先日開催されたオープンキャンパス(2022年8月6日)での模擬講義に関して、「その講義内容を後日ブログに投稿していただけませんか」とのコメントをご投稿いただきました。ありがとうございます。
リクエストにお応えして、開田奈穂美先生の模擬講義の要約と配布資料、小笠原史樹先生の模擬講義の音声(2022年9月末までの期間限定)と配布資料を公開します。
写真1 開田先生の模擬講義の様子 |
写真2 小笠原先生の模擬講義の様子 |
1.開田奈穂美先生「『鬼滅の刃』から考える日本社会と支配のありかた」(社会学)
当日の配布資料はこちら(表示のみ、ダウンロード不可)
今回の模擬講義では、マックス・ウェーバーという社会学者による支配の3つの類型の考え方を使って、作品内に登場する二つの組織(鬼殺隊と鬼)の支配のありかたについて考察しました。この類型に当てはめると、産屋敷耀哉率いる鬼殺隊は伝統的支配であり、鬼舞辻無惨が率いる鬼はカリスマ的支配に近いということが言えます。また、この支配のありかたに関連して、産屋敷は生まれ持った属性(代々鬼と戦ってきた家柄)によって、無惨は努力次第で変えられる要素、つまり能力(とにかく誰よりも強い)によって組織内での評価が決まっていることがわかります。
人を生まれ持った身分や家柄によって評価する属性主義というのは前近代的な評価軸で、近代以降の社会では人を努力次第で変えられる能力によって評価する、能力主義が台頭してきたと言われています。ということは、主人公の竈門炭治郎が属している鬼殺隊は古い支配のあり方や評価軸を用いており、むしろ敵である鬼の方が、能力主義という新しい評価軸を使っているのです。マンガでも映画でも、ヒーローものといえば、主人公が自らの魅力や能力を使って周囲に新しい秩序をもたらす、というのが定石です。これに対して、この作品では、主人公の方が古い価値観をもつ組織に所属し、敵である鬼の方が新しい時代を象徴しています。この点が、従来の少年漫画とは違う、とても奇妙な配置であると言えます。
それではなぜこの作品は、主人公を時代的に古い組織に置き、敵である鬼を新しい時代の象徴のように描いたのでしょうか?ひとつの答えは、能力主義が幅をきかせる現代社会のなかにあります。能力主義とは、人間は生まれ持った属性がすべてではなく、努力すれば幸せになれるとか、努力すれば評価されると考えることです。これは近代社会がもたらした夢であり希望でもあるのですが、現代においてはこの考え方が逆転して、幸せになれなかったのは、うまくいかなかったのはその人の努力が足りなかったせいだ、と考えることにもつながっています。無惨は、力がなければ生きている価値がないと作中で言い放ちますが、このメッセージは現代を生きる私たちが内面化してしまっている考え方でもあります。私たちの考え方は、主人公よりもむしろ鬼に近いのです。でも本当に鬼と同じ考え方を続けてよいのでしょうか?主人公は作中で、弱くとも生身の人間として生きることを肯定しようとします。これは、私たちが今生きている現代において軽視されがちな、弱さや無力さをも、人間らしさとして受け入れようという作品全体のメッセージであると考えられるのです。
2.小笠原史樹先生「「君と俺とでは価値基準が違う」――『鬼滅の刃』の死生観」(哲学・宗教学)
下記の外部サイトをご参照下さい。資料と音声(9月末まで)が公開されています。
0 件のコメント:
コメントを投稿