2014年11月6日木曜日

「糸電話の謎」、そしてその他の謎のことなど(関口浩喜教授)

「教員記事」をお届けします。第十三回は哲学の関口浩喜教授です。


「糸電話の謎」、そしてその他の謎のことなど 関口浩喜

  糸電話に悩んでいる。
といっても、糸電話による無言電話とか脅迫電話とかに悩まされているのではない。「糸電話」という言葉に悩んでいるのである。ご存じかと思うが、糸電話とは、底に紙を張った二つの竹筒を糸でつないで会話をする遊び道具で、私自身は小学校の理科の時間に、竹筒の代わりに紙コップを使ってこの糸電話を作った記憶がある。単純な仕掛けのわりに糸を伝わって聞こえてくる友人の声は明瞭で、結構楽しめた。
  さてしかし、この糸電話なるもの、本物の電話が発明される以前にはいったい何と呼ばれていたのだろうか?電話が発明される前には、そもそも「電話」などという言葉は存在していなかっただろうから。
  同様の理由から、「紙飛行機」にも悩んでいる。紙飛行機は、本物の飛行機が発明される以前にはいったい何と呼ばれていたのだろう? 悩んだ挙句に、私の達したとりあえずの結論は、糸電話は本物の電話が発明された後で、本物の電話をモデルにして発明されたのではないかというものである。同様に紙飛行機も、本物の飛行機が発明された後で発明されたのではあるまいか。だから、電話や飛行機が発明される以前には「糸電話」という言葉も「紙飛行機」という言葉も存在していなかった―。
  もちろん、これはきちんと調べたうえでの結論ではないから真偽のほどは保証しかねるのだが、ただ仮にそうだとすると、われわれ人類は複雑な仕組みの電話を発明してから、単純な仕掛けの糸電話を発明し(電流を用いて会話ができることに気づいた後で、糸を用いて会話できることに気づいた!)、大きな飛行機を発明して空に飛ばしてから、小さな紙飛行機を発明して空に飛ばしたことになる。人類の進歩は<単純なものから複雑なものへ>という直線的な経路をたどるとは限らないらしい。

  以上は、私が福岡大学に着任した直後に、「糸電話の謎」と題して学内のある冊子に書いたものの一部で、いまから十五年ほど前の文章である。そのころは、現在のようにインターネットが普及していなかったので、百科事典などで「糸電話」や「紙飛行機」の項目を探して上記の「謎」を解決しようとしたのだが、結局のところ、わからずじまいであった。先日、ふとこの謎のことを思い出し、インターネットで調べてみると、あっけないほどあっさりとこの謎が解決してしまった。その答をここに書き写すことはやめておくが、そのとき私は、十五年来の謎が解けたうれしさと、謎が解けてしまったことから生じる、何と言うか、かるい失望のような思いとの双方を味わった。
  じつは、これ以外にも私が長いあいだ謎に思っていることはいくつかあって、そのうちのひとつに「コピー機のテンキーの謎」と私がひそかに呼んでいた謎がある。書類をコピーするときには枚数をテンキーで入力しますね。ある日、このテンキーに小数点を入力するピリオド記号(.)があることを発見し、不思議な気分になってしまった。コピーの枚数を入力するには、自然数だけで十分であって、たとえば「書類を3.14枚コピーする」などということはありえない。だから小数点は不要のはずである。では、いったい、このテンキーのピリオドは何のためにあるのか。この謎も、つい先ほどインターネットで検索をすると、あっけなく解けてしまった。ご存じない方で、興味のある方はご自分で調べてみてください。
  思い出したので書いておくと、SF作家の星新一がいまから三十年近くまえに「アリに充分にエサをやりつづけたら、なまけものになるか」という疑問を記していた。大きなガラスの容器のなかでアリを飼ってみる。ただし、容器のなかには土ではなくて、少し湿気を帯びた砂糖をいれておく。すると、アリたちは穴を掘って巣を作るのであろうが、さて、巣のなかにそとの砂糖をはこぶかどうか。
これに続けて星新一は「ナマケアリという新種ができそうだ」と書いていて、実際のところどうなるのだろうと疑問にも不思議にも思っていた。身近に砂糖もあれば、アリもいるのだから、その気になれば自分で実験をすることも可能であったのだが、ナマケモノの私は実行しないまま、三十年もの時が経ってしまった。それに、実際に結果を確かめるよりも、あれこれと結果を空想するほうが楽しかったということもある。
  そして、つい誘惑に負けてこれもまたインターネットで調べてみると、ちゃんと答が出てきたのである。おまけに動画で実験の模様まで見ることができる。便利な世の中になったと言うべきか、つまらない世の中になったと言うべきか。
  だから、と続けるにはいささか飛躍があるが、どうやら、現代にあっては持続する謎を見出すのはむずかしいらしい。あるいは謎を持続させるのはむずかしい。謎が解けるのは、むろん、うれしい。一方で、謎をかかえたまま、時おり思い出しては自分であれこれ考えるのも楽しい。だが、インターネットという便利とも安易とも言える道具を使えば、たいていの謎や疑問はその場でただちに氷解する。
  我田引水になるが、その点、哲学の謎は、長持ちする(申し遅れたが、私の専門は哲学なのです)。なにせ、今から二千年以上もまえにソクラテスだのプラトンだのが提出した謎や問いが、いまだに解決を見ていない。いや、なにも哲学に限らない。およそ学問というものは、そういうものだろう。すぐに解けてしまう謎であるならば、学問的な情熱を傾けるに値しない。
  最後に、これはたぶん、インターネットで調べても解けない、私が気になっている謎をごく手短にふたつだけ、書いておこう。たとえば、あなたがある店で同じ中辛カレーを友人といっしょに食べたとしてください。あなたは「辛い」と言い、友人は「甘い」と言う。これが私には謎なのである。何が謎なのか、さっぱりわからないかもしれないので、では、今度は、友人といっしょに一匹の猫を見たとしてください。あなたは「この猫は黒い」と言い、友人は「この猫は白い」と言う。もちろん、そんなことは起こらない。だから謎なのである。
  もうひとつは、音の謎である。音が聞こえるのは、空気の振動が鼓膜を振動させるからであるが、鼓膜は耳の内部にある。すると、音はすべて耳のなかで聞こえるのが理の当然ということになりはしまいか。ところが、実際には、われわれは、音が自分の身体の外で生じていると感じている。それどころか、遠くの音、近くの音、というぐあいに、音の遠近(のみならず方向)まではっきりわかる。理にしたがう限り、音はすべて耳のなかで聞こえるべきなのに。というわけで、謎なのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿