2015年11月1日日曜日

夢の21世紀からの報告(関口浩喜先生)

 「教員記事」をお届けします。2015年度第12回は、哲学の関口浩喜先生です。現代社会への風刺に富んだショートショートを寄稿してくださいました。1972年から2015年にやってきた「ぼく」には、「夢の21世紀」はどのような世界に映ったのでしょうか。



  夢の21世紀からの報告

関口浩喜(哲学)

  先生、こちらに着いて三日目の朝を迎えました。少し遅くなりましたが、最初の報告をします。
  でも、報告すべきことが多すぎて、いったいどこから始めたらよいのか、わかりません。

  そうそう、先生は、ぼくが出かけるまえに「今から四十年以上も先の未来だから、お札だってデザインが変わっているかもしれない。そのときは、銀行に行って未来のお札とかえてもらいなさい」とおっしゃいましたね。その通りでした。ほんとうに先生は変なところにまで気が回る方ですね。

  最初に入ったデパートで買い物をするひとたちがお金を支払うところを観察して、いまぼくたちが使っているお札とは違うことに気づきました。あとで手にとってみてわかったのですが、千円札の肖像画は、伊藤博文ではなく、野口英世に変わっています。それにだいぶ青っぽいお札です。一万円札からは聖徳太子が消えていて、福沢諭吉がかわりにいました。少し小さめですが、でも、いまの一万円札と色やデザインは似ています。五百円札はありません。かわりに五百円玉があります。

  それで、先生のアドバイスに従って銀行に行ったのですが、ちょっと変なことがありました。ぼくは「昔のお札なのですが、いまのお札と換えてください」と窓口で頼みました。すると窓口のおねえさんは、ぼくが手渡した紙幣を受けとって金額を確かめると「ぜんぶ千円札に換えても大丈夫ですか」とたずねるのです。ぼくが思わず「ぜんぶ千円札に換えると、何か危険なのですか」と聞き返すと、相手は困った顔をして「全部千円札に交換してもよろしかったですか」と言いなおしました。まだ交換してくれていないのに、なぜ「よろしかった」と過去形で言うのか、これもよくわからないままに、怪しまれてはいけないと思い、「いえ、一万円札と千円札と半々にしてください」と頼みました。新しい紙幣をぼくに手渡すとき、そのおねえさんが「新しい紙幣になります」と言ったので、未来では目の前で古い紙幣が新しい紙幣に変化するのかと思い、しばらくその場で新しい紙幣に変化するのをわくわくしながら待っていました。すると、おねえさんがもう一度「新しい紙幣になります」と、今度は少し不機嫌そうに言ったので、「どれくらいで新しい紙幣になるのですか」と丁寧に穏やかにたずねると、「えっ」と言ったまま、気味の悪そうな顔をしてこちらを睨み黙りこんでしまいました。何か失敗をしたらしいと気づき、あわてて紙幣の束をつかんで銀行を出ましたが、いまだに何がいけなかったのか、わかりません。

  ところで、先生はぼくがこちらに来るまえに「今から四十年以上も経てばインフレが相当進んでいるだろうから、今の二十万円なんて、もしかしたら子供の小遣い程度になっているかもしれないよ」と笑いながらおっしゃいましたね。でもそれほどのことはありませんでした。二十万円は、未来でも大金です。

  できる限り順序だてて書きます。
  ぼくが着いたのは、当初予想していた東京ではなく、福岡でした。あとでわかったのですが、福岡の天神という、繁華街でした。ということは、ぼくは21世紀には福岡で暮らしているということです。日付は、これは新聞で確認したのですが、2015年の10月18日でした。日曜日です。元号を見ると、昭和はとっくに終わっていました。予想していたことではありましたが、軽いショックを受けました。新しい元号は「平成」です。なんだか、ずいぶんと雅(みやび)な元号ですね。平成27年でした。
着いた時刻は正午を少し過ぎたころです。

  ねえ、先生、驚いたことに、空は真っ青に澄んでいましたよ。街を行くひとは誰も防毒マスクなんてしていません。(そのかわりに、小さな長方形の箱のようなもの持っていて、みんなそれを眺めながら歩いています。この箱の正体については、現在、調査中です。)公害がこのままひどくなれば、21世紀のひとたちはみな、防毒マスクを付けなければ外出できなくなるだろうなんて予測がよく出ていますが、まったく違いました。最初こそ恐る恐る呼吸をしていたのですが、変な臭いもしないので、すぐにふつうに息をしました。むしろ、いま(つまり、1972年)の方がよほど空気が汚れています。

  あと、人々の服装もそれほど変わっていません。少なくとも、宇宙服みたいな銀色に輝く服を着ているひとなんて一人もいません。頭からアンテナを出しているひともいません。全体的に、何というか、ゆったりした感じの、あるいはだらしのない服装をしているな、という印象です。ちょっと驚いたのは、シャツの裾(すそ)をズボン(きのう知ったのですが、21世紀のひとたちは「ズボン」と言わずに、「パンツ」と言います)から出して歩いているひとが多いことでした。中年の立派な紳士がそんな格好で歩いていたので、よほど「シャツの裾が出ていますよ」と注意してあげようと思いましたが、思いとどまってよかった。だって、みんなそうしているのですから。

  それから、先生、エアカーなんてどこにも走っていませんよ。自動車は相かわらず、タイヤで走っています。考えてみれば、自動車一台を浮かすほどの空気を車体から出したら、周囲のひとたちはいい迷惑ですよね。まったく空想はどこまで行っても空想です。

  また、車はすべて電気自動車に変わっているのかと思いましたが、ほとんどの車は相かわらずガソリンで走っているようです。たしか、石油は20世紀の終わりにはなくなっているはずでしたよね。新しく大油田でも見つかったのかなあ。それと、ぼくたちの時代の自動車と比べると、21世紀の自動車は、全体的に丸っこくて小型になった感じがします。
飛行機も、コンコルドみたいな大型超音速旅客機が空を飛びまわっているはずでしたが、しばらく空を眺めていても、そんな飛行機は一機も飛んでいませんでした。見かけた飛行機の機体は、いまとあまり変わらず、むしろ小さくなっているようにさえ見えました。でも、機体の色はとても鮮やかで、青や赤い機体の飛行機も飛んでいました。
 
  駅に行って、驚いたことがあったので、これも報告しておきます。西鉄電車の薬院という駅に行ったのですが、まず、改札口に駅員がいないのです。鋏をテンポよくあやつって切符に切れ目を入れてくれるあの駅員がいません。どうなっているかというと、吸い込み口のようなところに切符を入れると、それと同時に閂(かんぬき)のような扉がぱっと開き、改札口を通れるようになるのです。そして、吸い込み口の反対側から切符が出てくるので、それをつまんで受けとって、駅に入るというしくみです。この間、わずか一秒もかからない早わざです。そのしくみがわかるまで、ずいぶんと時間がかかりました。何十人ものひとが改札口に通るのをじっと観察していました。たぶん、ぼくは怪しげな人物に見えたことでしょう。それにね、先生、21世紀では、そもそも切符が必要ないようなのです。多くのひとは改札口の手前で定期入れのようなものを出し、それを吸い込み口の近くにある、特定の場所にかざします。するとピッという音がして、例の扉が開くのです。

  でも、ぼくたちの時代でも自動扉はあるわけですから、これはそれほど驚かなくてもよいのかもしれません。ぼくがほんとうに驚いたのは、駅のホームにあがってしばらくしてからでした。
 
  最初ホームにあがったとき、見なれている国鉄の駅のホームとはどこか違うなという感じがしました。でも、どこが違うのか、はっきりわかりません。というのも、駅の造りも今の時代とそれほど変わっていませんから。ホームに入ってくる電車も、見なれた国電と違うのは当然ですが、流線型の電車ではまったくなく、ごくふつうの電車だったり、小田急のロマンスカーのような電車だったりで、これも驚きませんでした。むしろ、ほとんど変わっていないことに驚いたほどです。それに電車の運転士さんも車掌さんもたしかに人間でしたよ。ロボットではありませんでした。
 
  さて、いったい何が違うのか、それを突き止めようと思い、電車を数台やり過ごして、ホームを観察しました。しばらくして、ようやくわかりました。タバコの吸殻がまったくないことでした。ぼくがふだん使う国電の駅のホームでは、サラリーマンのひとたちがタバコを吸って、その吸殻をホームや線路に平気な顔で当たり前のように投げ捨てます。ところが、21世紀の駅のホームには、そして線路には、タバコの吸殻が一本も捨てられていないのです。とても綺麗で清潔です。そのことに気づいてあたりを見回すと、ホームには結構な数のひとがいるというのに、タバコを吸っているひとが一人もいません。
 
  先生、先生のような愛煙家にとっては、21世紀は困るかもしれませんが、でもとても清潔ですよ。あの綺麗ですがすがしいホームを見てしまったら、20世紀の汚いホームにもどる気にはなれません。あと、にわかには信じられないでしょうけど、21世紀の喫茶店ではタバコが吸えないのです。何を馬鹿な、とおっしゃるかもしれませんが、ウソではありません。ほんとうです。ぼくはある喫茶店に入ったのですが、その店は禁煙でした。
 
  それで思い出しました。その喫茶店に入ったときは、困りました。注文の仕方がわからなかったのです。店に入って、空いている席に座ったのですが、いくら待っても店員が注文をとりに来てくれません。この店の店員は何をしているのだろうと思い、いらいらしかけたころ、ようやく気づきました。最近、銀座にハンバーガーを食べさせる店ができましたね。先生は、そこにいらしたことがありますか。あの店では、店員が注文をとりにくるのではなく、客が自分で店員に注文するというしくみです。あれと同じだったのです。そんなしくみの喫茶店があるとは思いもよりませんでした。
 
  さて、自分で注文する段になって、またもや、そしてもっと困りました。あ、ちなみに店員がロボットだったいう話ではありませんからね。21世紀になると、ロボットが人間の代わりにいろいろなことをしてくれるという話がよくありますが、ぼくが見た限り、ロボットは一台もいませんでした。
 
  何に困ったのかというと、メニューがさっぱりわからなかったことです。20世紀の喫茶店では、注文は「ホット」とか「コーヒー」とか言えばそれで済みますよね。でも、先生、21世紀の喫茶店は手ごわいのです。先生はわかりますか。「ソイラテ」、「カフェラテ」、「キャラメルマキアート」、「マンゴーパッションティーフラペチーノ」、果ては「フルーツ-オン-トップ-ヨーグルト フラペチーノwithクラッシュナッツ」などなど、メニューを見ているだけで頭に血がのぼり、目の前がクラクラして、脂汗がでてきました。たしか店頭には「coffee」と書いてあったから、間違いなく喫茶店のはずなのに、コーヒーがないじゃないかと不審に思いながらも、必死に目を走らせると、ようやく「ドリップコーヒー」という文字が見つかりました。そこで「ドリップコーヒーをください」と頼んでほっとする間もなく、新たな試練がぼくを襲いました。

  店員は、にこやかな笑みを浮かべながら「サイズはどうなさいますか」とぼくに聞くのです。先生、コーヒーにサイズがあるなんて信じられますか。いままでの人生のなかで、喫茶店でコーヒーのサイズを聞かれた経験がおありですか。ぼくはかすれた声で「サイズ?」と聞き返すのが精一杯でした。でも、試練はまだ続きます。店員は愛想よく「はい、ショート、トール、グランデ、ベンティのどれになさいますか」と聞くのです。もう何が何だかわからなくなり「お任せします」と言ったら、店員は困った顔をしました。ぼくはとっさに「一番売れているのはどれですか」と聞きました。これは我ながらなかなかの策だったと思います。店員は少し考えてから「トールサイズです」と言ったので、それをくださいと言って、ようやく試練が終わりました。

  こんなことを報告していたら切りがありませんね。でも、これでもぼくが先生にお伝えしたいことのほんの一部なのです。これ以外にも、21世紀の電話番号はやたらに長いとか、21世紀の傘は透明のビニール製だとか、あいさつの言葉は「こんにちは」でも「こんばんは」でも「さようなら」でもなくすべて「お疲れさまです」だとか、伝えたいことがたくさんあります。そして、変わったことがたくさんある一方で、20世紀と同じく、夜の街には先生の大好きな赤提灯の店もちゃんとありますし、ヨッパライもいます。猫も21世紀になってもあいかわらずかわいくて、優雅です。じつは、昨夜、とある駐車場で一匹の黒猫と知り合いになりました。

  また報告しますね、先生。

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