2014年11月12日水曜日

ハイブリッドは日本宗教のお家芸だ(白川琢磨教授)

「教員記事」をお届けします。第十四回は文化人類学の白川琢磨教授です。


ハイブリッドは日本宗教のお家芸だ

経験としての神仏習合
 宗教のハイブリッド化は、一般にシンクレティズムと称されるが、日本の場合、神と仏の融合=合体は「神仏習合」として捉えられてきた。この歴史は長い。既に八世紀後半、畿内で胎動し始めた「神身離脱」現象をその嚆矢とするが、やがて中世に至るとその波はうねりとなって全国を覆い、明治初期の「神仏分離」によって強制的に排除されるまで、千年以上にわたって、我々の文化の支配的様式としてその影響力を保ち続けたのである。

 明治の神仏分離が強烈かつ徹底的であったが故に、今日の我々は神と仏は全くの別物であり、習合の感覚を想像することさえ難しい。だが、今日でもその経験がなくなったわけではない。モノから始めよう。


木造太郎天及び二童子立像(長安寺蔵)鈴木一馨氏撮影
本来、屋山中腹の六所権現社に祀られていた
豊後、国東半島、六郷満山の一つである屋山の長安寺が所蔵する「木造太郎天及び二童子立像」である。銘文によると大治五年(一一三〇)に造られ、当時は「屋山太郎惣大行事」と呼ばれていたらしい。実に不思議な神像である。像高は大体人の背丈くらいで、両脇の童子はちょうどその半分ほどだ。髪をみづらに結った等身大の若者像に対面すると生々しい親近感を覚えてくる。だが住職が最初にこの像を紹介した時、太郎天とは一言も言わずに「不動明王と矜羯羅・制多迦の二童子です」とさらっと言った。これが習合感覚である。不思議に感じるのは、我々が強引に「神」と「仏」を分けようとするからであり、我々「人」に近い太郎天の背後に不動明王の鏡像を感じ、さらにそれが大日如来の教令輪身であることを感得すれば、仏と神(天)は緩やかに繋がってくるのだ。
木造太郎天立像(長安寺蔵)


「人」と「神」の近さ
 当時の人々の世界観を示すのが「六道」の考え方だ。輪廻転生を余儀無くされる六つの世界で、下から地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天(神)の六つに分かれている。ここの住人である限り、性別や寿命がある。仏はこの六道を超越した世界に存在する。人と神は、性別や寿命や喜怒哀楽を共有する、六道の上位に位置する極めて似た存在である。人であった菅原道真は、死後、天満大自在天という神となった。やがて、仏は衆生を救うために日本の神となって現れたという本地垂迹の思想となる。





天念寺修正鬼会の災払鬼(愛染明王の化身)、
頭には菖蒲を付け、身体は鳶葛の縄で
縛られている。
「鈴鬼」の不思議
天念寺修正鬼会の荒鬼(不動明王の化身)と
災払鬼。松明を手に講堂内を暴れまわる。
「鬼」も、この人と神の間隙から出現する。同じく六郷満山の長岩屋、天念寺で旧一月七日に「修正鬼会」という正月儀礼が行なわれる。主役は、昼過ぎから延々と続き、深夜、最後のクライマックスに登場する「災払鬼(赤)=愛染明王」と「荒鬼(黒)=不動明王」の二鬼である。





天念寺修正鬼会の鈴鬼(男)
天念寺修正鬼会の鈴鬼(女)
ところがこの両鬼が登場する直前に、両鬼を「招く」という役割を担って「鈴鬼」という実に不思議な存在が出現する。この鈴鬼、男女一対で鈴と団扇を手に十種の穏やかな法舞を披露する。男女の性別ははっきりしており、衣装を見てもどちらかと言うと人である。しかし、頭には紙手を付けており、何よりも神の象徴である鈴を鳴らす。しかも名称は鬼である。つまり、人と神の属性を分有するハイブリッドな鬼なのだ。





「駆先(ミサキ)」のハイブリッド性


豊前・山内神楽の駆先。

湯駆先と呼ばれる湯立て神楽(山内神楽)。
駆先が手にしているのは扇と「シカンジョウ」の杖、
または鬼杖と呼ばれる駆先独特の杖である。
豊後の北、豊前地方には多数の神楽が分布し活発に活動している。その豊前神楽の主役が、駆先(ミサキ)と呼ばれる鬼である。このミサキ、同系統の古い祭文によれば、「御仏の前にて荒神となり、神の前にて御前(みさき)となる、有漏の凡夫の外道となる。・・・仏神ともに我なり・・・」と、荒神(仏)=ミサキ(神)=外道【鬼】(衆生)という見事なハイブリッド化を示している。しかし近世後期から神官らを中心に、ミサキは記紀神話の猿田彦尊に該当するという解釈が広がっていき、やがて習合を敵視する神仏分離を迎えるのだ。日本宗教のお家芸であったハイブリッド化を放棄してしまった近代明治は、文化の豊饒さの大きな部分を失ってしまうのである。

出典:月刊みんぱく 平成25年8月1日発行
第37巻第8号(通巻第431号)[編集・発行]国立民族学博物館

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