もちろん、これは哲学のゼミ。小難しい死の害悪をめぐる論文や人生の意味についての資料をみんなで議論しつつ、発表の準備をする。当日の模様はゲスト聴講をしてくれた3年生の原口さんのレポートを参照していただきたいが、「20代を何度も繰り返すことで、一度の経験におけるかけがえのなさが薄まってしまう」「そんなことはない。卒業式は何度も経験したけどそれぞれに素晴らしい経験だった」だの、「死があるから人生を大事にするんだ」とか「いや、人生の意味というのは、死によって形づくられるものではない」など、「死」を考えることは「人生」について深く考えることに参加者が気付いたようで、仕掛け人としては嬉しくなったりしたのでした。
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2015年8月17日月曜日
死と不死をめぐる合同ゼミ (宮野真生子先生)
宮野先生と原口花恵さん(2013年度入学)から、7月17日に宮野ゼミと林ゼミが実施した「死と不死についての合同ゼミ」の紹介記事をいただきましたので、お届けします。
きっかけはひょんなことだった。林先生と焼き鳥をつまみに飲みながら、「お互いのゼミ同士、仲の良い学生さん多いけど、ゼミの時間が一緒だから、互いのとこにもぐれないのが残念だよねー」と話をしていたのだ。で、ふと私の口から出たのが「じゃぁ、合同でゼミやってみる?」。そこからはあれよあれよと話が進んで、テーマは「死ぬのが怖いというのなら、死ななければいいんじゃない?」、つまり、「必ず死が訪れる人生か、不死のまま人生を謳歌する生き方か」。不死というと、多くの人がイメージするのが「病み衰えて死ねないなんて、苦痛じゃないか」とか「ずっと続くなんて退屈じゃないか」ということだろう。しかし、心配ご無用。今回の「死vs不死」には、条件設定がついていて、それは「不死」の場合は、「自分の好きな年代を生きることができる(たとえば、40歳の自分を生きたあとに、20歳に自分を選ぶことができる。年齢設定自由)」というもの。これなら、何度でも楽しい体験ができて、しかも、死の恐怖を味わう必要もない、お得!というわけ。
もちろん、これは哲学のゼミ。小難しい死の害悪をめぐる論文や人生の意味についての資料をみんなで議論しつつ、発表の準備をする。当日の模様はゲスト聴講をしてくれた3年生の原口さんのレポートを参照していただきたいが、「20代を何度も繰り返すことで、一度の経験におけるかけがえのなさが薄まってしまう」「そんなことはない。卒業式は何度も経験したけどそれぞれに素晴らしい経験だった」だの、「死があるから人生を大事にするんだ」とか「いや、人生の意味というのは、死によって形づくられるものではない」など、「死」を考えることは「人生」について深く考えることに参加者が気付いたようで、仕掛け人としては嬉しくなったりしたのでした。
もちろん、これは哲学のゼミ。小難しい死の害悪をめぐる論文や人生の意味についての資料をみんなで議論しつつ、発表の準備をする。当日の模様はゲスト聴講をしてくれた3年生の原口さんのレポートを参照していただきたいが、「20代を何度も繰り返すことで、一度の経験におけるかけがえのなさが薄まってしまう」「そんなことはない。卒業式は何度も経験したけどそれぞれに素晴らしい経験だった」だの、「死があるから人生を大事にするんだ」とか「いや、人生の意味というのは、死によって形づくられるものではない」など、「死」を考えることは「人生」について深く考えることに参加者が気付いたようで、仕掛け人としては嬉しくなったりしたのでした。
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