2019年8月6日火曜日

LC哲学カフェ開催:旅と日常を哲学する

先週木曜、8月1日の夕方、久しぶりにLC哲学カフェが開催されました。今回のタイトルは「旅と日常を哲学する」。参考資料として取り上げたのは、宮野真生子先生が福岡大学への赴任一年目に書いたエッセイ、「旅と日常と偶然性」(2010年)。

参加者は、学生さんや卒業生など(他大学の院生1名も参加してくれました)が約15名に、教員が2名。

冒頭、まず小笠原がこのエッセイの内容について簡単に紹介、解説。このエッセイは「旅が好きです」という一文から始まるのですが、この「旅」は、どうやら「観光」とは違うらしい。「旅、と言っても、別に観光をしに行くわけではありません」。「その旅は非日常であってはなりません」。非日常を求めるのではなく、地元の喫茶店や飲み屋さんで「自分の知らない土地で営まれている生活」の空気に包まれて、コーヒーを飲んだり、お酒を飲んだりする。「そんなふうに、知らない日常を生きてみる」。

そういうとき、たとえば、尾道のアイスコーヒーが美味しい喫茶店でアイスコーヒーとワッフルという定番の朝ごはんを食べているときや、梁が真っ黒にいぶされている金沢の居酒屋さんのカウンターでおでんをアテに熱燗を飲んでいるときや、海に近い白浜のパブで温泉あがりのほてった体をモスコミュールで冷やしているときに、ふと、「福岡にいる私はいったい誰なんだろう」と思います。もしくは、「あそこにいるのは、本当に私なんだろうか」と。さっきも言ったように、私は知らない土地の日常に入り込むように旅をしますから、圧倒的な異質さを感じつつも、はっと気付いたとき、自分もまたその別の日常のなかに入っているわけで、そのときには、今度、今までの日常が非日常の様相を帯びて、現れてくるのです。この、日常と非日常がくるっと反転し、自分の立っている場所がわからなくなる瞬間が、私はとても好きです。

街の中をさまよい歩き、どこかのカウンターに腰を落ち着けたその瞬間、私の日常は反転し、「当たり前の日々」に隠れていた可能性が一気に姿を表わして、私の足元を揺るがせます。そのふわふわとした感覚のなか飲むお酒ほど楽しいものはありません。気がつけば、お店の人や常連さんと当たり前のように笑いながら話していて、そんなときにふと、もし、この土地に生まれていたら、どんな人生だったんだろうという思いがよぎり、福岡の日常は吹っ飛んでしまうのです。そうなれば、私の旅は大成功です。

旅先の日常に入りこむことで、福岡の日常が非日常に転じる。世界の偶然性に気づき、自分に開かれている可能性を見る。「当たり前の日々」と感じていた福岡の日常は、決して当たり前の日々ではない。

そして、旅から帰ると、私はいつもごく普通の和食を作ります。だし巻き卵に焼き魚にお浸しと納豆、丁寧にひいた出汁でお味噌汁を作り、炊きたての白いご飯を食べる。そうやって、今、自分がこの生活を送っていることを、ここに日常があることを確認します。そうやって、日常はけっして、当たり前の日々ではないと、自分がこんな形で生きていることの不思議をかみしめるのでした。


さて、ここからどのような問題が設定できるか、という問いかけから、全体の議論がスタート。「……宇宙、とか」「宇宙……?」。宇宙人たちの日常の中に居たとしても、宮野先生は、エッセイで書かれているのと同じような感覚を持つのかどうか。例えば、火星人たちの生活には溶けこめないはず。いや、宮野先生なら案外、火星人にもなじめる……?

そもそも日常とは何か。なぜ非日常を求めて、某テーマパークへ行くのか。日常では味わえない楽しさを求めて? しかし、仮にテーマパークで暮らしたとしたら、そこが日常になる。テーマパークに通って本を読む、というアイドルもいる。日常はどこまでが日常なのか。旅行などで「憧れ」を一時的に達成するとき、そこに非日常を感じる?

大学へ入学したとき、最初は非日常だったはず。その生活が、いつ日常になったのか。慣れてきて、新しい刺激が少なくなり、非日常が日常になる。当たり前になっていく。しかしこのエッセイには、日常が当たり前になってはダメ、とも書かれている……。

開始から約30分が経過した時点でエッセイの全文を輪読し、その後、再び議論を続行。

宮野先生にとっての日常とは何か。旅から帰ると、普通の和食を食べる。普通の和食を食べているけれど、当たり前の日々ではない。当たり前のものが、当たり前じゃない。たまたま日本で生まれて日本で過ごしているから、和食。イタリア人に生まれていたら、イタリア料理を食べるのが日常だったはず。

でも、当たり前を当たり前じゃない、と常に意識し続けるのは、しんどいと思う。当たり前を当たり前と捉えている方が、生きる上では楽そう。しかし、このエッセイによれば、日常を当たり前と見なすのは錯覚で、「世界に対する不遜な態度」でしかない――。

他方、宮野先生は以前、カップルがダメになる例として、何度も記念日を作るケースを挙げていた。記念日を作ることで、日常を特別なものに仕立て上げる。二人の関係を特別なものとして作り直す。しかし、それは「劇薬」で、記念日を作ること自体が日常になってしまい、特別さがなくなってしまう。非日常の旅行へ行くのも同じ。では、「サラダ記念日」もダメ? いや、案外「サラダ記念日」は良い……?

結局、宮野先生が一番大事にしたいのは、日常。旅をして、この日常の非日常さ、大切さをちゃんと噛みしめる。一日一日を大切にできないからこそ、旅に出る。非日常に逃げるのではなく、日常を日常として生きるために、旅をする。

この考え方ならば、クレーム問題は起こらない? 自分は客、相手は店員、という区別が固定されず、他者に感情移入できるようになる。「自分がこんな形で生きていることの不思議」は、他者が生きていることの不思議、他者が生きていたことの不思議にもつながる。自分の偶然性と、他者の偶然性。たまたま私は私だけれど、私もあの人だったかもしれない。偶然性同士が響き合う。

あるいは、このエッセイには他者との関係の話がなく、自分が生きていることへの問いが中心? 宮野先生が「出会い」というキーワードにこだわり始めるのは、このエッセイの後? しかし、私が成り立っているのは、周りからの影響による。周りが違っていたら、今の私の考え方なども違っていたはず。日常が成立していることの背景に、他者や出会いがすでに含まれているのではないか。

日常と非日常の具体例を挙げてみると、見えてくるものがあるかもしれない。肺で酸素を取りこむのが日常で、隕石が降ってくるのが非日常? しかし一旦起こってしまったら、何でも日常?

日常を作らずに生きることはできるか。ずっと嘘をついたり、他人を演じたりしても、続けている内に、それも日常になってしまうはず。その場所や人間関係に慣れる前、常に一週間以内に転居し続けて、人生を裁断し続ける?

生きている限り、「当たり前」という重力からは逃げられない。逃げられないからこそ、逃げられないことを忘れないように、思い出すために旅をする。一種の「思考実験」としての旅。だから実は、旅をしなくても良い。このエッセイには、旅をしないで旅をする方法が書かれている――。

この世界の当たり前が当たり前じゃない、というのは、怖いことでもある。他のことをしていたら、自分はこうではなかったかもしれない。自分はこうだ、という当たり前が崩される怖さ。同様に、他人も揺らぐ。自分も不安定で、寂しい。

そのような寂しさに抗うためなのか、恋愛の物語は、偶然の出会いを必然性の物語で覆う。出会うべくして出会った、と考えることで、偶然性の不安に蓋をする。しかし、そのような物語に逃げず偶然性に向き合う、というのが宮野先生の求めていることで、かなり要求が高い……。

確かに普段の生活では、偶然性が軽視されている。でも、もしかしたら、自分はここにいなかったかもしれない。偶然知り合って友人になったが、友人ではなかったかもしれない。偶然性を重視することで、必然ではないのにこうなっている、ということの貴さが感じられるようになる。

ところで、この偶然性は、他の可能性もある、という意味での偶然性なのか。むしろ、この現実をどう引き受けるか、という問いが重要なのだろう。私は他の可能性(こうではない私、という可能性)に支えられているが、でも、私は「この私」でしかない。「この私」という現実を引き受けて、他の可能性に逃げ道を残さない。他の可能性は、この現実と同列に置かれているわけではない――。

その他、メイド・カフェの非日常、洗脳のために作り出される非日常、バイト中に役割を演じていて「何をやってるんだろう?」と思う瞬間のこと、旅嫌いのドゥルーズ、旅としての読書、偶然・必然・運命、「今の人生に満足している人は他の人生を想像するのか」という問いなど、話題は様々。

特に結論も出ず、結論を出そうともしないまま、約2時間が経過。終了の際に交わされたのは、次のような会話でした。「何か、宮野先生、これ聞いたら喜びそう」「違う、とか言うかもしれない。全然理解してない、とか」「言ってそう(笑)」。


この「LC哲学カフェ」は、2014年9月、三浦隆宏先生をお招きして開催した映画上映会をきっかけに、不定期の課外イベントとして始まりました。取り上げる作品やテーマは、ほとんどの場合、宮野さんと相談して二人で決めていたので、私一人でテーマなどを決めたのは、ともすれば、今回が初めてだったかもしれません。

久しぶりに哲学カフェを、と思いついたときには、漠然と「これが最後の哲学カフェになるかもしれない」と考えていたのですが、続ける、と決めました。

以前のように毎月開催、とはいかないまでも、今後も場当たり的に、色々と仕掛けてみるつもりです。ちょっと面白そうな、新しい企画も思いついたので、できれば、とりあえず夏休み中に一回。詳細が決まり次第、このブログ上で告知しますので、興味のある方はぜひ気軽にご参加下さい。

※上記2枚の写真の内、1枚目は今回の哲学カフェの模様。2枚目は、2016年12月5日に開催された「「君の名は。」で哲学する、再び」の模様です。

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