2019年1月4日金曜日

スケールで哲学する心(平井靖史先生)


平成30年度第12回目の「教員記事」をお届けします。哲学の平井靖史先生です。
今回は,人間の認識を理解する上での時間的スケールの観点を取り入れることの重要性に関するご自身の研究を紹介していただきました。



スケールで哲学する心
     平井靖史(哲学

 今朝はずいぶん冷え込んだのだが、日が昇ってからぐんぐん暖かくなってきた。いい気分で散歩を終えて家に戻ると、夏に再会した友人からメールが来ている。「めっきり冷え込んできましたね」。たしかに、今年はずっと暖冬だと思っていたが、この10日ほどで一気に冷え込んできた。でもそこで、暖かくなってるのか冷え込んでるのか、どっちが「ほんとう」だ?と悩む人はいないですよね。単にスケール(規模)が違うだけのこと。数時間のスケールでは暖かくなっているけど、季節のスケールでは寒くなっている、ついでに言うなら数十年のスケールではさらに逆転して、気温は上昇していたりします。

 さいきん、スケールの哲学というものを考えています。心の哲学では、なぜ脳を解明しても人が経験する主観的な「感じ」(クオリア)は説明できないのか(心身問題)とか、かつては物質しか存在しなかったはずのこの世界に、意識や心はどうやって生じたか(心の発生の問題)、という問いを扱います。こうした問題の難しさは、科学が扱う物質の振る舞いと、私たちの経験の主観的な質とが、非常に折り合いが悪いところから来ています。例えば目に入ってくる光が630ナノメートルの波長の電磁波だと説明できても、そこから、その光を実際に見たときに僕が経験する、あの「赤色の感じ」までにはずいぶんと隔たりがあります。なぜ630ナノメートルだとこんな(赤い)感じなのに、同じ電磁波が、少し波長が短くなって550になるとあんな(緑の)感じになるのだろう?物質は方程式で記述できて、どこでも同じように計算通り振る舞います。でもそこから、その経験が「どんな感じ」になるかは物理的には予測できません。一方は数量的・客観的で、他方は質的・心的です。二つの性質は水と油のようで、手詰まり感があります。

 でももしかしたら、ここにスケールの観点を持ち込むことで、新しい問題の立て直しができるかもしれません。気温の「上昇」と「下降」は、文字だけみると、互いに矛盾していて同時に両立しないかのように思えますが、上に見たように、時間スケールが違えば両立します。そしてじっさい、人間がものを認識する時間スケールと、物理学者が電磁波を記述するときのそれはずいぶん違いますよね。まずは、そこがこのアイデアの入り口です。

 ただ、そこから先は簡単ではありません。ちょっと専門的になってしまいますが、単に「観察上の」時間スケールの話だけでは済まなくて、「内在的な」時間スケール[1]の話をする必要があるからです。ここで詳しくお話しすることはできませんが、生物の身体には、それ固有の「内在的な」時間スケール(外から人がどう観察するかというのとは関係なしに、自分でもっている時間スケール)というものがあります[2]。しかもひとつの身体内部でも分業化が進んでいて、それぞれがまた異なった時間スケールで動いています。そうすると、人間という生物が光を見るという経験は、複数の異なる内在的時間スケールにまたがる(普通より複雑な)現象ということになります。ここから、「凝縮」という一種の時間圧縮効果が生じるのでは、というのがベルクソンの凝縮仮説です。昨年の記事で、研究プロジェクトの舞台裏の話をしましたが、今年はちょっと内容の話をしました。

 一日がよくても、一年がよいとは限りません。一年がよくなくても一生がよくないとは限りません。それでも皆さんにとって2019年が、よい一年になりますように。

[1] Lesne, A. (2017), “Time Variable and Time Scales in Natural Systems and Their Modeling » in Bouton, Ch. and Huneman, Ph. (eds.) (2017), Time of Nature and the Nature of Time, Springer.
[2] ハエの視覚の時間分解能は150Hz(人間はおよそ4-50Hz)と言われます。ハエには「点滅」して見えている蛍光灯(西日本では毎秒120回点滅しています)が、人間に「点灯」して見えるのはそのためです。

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