2022年12月12日月曜日

ゴールポストと梟の神様、そしてザシキワラシ

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、 哲学・宗教学の小笠原史樹先生です。


ゴールポストと梟の神様、そしてザシキワラシ

小笠原史樹(哲学・宗教学)

スポーツ観戦の習慣は全くないのだけれど、ほぼ唯一の例外として、四年に一度、サッカーのワールドカップだけは楽しみにしている。このブログ記事を書いている時点で(2022年12月10日)、すでに準々決勝、最初の二試合が終わり、次は残り二試合。何の知識も経験もない素人の目で画面を眺めているだけではあるものの、十分に堪能しており、そのため授業の準備が進まず、今、かなり追いつめられている……。
 
それはともかく、試合の実況や解説などで時々「ゴールポストに嫌われた」という表現を聞くことがあり、言葉遣いとして面白い、と思う。正確に定義できる自信はないが、「シュートしたボールがゴールポストに当たり、ゴールの外側に弾かれてしまうこと」という程度の意味だろうか。まるでゴールポストがその選手を、あるいはシュートやボールを好いたり嫌ったりしているかのようで、人間以外の視点が入りこんでくるのが面白いし、「選手がシュートを外した、ミスした」という言い方より、しっくりくる。

きっと、シュートがゴールに入るかどうかは、シュートを打った選手の行動だけで決まるわけではない。そこには他にも様々な、無数の要因・条件が関わっているのだろうし、そのような複雑な出来事の責任を、一人の選手だけに負わせるのはフェアではない、という気がする。ゴールポストの「好き嫌い」に理由を求める方が適切、と感じる。

ところで、ゴールポストに嫌われることもあれば、梟の神様があわれんでくれることもあるらしい。以下、『アイヌ神謡集』に収録されている最初の物語、「梟の神の自ら歌った謡(うた)」の一場面。「銀の滴(しずく)降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という歌を歌いながら、梟の神様が人間の村の上を通っていく。地上で遊んでいた子供たちが梟を見つけ、梟を狙って矢を射る。お金持ちの子供たちは金の弓で金の矢を射るが、当たらない。「金の小矢を/私〔=梟の神〕は下を通したり上を通したりしました。」
 
お金持ちの子供たちの中に、一人だけ貧しい子がいる。その子が、金の矢ではない「ただの矢」「腐れ木の矢」で梟を狙うと、お金持ちの子供たちが笑ってバカにし、その子を足蹴にしたり叩いたりする。「けれども貧乏な子は/ちっとも構わず私をねらっています。/私はそのさまを見ると、大層不憫に思いました。」

「小さい矢は美しく飛んで/私の方へ来ました、それで私は手を/差しのべてその小さい矢を取りました。/クルクルまわりながら私は/風をきって舞い下りました。/すると、彼(か)の子供たちは走って/砂吹雪をたてながら競争しました。/土の上に私が落ちると一しょに、一等先に/貧乏な子がかけつけて私を取りました。」(15頁)

貧しい子の放った矢が梟に当たった。つまり、梟の神様が矢を取ってくれた。矢が命中した主な原因は人間の側ではなく、梟の側にある。この後、貧しい子は梟(梟の死骸)を持って家に帰り、家では老夫婦が梟の神様を丁重にお迎えする。すると真夜中、梟の神様(梟の魂?)が家を宝物でいっぱいにしてくれて、彼らはお金持ちになった、という。

梟の神様があわれんでお金持ちにしてくれることもあれば、ザシキワラシが去って富豪が没落することもある。柳田國男『遠野物語』によれば、遠野地方の旧家にはザシキワラシという神が住んでいることがあり、「この神の宿りたまふ家は富貴自在なり」と言われる。しかし、ザシキワラシがいつまでも家に宿ってくれる、とは限らない。『遠野物語』第18話から、山口孫左衛門の家にいた二人のザシキワラシ(二人の童女)が去っていく、という場面。

「ある年同じ村の何某といふ男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にてこちらへ来る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答ふ。これからどこへ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。(中略)さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸の毒にあたりて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近き頃病みて失せたり。」(25頁)

第20話では、孫左衛門の一家が茸の毒で亡くなる前、家の人々が屋敷で多くの蛇を見つけ、「おもしろ半分に」殺してしまった、というエピソードが語られている。『遠野物語拾遺』には、家に出る蛇はその家の先祖なので殺してはならない、殺すと祟られて病気になる、などの話も見られるため(第181話参照)、蛇を殺したことが原因で一家が全滅してしまった、つまり責任は彼ら自身にある、と読解することも不可能ではない。しかし当面の解釈としては、家の人々が蛇を殺してしまったことも、茸の毒で亡くなったことも、主な原因はザシキワラシがこの家を去ったことにある、と読んでおきたい。

それにしても、なぜザシキワラシは去ってしまったのか。明確な理由は記されていない。幸運や不運がめぐってくるのを自分ではコントロールできないのと同じく、ザシキワラシの振舞いは、人間が制御できる類のものではないのだろう。

ゴールポストに嫌われるかどうか、梟の神様が矢を取ってくれるかどうか、ザシキワラシが家から去るかどうか。おそらくこれらは、人間の行動だけで決定されるようなことではなく、ともすれば、人間の行動は無関係ですらあり得る。ある出来事について、誰かの行動だけに理由を求め、その誰かに責任を負わせてしまうような語り方は、決して唯一の語り方ではない。「これは私の責任だ、私のミスだ」と自分を責めてしまうことについても同様である。どうしてもそのように語ってしまう、それ以外の語り方があり得るとは感じられない、という場合でも常に、同じ出来事を別の仕方で、別の視点から語り直すことはできる。少なくともその程度には、この世界は人間にとって不確定で、偶然性に満ちている、と思う。

要するに、私の授業準備が滞っているのは、私の行動だけに理由があるのではなく、私に責任を負わせるような語り方は、適切ではない。きっと今は、授業に嫌われているのだろう。そのような世界の偶然性を受け入れて、仕事は一旦脇に置き、準々決勝の残り二試合をゆっくりと観戦することにしよう……。

【参考文献】
 知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』、岩波文庫、1978年
 柳田国男『新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺』、角川ソフィア文庫、2004年

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