2020年6月25日木曜日

疫病で夭折(ようせつ)した画家たちのこと

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、芸術学・美術史の植野健造先生です。

日本美術史、博物館学担当教員の植野です。

三重県立美術館 2020年1月17日撮影
ことし2020年1月17日(金)津市にある三重県立美術館を訪問しました。「関根正二展」を観覧するためです。同展のサブタイトルには「生誕120年・没後100年」、チラシのコピーには「カンヴァスに留められた、永遠の青春。」とある。関根正二(1899-1919)は20歳で亡くなった、日本近代美術史にとって忘れることのできない天才的な洋画家です。芸術家を顕彰する回顧展覧会は生誕、没後それぞれ10年、30年、50年、100年など十年単位で企画されることが多い。2000年代に雪舟の没後500年展や伊藤若冲の没後200年展が開催されましたが、現代でもその芸術が広く受容され、さらに再評価されてゆくことの現れであったとみることができるでしょう。それはともかく「関根正二展」は、思い返すと1999年にも全国数か所で開催され、その時は愛知県美術館で観覧したことを思い出しました。今回の生誕120年・没後100年展は、2019年9月14日~11月10日福島県立美術館立ち上がりで2019年11月23日~2020年1月19日三重県立美術館、その後2020年2月1日~3月22日神奈川県立美術館での巡回開催で、私が三重会場を訪問したのは会期終了2日前のこと、神奈川会場で観覧する予定をたてていたらコロナウィルスの影響で見ることができたかどうか不明です。


左図・中図「関根正二展」2019-2020年、三重県立美術館会場チラシ
右図「関根正二展」1999年、愛知県美術館会場チケット
三重会場の展覧会を一巡し、関根正二の作品の素晴らしさと魅力をあらためて再認識し、その芸術世界を堪能しました。津市まで自費で来て損はなかったと力強く思いました。会場に掲示されていた関根正二の年譜をみると、1919年に肺結核で亡くなったとありました。さらにこの展覧会には、同年に22歳で亡くなったやはり才能ある洋画家・村山槐多(1896~1919)の作品も関連作品として出品されていて、年譜にスペイン風邪をこじらせ結核性肺炎で死去という内容が書かれていました。没後90年の「村山槐多展」を2009年に渋谷区立松濤美術館で観覧したことも思い出しました。


「村山槐多展」2009年、渋谷区立松濤美術館チラシ
今から100年前に全世界で想像を絶する多くの人々がスペイン風邪で亡くなり、その中には若くして亡くなった芸術家も多数含まれていたことを再認識したことでした。
スペイン風邪は、1918(大正7)年から1920年にかけて世界各国で極めて多くの死者を出したインフルエンザによるパンデミックの俗称である。第一次世界大戦時に中立国であったため情報統制がされていなかったスペインでの流行が大きく報じられたことに由来、スペインが発生源というわけではないとのことである。1918年1月から1920年12月までに世界中で5億人が感染したとされ、これは当時の世界人口の4分の1程度に相当する。死者数は1,700万人から5,000万人との推計が多く、1億人に達した可能性も指摘されるなど人類史上最悪の感染症の一つであるという。(Wikipedia、他参照)

一方、結核は細菌、おもに結核菌により引き起こされる感染症。結核菌は1882年にロベルト・コッホによって発見された。日本では、明治初期まで肺結核は労咳(癆痎、ろうがい)と呼ばれていた。 日本での結核感染率・発病率・死亡率は第二次世界大戦後に医学の発達や衛生面の改善によって著しく減少していった。しかし、明治、大正、昭和戦前期において結核はほとんど打つ手のない死に至る病として恐れられた。一例として文学者の正岡子規は結核を病み、喀血後、血を吐くまで鳴きつづけるというホトトギスに自らをなぞらえて子規(漢語でホトトギスの意)という号を用いた。病没前に床で書かれた『病牀六尺』は名著である。(Wikipedia、他参照)

関根正二と村山槐多の二人の生涯を簡単に記しておこう。
関根正二(せきねしょうじ 1899~1919)は福島県白河市に生まれた。本名はまさじ。1908年上京し深川に住む。小学校卒業後、同級生だった伊東深水の紹介で東京印刷株式会社に就職、そこでオスカー・ワイルドの思想に触れて傾倒した。1915年会社を辞めた関根は知人と信州に旅行、洋画家の河野通勢と出会い影響を受け、ほぼ独学で絵画を学んでゆく。同年16歳の時に描いた《死を思う日》が第2回二科展に入選。1918年第5回二科展に出品した《信仰の悲しみ》が樗牛賞に選ばれた。関根はこの頃より心身ともに衰弱し、翌年結核により20歳で死去した。

村山槐多(むらやまかいた 1896~1919)は神奈川県横浜市に生まれ京都市で育った。母方の従兄に洋画家の山本鼎がいる。10代からボードレールやランボーの作品を読み耽り詩作もよくした。1914年上京し小杉未醒宅に寄寓、美術に目覚めて日本美術院に通い、院展や二科展に作品発表する。貧しさや失恋による心の痛みなどを抱えたデカダン的な生活を送った。1919年流行性感冒(スペイン風邪)による結核性肺炎で急死した。

この二人に限らず、明治、大正、昭和戦前期には若くして亡くなった才能ある画家が少なくない。若くして亡くなることを夭折(ようせつ)という。「夭折」という語には、「早逝(そうせい)」「若死(わかじに)」などとは微妙に異なるニュアンスがあってこの用語をつい使いたくなるところがある。
最後に日本近代美術史上の夭折の画家たちを列挙して、その冥福をあらためて祈りたい。あわせて現在のコロナウィルスの感染が収束に向かうことも祈念する。
夭(よう)は「若くて美しい。若々しく、なよなよしているさま。」折は「おる。おれる。わかじに。」夭折、夭死、夭没、夭逝はほぼ同義で「わかじに。」を意味する。夭札(ようさつ)も「わかじに。」夭は「寿命を全うしないもの。」札は「流行病で死ぬもの。」

夭折の美術家たち
[洋画]   百武兼行   1842-1884 (天保13-明治17)  42歳没
       国沢新九郎  1847-1877 (弘化4-明治10)   30歳
       原田直次郎  1863-1899 (文久3-明治32)   36歳
       青木 繁    1882-1911 (明治15-明治44)  28歳
       萬 鉄五郎   1885-1927 (明治18-昭和2)  42歳
       中村 彝    1887-1924 (明治20-大正13)  37歳
       小出楢重   1887-1931 (明治20-昭和6)   44歳
       遠山五郎   1888-1928 (明治21-昭和3)   40歳
       片多徳郎   1889-1934 (明治22-昭和9)   44歳
       岸田劉生   1891-1929 (明治24-昭和4)  38歳
       古賀春江   1895-1933 (明治28-昭和8)   38歳
       村山槐多   1896-1919 (明治29-大正8)   22歳
       前田寛治   1896-1930 (明治29-昭和5)   34歳
       佐伯祐三   1898-1928 (明治31-昭和3)   30歳
       佐分 真    1898-1936 (明治31-昭和11)  38歳
       関根正二   1899-1919 (明治32-大正8)   20歳
       三岸好太郎  1903-1934 (明治36-昭和9)   31歳
       靉光     1907-1946 (明治40-昭和21)  39歳
       飯田操朗   1908-1936 (明治41-昭和11)  28歳
       野田英夫   1908-1939 (明治41-昭和14)  30歳
       小野幸吉   1909-1930 (明治42-昭和5)   21歳
       松本竣介   1912-1948 (大正1-昭和23)   36歳
       石井茂雄   1933-1962 (昭和8-昭和37)   28歳
       有元利夫   1946-1985 (昭和21-昭和60)  38歳

 [日本画] 西郷孤月   1873-1912 (明治6-大正1)    39歳没
       菱田春草   1874-1911 (明治7-明治44)   36歳
       今村紫紅   1880-1916 (明治13-大正5)   35歳
       橋口五葉   1880-1921 (明治13-大正10)  40歳
       池田輝方   1883-1921 (明治16-大正10)  38歳
       池田蕉園   1886-1917 (明治19-大正6)   31歳
       小茂田青樹  1891-1933 (明治24-昭和8)   42歳
       速水御舟   1894-1935 (明治27-昭和10)  41歳
       落合朗風   1896-1937 (明治29-昭和12)  41歳

 [彫刻]  荻原守衛   1879-1910 (明治12-明治43)  30歳没
       戸張孤雁   1882-1927 (明治15-昭和2)   45歳
       中原悌二郎  1888-1921 (明治21-大正10)  32歳
       橋本平八   1897-1935 (明治30-昭和10)  38歳

※この一覧表作成あたっては、本ブログ筆者も展覧会企画開催に携わった「青木繁と近代日本のロマンティシズム」展の開催記念美術講座として、2003年6月28日石橋美術館で行われた富山秀男先生(当時・ブリヂストン美術館館長・石橋美術館館長)による「青木繁と近代日本美術の流れ」と題する講演の際の配布資料を参照しました。


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