2022年6月20日月曜日

宮野さんのこと、日本哲学のこと

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学の竹花洋佑先生です。

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宮野さんのこと、日本哲学のこと

竹花洋佑

 

 はじめまして。2021年の4月に福岡大学に着任いたしました、竹花です。福大に来てすでにまる一年以上たちましたので、完全にタイミングを逸しておりますが、はじめてブログに記事を掲載させていただきますので、少し個人的なことをお話しさせていただければと思います。個人的なことといっても、生い立ちや趣味についてではありません。私の専門としている日本哲学のこと、そして宮野さんのことについてです。

 宮野さんとは、2019年7月に逝去された宮野真生子先生のことです。宮野さんがご担当されていた共通教育科目の「哲学」や専門科目の「日本の思想」を現在私が担当しているので、私は宮野さんの後任者ということになります。

 私と宮野さんとは1歳違いになります。宮野さんが1977年生まれで私が1978年生まれになりますが、学年でいえば同じになります。初めての出会いは、今から20年ほど前のこと、20034月に私が京都大学の大学院に入学した頃にさかのぼります。私は廻り道をして他大学から京大の大学院に入りましたので、生え抜きの宮野さんは、私が修士1年生の頃、すでに博士課程の2回生でした。


 ここで宮野さんと私が在籍した研究室の特殊性について触れておきたいと思います。私たちが在籍したのは日本哲学史研究室というところなのですが、実はここが日本で(あるおそらくは世界でも)日本哲学を専門的に研究する唯一の研究室になるのです。なぜ、西洋哲学や中国哲学あるいはインド哲学を研究するところはたくさんあるのに、日本哲学を研究できるところはここしかないのでしょうか? これには深いわけがあります。

 問題の根っこには、日本哲学という学問分野が果たして本当にありうるのかどうかという疑念があります。そんな馬鹿な!と思うかもしれません。だって、鎌倉時代には親鸞や道元がいたし、江戸時代にも偉大な儒学者や国学者は存在したからです。明治以降も日本は福沢諭吉や中江兆民などといった偉大な思想家を輩出しています。しかし、こういった人たちは基本的にこれまで日本思想という枠組みで研究されてきました。つまり、彼らは思想家であっても哲学者ではない、というわけです。では、どのような人たちが哲学者とみなされるのでしょうか? これは難しい問題ですが、一般的に言うならば、批判性、厳密性、独創性の三つの指標が考えられるかと思います。つまり、昔の偉い人たちが述べたことに対しても、つまり孔子であろうとプラトンであろうと、その人たちの言ったことを鵜呑みにして後生大事に祭り上げるのではなく、きちんと批判的に吟味するという姿勢を持つこと、自らの考えを単に断定的に言い放つのではなく、体系立てて、論理的に述べること、そうしてそのように述べられた思想がオリジナリティーを持っているということ、です。こうした観点から見ると、上に挙げたような日本の思想家は哲学者とは呼べないんじゃないかと考えられているわけです。

 ところが、明治の最後の年に一人のスターが誕生します。1911年、明治44年に『善の研究』を刊行した西田幾多郎(1870-1945年)です。京都に「哲学の道」という観光名所がありますが、これは彼が思索をしながら散歩したことにちなんでいます。彼の本は大正時代の若者たちの心をとらえます。「ついに我が国にも哲学者と呼べる人物が現われた!」、新しい知を渇望する青年たちは西田に日本の思想の進むべき道を見ます。彼の名声は日増しに高まり、彼の周りに優秀な人物が集まってきます。西田は京都大学に勤めていましたから、彼を中心とする哲学者のグループは「京都学派」と呼ばれました。日本で哲学者といえば、西田をはじめとしたこの一団の人々をまず指すのが通例となっています(もちろん、日本の哲学者は彼らだけではありませんが)。「京都学派」に誰を含めるのかということに関してはいろいろ意見がありますが、もっとも広くとれば、田辺元、三木清、西谷啓治、和辻哲郎、九鬼周造などといった人たちがそのメンバーになります。

  こうして日本も哲学者と呼べるような人たちが現われました、めでたし、めでたし、とはならなかったのです。このことは戦争の問題と関わっています。いわゆる「京都学派」の「戦争協力」というやつです。この問題は非常に微妙で複雑ですので、ここで簡単に述べることはできません。「京都学派」に属する哲学者がみなこぞってまったく同じトーンで、中国やアメリカに対する日本の戦争に賛同し、それを後押しする主張をしていたわけでは決してありません。ただ、「京都学派」の主流派に属していた哲学者たちが(この中には西田や田辺も含まれます)現在の私たちから見て見過ごすことのできない発言をしていたことも事実です(当時自由な言説が封じられていたという歴史的状況がありますが、その点を加味してもです)。このことが、価値観が180度転換した戦後に問題視されます。しかも、GHQの占領政策のために主流派は基本的に公職から追放され、「京都学派」の影響は京大からほぼ一掃されます。さらに言えば、西洋哲学を東洋的な無の原理で乗り越えるといったような彼らのスタンス(専門的に研究している私から見ればこんなに単純ではないのですが、一般的にはこのように見えるらしいです)を快く思わない人たちもたくさんいました。

  要するに、戦後「京都学派」の哲学は嫌われたということです。もちろん、西田や田辺に直接薫陶を受けたお弟子さんたちは活躍していましたので、お弟子さんたちを中心に「京都学派」の哲学を顕彰し、継承する流れもありました。でも、研究対象にはなかなかできなかったのですね。だって、しようものなら、「あんなとんでもない過去の遺物を扱うのか」という白い目で見られるか、「西田先生や田辺先生はそんなこと言っていない! そもそも呼び捨てにするな!」というお叱りをお弟子さん筋から受けるかのどちらかという雰囲気だったからです。どの思想もそうでしょうが、それを客観的に冷静に評価するにはある程度“ねかせる”必要があります。再評価の機運が十分に醸成されたのは、戦後50年ほど経つ頃です。日本哲学を専門とする研究室が設置されたのもちょうどこの時期、つまり90年代の後半にあたります。その頃からさらに30年ほど時が経ちますが、当時の空気の一端に触れた者からすれば隔世の感があります。日本哲学を第一の専攻とする若い研究者は増えましたし、学会誌でもこの分野に関する論文は多くなってきました。日本哲学に関する書籍は数多く出版され、Japanese Philosophyを冠した国際学会や海外のジャーナルも存在します。もはや一つのジャンルとして認められたと言ってもいいでしょう。

 ながながと経緯を書いたのは、宮野さんが「戦っていた」ということを言いたかったからです。「戦っていた」というは今から振り返ればそう理解できるということで、私にとって宮野さんはまず怖い先輩でした。先生としての宮野さんをご存知のみなさんには意外に思われるかもしれませんが、出会った当初私は宮野さんによく怒られていたという印象があります。

  これには理由があります。戦後50年ほど経って、「京都学派」あるいは日本哲学を客観的に研究するための雰囲気や制度が生まれてきたとはいえ、哲学といえば西洋哲学を指すわが国において日本哲学は珍奇な分野でした。もちろん、多くの偉い先生が日本の哲学者の意義について語り始めていました。でも、そういう先生方は基本的に西洋哲学で哲学の訓練と業績を積んで来られた方々でした。しかし、宮野さんや私のような世代は初めから直接日本哲学を研究している世代です。私自身も経験したことがありますが、日本哲学は当時まだまだ特殊な領域で「お前のやっていることは哲学なのか?」という眼で見られたものでした。しかも、日本哲学と言えば西田幾多郎という雰囲気の中で、宮野さんはおそらくあえて九鬼周造を研究対象に選んでいました。それなりの覚悟と思い入れがあってのことと思います。かくいう私もあえて西田ではなく田辺元を研究対象として選びました。

 宮野さんは日本哲学がどのような意味で哲学としてあるいは一つの学問分野として成り立つのか、という問いにとても敏感だったと思います。今でも宮野さんから、「竹花君は日本哲学という分野が自明であるかのように勘違いしている」とややきつめの口調で何度も言われたことを覚えています。確かに私自身はその問題について鈍感でした。私は宮野さんと違って学部では西洋哲学を専門に勉強しており、西田や田辺もカントやヘーゲルと同じように研究できると思っていました。その考えに今でも変わりはありませんが、しかしジャンルとしてまったく確立していない日本哲学の細かな文献的研究を持っていっても誰も評価してくれません。そもそも日本哲学を研究する意義を同時に伝えないとあまり相手にされないのです。さまざまな異分野の研究者と交流することに積極的だった宮野さんはそのことを肌で感じ、色々と悩みながらも自らの立ち位置を常に問い直しつつ研究をされていたのだと思います。「戦っていた」とはそういうことです。一方私と言えば、外に出て研究者と交流するのは苦手だったので、そういう問題をあまり自覚せずに済んだということでしょう。

 宮野さんとは個人的に本当にさまざまな思い出があります。研究室で一番仲が良く、お世話になった先輩だからです。よく一緒に飲みにも行って、「最近の〇〇の研究、あれどうなのよ!」と研究の状況について憂いたり、「私たちが頑張らないとダメ!」と自分達を鼓舞したりもしました。この福大でも宮野さん主催の研究会を2回ほどしたこともあります。

  一番よく覚えているのは、2006年の10月に日本哲学の研究会でドイツのベルリンに一緒に行ったことです。私は海外初めてだったので経験者の宮野さんに航空券などお任せするかたちになりました(経験者と言っても、宮野さんもヨーロッパ2回目だったかと思います)。ドイツのフランクフルト空港でベルリン行きの飛行機への乗り継ぎがあったのですが、時間の設定を失敗して、二人で広い広いフランクフルト空港を爆走する羽目になりました。爆走の甲斐も虚しく、飛行機には乗り遅れ、スーツケースは別の便に載ってしまって受け取ることができず、ヘロヘロの状態でベルリンの大学の宿舎につきました。宮野さんが、「こういう時にはとりあえずシャンプーとリンスを買っておくの」と冷静に言っていたのが、今でも妙に印象に残っています。

 思い出はとめどなく出てきますので、きりがありません。後輩として強調しておきたいのは、日本哲学を専門とする研究者の第一世代として宮野さんは多くのものを遺してくれた、ということです。九鬼研究はもちろんのこと、恋愛や家族、あるいは性の問題、さらには食という問題は、「日本哲学とは何でありうるのか」という問いと絶えず格闘してきた宮野さんが文字どおり素手で切り開いた領域であると思うのです。

 竹花洋佑


200610月のベルリンでの研究会の際に。後ろに映っているのは、ベルリン大聖堂とテレビ塔です。宮野さんのお母様の許可をいただいて掲載させていただきました。

2 件のコメント:

  1. 記事を拝読いたしました。

    私も宮野先生よりご指導を賜った文化学科の卒業生です。

    宮野先生の福岡大学赴任初年度のゼミに所属し、日本の哲学に触れた者ですが、
    先の大戦の後、日本の哲学が憂き目に晒されたことについては
    不勉強ながら竹花先生の記事を読み、初めて存じた次第です。

    そのような眼差しに対し、
    日本の哲学は「そもそも学問分野として成り立つのか」という根本より
    自問自答を行い「戦って」おられた宮野先生。

    竹花先生と比較すると僅かな期間ですが、
    私は「戦う哲学者」宮野先生より直接教示を受けた経験があることを
    改めて誇りに感じました。

    3年前に開催された「宮野先生のご業績を語る会」閉幕後に
    福岡大学近隣の居酒屋にて行われた「2次会」におきまして、
    宮野先生に「まきこまれた」それぞれ世代が異なる方々と
    「ポリアモリー」について
    ゼミさながらの議論を行ったことを思い出します。

    九鬼周造の哲学から
    恋愛や家族、性の問題、食という問題まで。
    宮野先生の遺された哲学が、
    さらに幅広い分野で吟味されて、哲学として育っていくことを
    一教え子として願わざるを得ません。

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    1. コメント、誠にありがとうございます。
      宮野さんが福大に赴任された直後に、ゼミで直接教えを受けたのですね。多くの学生に慕われ・尊敬されていたことからも教員としても宮野さんは優れていたのですね。私は研究室の先輩としてしか知りませんから、教員としての宮野さんに興味があります。「日本哲学」という問題はうちに秘めつつ、学生にいかに哲学に関心を持ってもらうか、いろいろと苦闘されていたことと推察します。

      宮野さんのされてきたことは、もちろん「日本哲学」という領域にとどまる問題ではありませんが、少なくとも私としてはそのように受け止めて、果敢に領域を開拓していく宮野さんのスピリットを受け継いでいけたらと思っております。「竹花君はのんびりすぎる! もっとやらないと!」と宮野さんの叱咤の声が聞こえてきそうですが。

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