「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学の竹花洋佑先生です。
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宮野さんのこと、日本哲学のこと
はじめまして。2021年の4月に福岡大学に着任いたしました、竹花です。福大に来てすでにまる一年以上たちましたので、完全にタイミングを逸しておりますが、はじめてブログに記事を掲載させていただきますので、少し個人的なことをお話しさせていただければと思います。個人的なことといっても、生い立ちや趣味についてではありません。私の専門としている日本哲学のこと、そして宮野さんのことについてです。
宮野さんとは、2019年7月に逝去された宮野真生子先生のことです。宮野さんがご担当されていた共通教育科目の「哲学」や専門科目の「日本の思想」を現在私が担当しているので、私は宮野さんの後任者ということになります。
私と宮野さんとは1歳違いになります。宮野さんが1977年生まれで私が1978年生まれになりますが、学年でいえば同じになります。初めての出会いは、今から20年ほど前のこと、2003年4月に私が京都大学の大学院に入学した頃にさかのぼります。私は廻り道をして他大学から京大の大学院に入りましたので、生え抜きの宮野さんは、私が修士1年生の頃、すでに博士課程の2回生でした。
問題の根っこには、日本哲学という学問分野が果たして本当にありうるのかどうかという疑念があります。そんな馬鹿な!と思うかもしれません。だって、鎌倉時代には親鸞や道元がいたし、江戸時代にも偉大な儒学者や国学者は存在したからです。明治以降も日本は福沢諭吉や中江兆民などといった偉大な思想家を輩出しています。しかし、こういった人たちは基本的にこれまで日本思想という枠組みで研究されてきました。つまり、彼らは思想家であっても哲学者ではない、というわけです。では、どのような人たちが哲学者とみなされるのでしょうか?
これは難しい問題ですが、一般的に言うならば、批判性、厳密性、独創性の三つの指標が考えられるかと思います。つまり、昔の偉い人たちが述べたことに対しても、つまり孔子であろうとプラトンであろうと、その人たちの言ったことを鵜呑みにして後生大事に祭り上げるのではなく、きちんと批判的に吟味するという姿勢を持つこと、自らの考えを単に断定的に言い放つのではなく、体系立てて、論理的に述べること、そうしてそのように述べられた思想がオリジナリティーを持っているということ、です。こうした観点から見ると、上に挙げたような日本の思想家は哲学者とは呼べないんじゃないかと考えられているわけです。
ところが、明治の最後の年に一人のスターが誕生します。1911年、明治44年に『善の研究』を刊行した西田幾多郎(1870-1945年)です。京都に「哲学の道」という観光名所がありますが、これは彼が思索をしながら散歩したことにちなんでいます。彼の本は大正時代の若者たちの心をとらえます。「ついに我が国にも哲学者と呼べる人物が現われた!」、新しい知を渇望する青年たちは西田に日本の思想の進むべき道を見ます。彼の名声は日増しに高まり、彼の周りに優秀な人物が集まってきます。西田は京都大学に勤めていましたから、彼を中心とする哲学者のグループは「京都学派」と呼ばれました。日本で哲学者といえば、西田をはじめとしたこの一団の人々をまず指すのが通例となっています(もちろん、日本の哲学者は彼らだけではありませんが)。「京都学派」に誰を含めるのかということに関してはいろいろ意見がありますが、もっとも広くとれば、田辺元、三木清、西谷啓治、和辻哲郎、九鬼周造などといった人たちがそのメンバーになります。
ながながと経緯を書いたのは、宮野さんが「戦っていた」ということを言いたかったからです。「戦っていた」というは今から振り返ればそう理解できるということで、私にとって宮野さんはまず怖い先輩でした。先生としての宮野さんをご存知のみなさんには意外に思われるかもしれませんが、出会った当初私は宮野さんによく怒られていたという印象があります。
宮野さんは日本哲学がどのような意味で哲学としてあるいは一つの学問分野として成り立つのか、という問いにとても敏感だったと思います。今でも宮野さんから、「竹花君は日本哲学という分野が自明であるかのように勘違いしている」とややきつめの口調で何度も言われたことを覚えています。確かに私自身はその問題について鈍感でした。私は宮野さんと違って学部では西洋哲学を専門に勉強しており、西田や田辺もカントやヘーゲルと同じように研究できると思っていました。その考えに今でも変わりはありませんが、しかしジャンルとしてまったく確立していない日本哲学の細かな文献的研究を持っていっても誰も評価してくれません。そもそも日本哲学を研究する意義を同時に伝えないとあまり相手にされないのです。さまざまな異分野の研究者と交流することに積極的だった宮野さんはそのことを肌で感じ、色々と悩みながらも自らの立ち位置を常に問い直しつつ研究をされていたのだと思います。「戦っていた」とはそういうことです。一方私と言えば、外に出て研究者と交流するのは苦手だったので、そういう問題をあまり自覚せずに済んだということでしょう。
宮野さんとは個人的に本当にさまざまな思い出があります。研究室で一番仲が良く、お世話になった先輩だからです。よく一緒に飲みにも行って、「最近の〇〇の研究、あれどうなのよ!」と研究の状況について憂いたり、「私たちが頑張らないとダメ!」と自分達を鼓舞したりもしました。この福大でも宮野さん主催の研究会を2回ほどしたこともあります。
思い出はとめどなく出てきますので、きりがありません。後輩として強調しておきたいのは、日本哲学を専門とする研究者の第一世代として宮野さんは多くのものを遺してくれた、ということです。九鬼研究はもちろんのこと、恋愛や家族、あるいは性の問題、さらには食という問題は、「日本哲学とは何でありうるのか」という問いと絶えず格闘してきた宮野さんが文字どおり素手で切り開いた領域であると思うのです。
2006年10月のベルリンでの研究会の際に。後ろに映っているのは、ベルリン大聖堂とテレビ塔です。宮野さんのお母様の許可をいただいて掲載させていただきました。
記事を拝読いたしました。
返信削除私も宮野先生よりご指導を賜った文化学科の卒業生です。
宮野先生の福岡大学赴任初年度のゼミに所属し、日本の哲学に触れた者ですが、
先の大戦の後、日本の哲学が憂き目に晒されたことについては
不勉強ながら竹花先生の記事を読み、初めて存じた次第です。
そのような眼差しに対し、
日本の哲学は「そもそも学問分野として成り立つのか」という根本より
自問自答を行い「戦って」おられた宮野先生。
竹花先生と比較すると僅かな期間ですが、
私は「戦う哲学者」宮野先生より直接教示を受けた経験があることを
改めて誇りに感じました。
3年前に開催された「宮野先生のご業績を語る会」閉幕後に
福岡大学近隣の居酒屋にて行われた「2次会」におきまして、
宮野先生に「まきこまれた」それぞれ世代が異なる方々と
「ポリアモリー」について
ゼミさながらの議論を行ったことを思い出します。
九鬼周造の哲学から
恋愛や家族、性の問題、食という問題まで。
宮野先生の遺された哲学が、
さらに幅広い分野で吟味されて、哲学として育っていくことを
一教え子として願わざるを得ません。
コメント、誠にありがとうございます。
削除宮野さんが福大に赴任された直後に、ゼミで直接教えを受けたのですね。多くの学生に慕われ・尊敬されていたことからも教員としても宮野さんは優れていたのですね。私は研究室の先輩としてしか知りませんから、教員としての宮野さんに興味があります。「日本哲学」という問題はうちに秘めつつ、学生にいかに哲学に関心を持ってもらうか、いろいろと苦闘されていたことと推察します。
宮野さんのされてきたことは、もちろん「日本哲学」という領域にとどまる問題ではありませんが、少なくとも私としてはそのように受け止めて、果敢に領域を開拓していく宮野さんのスピリットを受け継いでいけたらと思っております。「竹花君はのんびりすぎる! もっとやらないと!」と宮野さんの叱咤の声が聞こえてきそうですが。