2017年1月19日木曜日

にわにはにわにわとりが(平田 暢先生)

「教員記事」をお届けします。2016年度12回目は社会学の平田 暢先生です。



にわにはにわにわとりが
    
     平田 暢(社会学

 まだ冬真っ盛りだと思っていると、もう木々は芽ぐんでいたりするようです。今年は酉年なので、鶏について少し考えてみました。

 ことわざは何かなかったかと考えたのですが、最初に思い出したのが、「鶏口となるも牛後となるなかれ」でした。これは大きな存在(=牛)の末尾にいるよりも、小さな存在(=鶏)であってもそのトップにいなさい、という意味で、「寄らば大樹の陰」と対義になっています。現代風に意訳すると「オンリーワンを目指せ」といった感じでしょうか。年初にふさわしいかもしれません。その他には「牛刀を以て鶏を割く:小さな物事にあたるのに、過度に大きな手段は必要ない」や「鶏鳴狗盗:卑しくつまらないことしかできない人。また、そのような人でも役に立つことがある」、調べてみて初めて知ったのですが「鶏群の一鶴:多くのつまらないものの中に、1人だけすぐれた者や美しい者がまじっていること」などがあるようです。

 4つだけですが、このように並べてみると、鶏は小さくて平凡なものの喩えになっているようで、裏を返すとそれだけ身近でありふれた存在だったことがわかります。犬もそのような存在かもしれません。ただし、もともとは「犬」と「狗」の区別があったらしく、「犬」は飼い馴らされていない野犬(「祓」という漢字の旁は犬に刀を当てる形だそうです)、「狗」は飼い馴らされた犬で、「狡兎死して走狗烹らる」「羊頭狗肉」という言葉にもあるように、食べられてもいたようです。 

 ところが、狗はともかくとして、今の私たちが生きている鶏を見る機会はほとんどありません。スーパーに行くと、卵は山積みに置かれ、ささみや胸肉、もも肉など解体されて肉になったパックも有り余るほどあるにもかかわらず、です。他方で鳥インフルエンザが発生したとき、ニュースで「○万羽が処分」という言葉とともに、穴に埋められる梱包された鶏の死骸の映像を見たりします。いずれにしろパックされた向こう側にしか鶏はいないわけで、鶏の全身像を見るのは12年に1度、年賀状の中だけになっているのかもしれません。

 と、ここまで書いて「ヒヨちゃん」を思い出しました。ご存じの方も多いと思うのですが、『動物のお医者さん』というH大学獣医学部を舞台にした大変有名な漫画があります。作者は『おたんこナース』などでもよく知られている佐々木倫子さん。ヒヨちゃんは主人公の家で飼われている白色レグホン種の雄鶏で、登場する1コマめから「ランボーなんだ」と評され、主人公の家にはシベリアン・ハスキー(この漫画がきっかけでブームになりました)のチョビや町内ボスの三毛猫ミケがいるにもかかわらず最強の存在です。「走って追いかけてきてけとばしたり咬みついたりする」のですが、咬みつきの威力たるや「ペンチでつかんでひねる」ほどで、流血に至ります。

 このヒヨちゃんがインフルエンザに罹る話もあります(第65話)。当時は防疫システムが違っていたらしく、処分されることもなく栄養剤の注射で無事全快するのですが、主人公たちの予想よりも早く「だまって全快していた」(この時点で既に顔に怒りのマークが浮かんでいる)ため、また「恩を知らない全快のパワーがバクハツ」したため、治療のため籠から出そうとした獣医(主人公の指導教授でもあります)に襲いかかり大乱闘となります。結果は引き分け。この「だまって全快していた」の1コマが可笑しく、未だにたまに読み返して、というか読み返さなくても思い出して笑っています。ヒヨちゃんは物語に欠かせない個性際だつキャラクターで、最終回まで元気にぶれずに乱暴者です。個人的にはチョビの次に好きかも。

 というわけで、そんなヒヨちゃんを知っていればありえないはずですが、もうずいぶん前に、幼稚園児だったか小学生だったかが鶏を4本脚の生き物として描く、ということが話題になりました。どこかの大学入試でも鶏を描けという問題が出たはずです。おそらく現在の大学生でも4本脚で描いてしまうケースが一定程度あるのではないかと思います。これが、たとえばラジカセ用のカセットテープが何のためのものかわからない、フロッピーディスクを見たことがないということであれば、技術革新によってこの20年ほどで使われなくなったものなので知らなくても理解できます。

しかしながら、日本人の鶏卵と鶏肉の消費量はずいぶんと多く、平成26年度の農林水産省食料需給表によると、鶏卵の消費量は年間1人当たり16.7㎏、殻を除いたMサイズを約50gとすると年間約330個。世界第3位の消費量だそうです。鶏卵の消費量はここ25年ほど頭打ちですが、鶏肉の年間消費量は今も増加傾向にあり、0.8㎏だった1960年と比較するとこの50年で約15倍、12.2㎏に達しています。鶏肉に関して言えば、日本には古来鶏はいたものの(鶏形埴輪というものがあるそうです)、食用となる種は基本的に明治以降外国から入ってきたようで、鶏卵ほど食べてきた歴史は長くはないようです。

 これだけ消費しているのに鶏がどういう姿をしているかわからない、ということがあるとすると、やはり少し異常な感じがします。自給自足に近い社会で生活していれば、自分が何を食べているかよくわかっていたと思うのですが、産業化が進み、生活がそのような地域単位から家族単位へ、さらに個人単位へと移り変わるにつれ、生産と消費は分離し、食べるものが外食産業やコンビニで調理され、加工されたものばかりになると元の姿は想像もつかなくなります。

 『ソイレント・グリーン』というチャールトン・ヘストン主演の昔のSF映画があります。人口爆発により資源が枯渇し、人々はソイレント社という企業がプランクトンから作っていると謳うクラッカーのような合成食品「ソイレント・グリーン」の配給を受けて生きているのですが、実はそのソイレント・グリーンはプランクトンではなく人間の死体から生産されていた、というお話です。

 調理され、加工された食品しか知らなければ、私もソイレント・グリーンを何の疑いも持たず食べるに違いありません。

 牛や豚は無理だとしても、もし「庭には二羽鶏がいる」生活ができれば、食を支える仕組みや社会といった角度から、自分の食生活を少し考える機会となるのかもしれません。ヒヨちゃんクラスの鶏であれば我が家の犬よりは番鶏(?)としても役に立ちそうですし(その前に私と犬の安全が心配)。時も告げてくれますし。初夢ではないですが、初妄想としてちょっと庭に鶏がいる光景を思い浮かべたりしています。


参考文献
佐々木倫子,『動物のお医者さん』(1~6),白泉社.
農林水産省ホームページ


□平田先生のブログ記事

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