsam exhibuit ad sanandum, ipsa medicus, ipsa medicina. Quia ergo per superbiam homo lapsus est, humilitatem adhibuit ad sanandum. Serpentis sapientia decepti sumus, Dei stultitia liberamur.(1, 14, 13)

試訳:
ところで、〔医師による〕治療が健康への道であるように、〔イエス・キリストによる〕この治療が罪人たちに施されたのは、彼らを健康にして、回復させるためである。(中略)このような仕方で、人間を治療する神の知恵は、〔人間を〕健康にするために自分自身を差し出したのであり、知恵自らが医師となり、知恵自らが薬となった。したがって、人間が滑り落ちたのは傲慢によってであるが故に、〔神の知恵は〕〔人間を〕健康にするために謙遜を用いた。我々は蛇の知恵によって欺かれたが、神の愚かさによって解放される。(〔 〕内は引用者による補足)

引用した箇所の直前で論じられているのは、神の知恵・言葉が肉をまとって人間になったこと、いわゆる「受肉」であり、引用中の「人間を治療する神の知恵」はイエス・キリストを指す、と読める。エデンの園において、賢い蛇の誘惑と自らの傲慢とによって堕落した人間を、イエス・キリストが愚かさと謙遜によって救済する。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(新約聖書『コリントの信徒への手紙一』1章25節、新共同訳)。堕落した罪人である人間をイエス・キリストが救済する、という出来事が、病人を医師が健康にする、というイメージで語られている。

同様の語り方は新約聖書にも見られるし、もちろんアウグスティヌスの議論は、そのような語り方を踏まえたものである。紀元後1世紀の後半に成立したとされる『マルコ福音書』には、イエス自身の言葉として「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と記されている(2章17節、新共同訳)。

アウグスティヌスからの引用に関しても上記の『マルコ福音書』の言葉に関しても、イエスが医師・医者というイメージで語られるのは、あくまでも一種の比喩にすぎない、とも読めるが、しかし「医師としてのイエス・キリスト」というモチーフ自体は、単なる比喩に留まるものではない。福音書には、イエスが実際に病人たちを治療する、という奇跡の物語が多く登場するし、イエスの生涯に関する西洋の絵画などにおいても、これらのエピソードは繰り返し取り上げられている。

人間の罪を赦す救済者としてのイエス・キリストが、同時に、人間の病を癒す医師としても描かれるとき、「人間の罪≒人間の病」という見方もまた強化されるだろう、と想像される。ただし、他方で福音書には、このような見方を否定している箇所もある。

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(中略)」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」(『ヨハネ福音書』9章1-7節、新共同訳)

この箇所でも、「生まれつき目が見えない」という状態がやはり神学的に、神との関連で意味づけられ、「神の業がこの人に現れるためである」と解釈されているが、この状態が誰かの罪による、という解釈は否定されている。当該の状態を「病」と呼ぶことが妥当かどうかはともかく、病を罪と結びつけるタイプの「中世ヨーロッパ流」の考え方が、そのまま福音書の考え方でもある、とは限らない。

結局、「中世ヨーロッパ」においてであれ、古代から中世、さらに近代・現代へ至る「キリスト教」においてであれ、ある事柄がどのように理解されていたのかについて、わかりやすくすっきりと説明するのは難しい……というまとめ方は、少なくとも私の場合、致命的な不勉強の言い訳でしかないとして、とはいえ常日頃、特定の時代や地域、特定の宗教に関してはもちろん、一人の思想家、一冊の本についても、とにかく「わかった気になる」ことだけは避けよう、とは思っていたりする。その意味で、私にとって学問とは、何かがわかるようになっていく過程であるよりも、むしろ何かがわからなくなっていく過程に他ならず、そしてその体験は案外、心地よくもある。

中世ヨーロッパにおける健康については、12世紀の修道女、ビンゲンのヒルデガルトが書いたらしき『原因と治療(Causae et Curae)』から読み始めてみるのが面白そうで、「医師としてのイエス・キリスト」というモチーフについては、初期キリスト教の思想家たちの著作を一つ一つ、丁寧に読み直していく作業が楽しそうな気がする。どちらも、今後の課題にさせて下さい……。


参考文献:
『聖書 新共同訳』、日本聖書協会、1987年
『アウグスティヌス著作集 第6巻:キリスト教の教え』、加藤武訳、教文館、1988年
ハインリッヒ・シッパーゲス『中世の医学 治療と養生の文化史』、大橋博司・他訳、人文書院、1988年
ハインリッヒ・シッパーゲス『中世の患者』、濱中淑彦監訳、人文書院、1993年
池上俊一『身体の中世』、ちくま学芸文庫、2001年
久木田直江『医療と身体の図像学――宗教とジェンダーで読み解く西洋中世医学の文化史』、知泉書館、2014年
田川建三『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』、三一書房、1980年
山形孝夫『治癒神イエスの誕生』、ちくま学芸文庫、2010年
山辺規子「『健康全書 Tacuinum Sanitatis』研究序説」、『奈良女子大学文学部研究教育年報』第1号、2005年、101-111頁

参考サイト:
Aurelius Augustinus, De doctrina christiana
http://www.augustinus.it/latino/dottrina_cristiana/index.htm
鈴木晃仁「医学史とはどんな学問か 第1章 ギリシア・ローマ文明とキリスト教における医学と医療」
 https://keisobiblio.com/2016/02/23/suzuki01/
鈴木晃仁「医学史とはどんな学問か 第2章 中世ヨーロッパにおける医学・疾病・身体」
 https://keisobiblio.com/2016/03/16/suzuki02/

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