2020年6月15日月曜日

西洋古代哲学を志したきっかけ

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学の岩田直也先生です。

こんにちは、2020年4月に着任した岩田直也です。これまで自分が必死に取り組んできた西洋古代哲学を、これからも研究し教育することができ、とても幸せに思っています。今回は、ではそもそも何故、私が西洋古代哲学を志すようになったのか、そのきっかけについて簡単にお話してみようかと思います。

昔から哲学書やその他の文学作品を読んでいたのかというと、全くそのようなことはありませんでした。小・中学校時代は、水泳選手として、学校が終わるとスイミングスクールに通って練習する毎日でした。しかし、中学時代にB’zの大ファンになったことがきっかけで、徐々にロックギターにのめりこむようになりました。高校生の時には、もう水泳は辞めてしまい、地元の友達とバンド活動を行うなど、音楽を中心に生活が回っていました。そんな感じで高校では成績がかなり悪かったのですが、大学に行かないという道を選択するほどの決心と勇気もなかったので、一年浪人して勉強に集中し(ギターの弦を切って!)ひとまず無事に入学することができました。入学後はさっそくギターを再開し、専門学校にジャズやクラシックを学びに行くなどさらに音楽に傾倒し、将来はこの道で食べていけたらなぁ、などと甘い考えを抱いていました。


大学も3年次を迎えた頃、多くの大学生と同じように、将来何をしようかという問題について私も悩み始めました。ミュージシャンになりたいと思っているが、具体的にはどのような音楽がしたいのか、そして、実際にはどのような活動を行って生計を立てていくのか。他方で、並外れた実力を持った数多くの音楽仲間がプロとして巣立って行くのを見ながら、自分にはそのような素養がないことを痛感し、音楽は自分の進むべき道ではないのではないかと迷い始めたのもこの頃でした。そんな中ふつふつと湧いてきた思いは、「一生に一度の人生を何かに賭けるのであれば、真に価値のあると自分が心の底から納得できることをしたい。では、音楽はそのようなものだと漠然に思ってきたが、それをやることはどのような意義があるのだろうか。ひいては、芸術とはそもそも何であり、私たちにとってどのような意味があるのか。」といったものでした。

自分の中ではどうしても解決できず、尊敬していたギターの先生方やその他の音楽家の知り合いに、事あるごとに上記の疑問をぶつけてみました。(なんともおかしな若者だったなぁと思いますが、本人は大真面目だったのです。)しかし、残念ながら、誰からも自分の納得できるような答えは返ってきませんでした。その結果出た結論は(乱暴な一般化と批判されそうですが)、「あぁ、ミュージシャンはそもそもこのような問題を考えたりしない。そしてそれについてあれこれ思い悩んでいる自分は音楽をやるのにやはり向いていなかったのだ」というものでした。そこで、これまであれほど熱中していたギターをぴたりとやめ、音楽もほとんど聴かなくなってしまいました。それと引き換えに、この難問を解決すべく、手当たり次第に本を読み漁り、哲学や美学・芸術学に関する大学の授業に熱心に参加するようになりました。

そんな折、ゼミの指導教官に「芸術というものを本格的に学びたいのなら、その思索の起源となるプラトンをまず読まなければいけない」と言われました。そこでプラトンの対話篇をいくつか手に取ってみたところ、最初はあまりピンと来なかったのですが、彼の主著である『国家』を読み進めた時、体中に衝撃が走るほどのとてつもない感銘を受けました。先の芸術に関する疑問に答えが出たわけではないものの、社会のあり方や、人間の生き方に関わるより根本的な問題について、これほど明晰な仕方で真っ向勝負を挑む哲学があったのだ、と瞬く間にプラトンに魅了されてしまいました。その当時、ゼミやその他の演習では現代思想を中心に学んでいたのですが、自分の勉強不足を棚上げして、難解な専門用語で築き上げられた哲学に辟易し強い反発心を抱いていたため、その反動もあってプラトンの哲学がより新鮮に映ったのかもしれません。ともかく、一度プラトンを本格的に学んでみようと思い立ちました。

自分の所属していた学部には西洋古代哲学の専門家はいなかったため、他学部の教授に連絡を取りその演習を見学しに行くことになりました。そこでは、世にも奇妙な光景が繰り広げられていました。みなが聞いたこともない言葉を読み上げ、その言葉の解釈についてあれこれと深刻な面持ちで議論をしていたのです。授業後の面談では、「プラトンを勉強するためにうちの研究室に来るなら、なにはともあれまず、古典ギリシア語を勉強して下さい」と言われました。古典ギリシア語は大変難しく習得には数年かかるとも聞いたので、これは大変なことになったと思いました。他の哲学者のことをまだ満足に知っているわけではないのにこの段階で古代哲学に専門を決めていいものか迷ったのですが、後で気が変わってもとりあえず哲学の最初から始めて損をすることはないだろうとも考えました。そのようにして西洋古代哲学研究室に所属することになり(大学院生になるまでは非公式でしたが)、間もなく自分の進むべき道は研究者になることだと思い至ることになりました。この研究室のモットーは「粘土細工を捨てて、大理石を刻むように哲学する」というもので、これは「真に新たな哲学は、古典語の習熟も含めてその成立の大本にまで遡って本格的に考えて、初めて生み出すことができる」という思いを表現したものでした。その研究室の方針は、何事も徹底的にやってみなければ気が済まない、自分の性格にとても合っていたのだと思います。

それから約15年の月日が経ちました。プラトンから始めようと決心した私は、未だにプラトンから離れられないままでいます。そして、これからさらに研究すべきアリストテレスやその他の古代の哲学者の魅力も考えると、西洋古代哲学を自分の生涯を賭ける対象とした選択したことは、今でも決して間違ってはいなかったのだと思います。これから西洋古代哲学を学ぼうとする学生のみなさんには、できる限りその面白さの一端を伝えられたら、と思っています。

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