2018年2月12日月曜日

いぬなっじ(平田 暢先生)

 平成29年度第13回目の「教員記事」をお届けします。社会学の平田 暢先生です。今回は、犬を飼うとアフリカで貧困問題に苦しむ子どもが助けられる可能性が高まるのでは、というお話です。



いぬなっじ
   
     平田 暢(社会学


 12月の教員記事で、林誓雄先生が「忘年会に、いくべきではない理由」というタイトルで大変面白い倫理学的な思考実験を紹介されています。トロッコ問題(trolley problem)と言われるもので、暴走してくる機関車に対して線路を切り替えると子どもを救えるが、その代わりに自分の愛車Bugattiは破壊されてしまう状況でどうすべきか、という問題です。線路を切り替えなければかなりの確率で子どもは轢かれますが、愛車は助かります。

 つい、色々と考えてしまったのですが、自分の選択によって犠牲になるもの(=愛車のBugatti)、救われるもの(=線路で遊んでいる子ども)の属性が気になるところです。犠牲になるものがBugattiではなく新車のFerrariだったら、5年落ちのAlfaRomeoだったら、車ではなく自宅だったら、車に自分の親が乗っていたら、配偶者だったら、自分の子どもだったら、あるいは見知らぬ外国人の男性だったら・・・。救われるべきものも同様に様々なバリエーションが考えられます。今年は戌年ですし、どっちかが犬やったらどうすんねん、ということも気になります。

 ちなみにBugattiですが、1909年創業のBugattiと、現在3億円也のChironというモデルを生産しているBugattiは、実態としてはまったく別の会社のようです。上記トロッコ問題の主人公であるボブさんが購入したのは、「珍しく高価なクラシックカー」となっているので、恐らくもともとのBugattiが生産していたモデルだと思われます。貯金をはたいて購入し、きちんとレストア、メンテナンスをしていれば将来的に価格は上がるはずなので、老後のための投資になる可能性はありそうです。とか思いながらネットで探してみると、1930年代のモデルの日本での落札価格が11億円!。あびっくりした。モデルと車の状態によっては数百万円くらいからあるようですが、他方で現行モデルの新車価格が安く思える価格がつくこともあるようです。という訳で、ボブさんがどの程度のお金持ちかはほとんどわかりません・・・。

 それはともかく、犠牲になるのがBugattiではなく、15年飼い続けた老犬だったらどうすべきなのでしょうか。私のところの犬も1月で15歳になったので(結構うれしかったりする)。ちなみに、一般社団法人ペットフード協会の調査によると、日本における犬の平均寿命は14.2歳だそうです。15歳では確かに残された時間は長くはないし、犬は人よりも存在として劣るのであれば、やはり子どもを救うべきなのでしょう。

 伝統的なキリスト教的価値観に従えば、犬には魂がないことになっているので、優劣は自ずと明らか、ということかもしれません。しかしながら、日本では多くの人が犬にも魂があると思っているようですし、2代前のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は「動物も魂を持っている」、現教皇フランシスコは「天国は神が造られたすべての生き物に開かれている」と発言していて、どうも色々と議論になっているようですが、もしこれらの発言を肯定すると犬にも魂がある、ということになりそうです。魂の格、のようなものがあるのか否かわかりませんが、善良さの点ではどうも犬の魂の方が人間の魂よりも格上のような気がします。地上にはそのような魂の持ち主が大勢いた方がよいのであれば、犬を救うべきなのかもしれません。

 それもともかく、以下では救われるものの方に焦点を当ててみたいのですが、その子どもを救うべきか否か、という生身の個人の判断には社会的距離(social distance)というものが関わっていそうです。社会的距離とは他者に対する親密さや共感できる程度のことで、相手の社会的距離によって我々の感情のあり方、反応は違います。社会的距離の近い相手の方が自分にとって大事で価値があるということが普通なので、線路で遊んでいる子どもが自分の孫である場合、ボブさんは躊躇なく線路を切り替えるはずです。しかし、何となく知っている近所の子どもの場合、あるいはまったく知らない子どもの場合では、切り替えはしても、決断するまでにかかる時間は長くなるかもしれません。

 実は冒頭の思考実験のポイントは、線路で遊んでいる子どもと貧困に苦しむアフリカの子どもは同じであり、愛車Bugattiを犠牲にして線路で遊んでいる子どものを救うのであれば、余分なお金すべてをアフリカで貧困に苦しむ子どもに寄付すべき、というさらに大きな問いを投げかけることにあるようです。しかしながら、生身の個人の感覚、あるいは感情から考えると、貧困に苦しむアフリカの子ども、というのは確かに危機的な状況にあると言う点で線路で遊んでいる子どもと同じかもしれませんが、自分の目が直接届く範囲にはおらず、無論親戚でもなく、社会的距離は随分と遠い存在です。目に見えて危機的状況にある子どもと、遠い異国の地で危機的状況にある子どもは、生身の個人から見ると同一のものとしては見なせないはずです。


 このように考えて図1を作ってみました。選択者であるボブさんと線路で遊んでいる子どもとの社会的距離を横軸に、ボブさんにとってのその子どもの価値を縦軸におき、両者の関係を表してみたものです。ボブさんにとって、社会的距離が遠くなるほど相手の価値は下がると考えられるので、社会的距離と価値の関係は右下がりの減少関数になると思われます。もちろんこの線はボブさんに固有のものです(図1-1)。人によっては水平の線になったり、右上がりになることもあるかもしれません。さらにそこにBugattiである自分の車の価値を書き込むと、自分の車の価値を示す横線との交点が出てきます(図1-2)。この交点の左側は、子どもの価値が車の価値を上回っているのでボブさんは線路を切り替えて子どもを救い、右側では車の価値が子どもの価値を上回るのでボブさんは線路を切り替えないで車を救うと考えられます。


 このような状態で子どもを救う可能性を広げるにはどうしたら良いでしょうか。1つのアイデアは車の価値を変えることです。もし図2のように、自分の車が何者にも代え難い至上の価値を持つと、孫であっても救わないということになってしまいます。しかし、図3のように車の価値を低く見ることができれば、どんな社会的距離にある子どもでも、つまりすべての子どもを救うことになります。

 ここでは子どもの価値と自分の車の価値とで見ていますが、子どもと対比されるものは何でもよく、それこそ15年間飼っている犬でも良いわけです。車であれば環境に良くないとか、事故の可能性とか色々と理屈をつけて価値を下げることは比較的できそうですが、現に生活をともにしている、しかも魂が格上の(?)犬の価値を下げることは大変難しい気もします。また犠牲になりうるものは無数にありますし、いちいち見ていくのも大変です。


 そこで、もう1つのアイデアは減少関数である右下がりの線の形を変えられるか、ということになります。たとえば図4のように、社会的距離が遠くなると急激に相手の価値が下がってしまう人の場合、ごく近い相手しか救わないことになります。逆に、図5のように社会的距離が遠くなってもゆっくりとしか相手の価値が下がらなければ、救われる子どもの割合は高くなります。このように、線の下がり方を緩やかにする工夫はないものでしょうか。

 工夫、と言いましたが、昨年来「ナッジ(Nudge)」という言葉を耳にした人も多いと思います。ひょっとすると、今後人々がよく知る言葉になるかもしれません。昨年ノーベル経済学賞を受賞したR.セイラーと共同研究者のC.R.サンスティーンが、人々が適切な選択ができるように促す方法として提唱している言葉です。ナッジとは、本来「ひじでそっと突つく」という意味で、規則で禁止したり、強制したりではなく、余りコストをかけずにまさに「促す」ための工夫を言います。

 オランダのスキポール空港は、男性用トイレの床の汚れがひどかったのですが、ナッジを利用して清掃費を8割減らした、という有名な話があります。「飛び散らないように注意しましょう」という張り紙をしたのでも、小便器を総取り替えしたのでもありません。小便器の内側に1匹のリアルなハエのシールを貼っただけです。ぱっと見本物のハエに見えるので、つい狙ってしまうのですね。その結果、飛散が減ったのです。

  子どもの貧困対策で考えると、World Vision(ワールド・ビジョン)という、緊急人道支援や開発援助を行っている規模の大きな国際NGOの「チャイルド・スポンサー」という仕組みが思い浮かびます。これは、支援を必要としている特定の子どものスポンサーとなる形で自分の寄付を使えるというもので、漠然とした支援を必要とする「誰か」ではなく、顔と名前を持った「この子」を支援するというのは、社会的距離が近くなるため、より寄付行為を促せるのではないかと思います。よく考えられた仕組みだと思います。

 で、犬の話なのですが。

 スタンレー・コレンという、犬に関する著作も多数ある心理学者によると、家に犬がいる子どもは社交的で思いやりも深いことがわかっているそうです。犬と仲良くなるには、犬の表情やボディランゲージ、行動を観察し、犬の出している社会的信号を読み取らねばなりません。たとえば、あくびをするのはむしろ緊張や不安のサインである、口が軽く開いているのはリラックスしているとき、前足を伸ばしてお辞儀するような格好で尻尾を振っているのは遊ぼうのサイン、などなどです。人の話を何も聞いていないように見えるときの犬は人の話を何も聞いていない、はそのままですね・・・。

 そのような経験は、人との関係でも生かされ、犬を飼っている子どもは言葉によらないコミュニケーション能力や仲間とのふれあいといった社会的能力が高くなります。犬の生存と幸福が自分にゆだねられていることを知り、ひいては他者への共感能力も培われるということのようです。これもコレンの著作で知ったのですが、イギリスで初めて動物虐待禁止条例を可決させたリチャード・マーティン(1754-1834)というアイルランド人政治家は、宗教的迫害を受けたカトリック教徒やナポレオン戦争で家を失った難民に私財をなげうって自分の土地と新築家屋を無償で提供したそうです。それも千戸以上。アメリカにおける動物愛護協会の創始者ヘンリー・バーグ(1811-88)も、児童福祉活動を本格化させるきっかけを作った人だったようです。また、冒頭のトロッコ問題を紹介し、貧困に苦しむ子どもへより多くの寄付を呼びかけているピーター・シンガーという倫理学者は、貧困の問題もさることながら、動物の権利を強く主張する動物解放論者として知られており、『動物の解放』という有名な著作があります。

 犬を飼うことで他者への共感能力が高まるとすると、それはおそらく身近な人だけではなく、遠くの見知らぬ人へも及ぶようになるということでしょう。つまり、時間はかかるかもしれませんが、犬を飼うことがナッジとして機能し、そのような人が増えれば貧困にあえぐアフリカの子どもが救われる可能性は高まると考えられます。

 無論、他者への共感能力を高める、という効果があれば、飼うのは犬である必要はなく猫や他の動物でも良いはずです。あるいは、そもそも何も飼わなくても、多くの人と楽しくお酒を飲むことで同様の効果が期待できるかもしれません。

 さきほどのペットフード協会によると、日本全国の犬の推計飼育数は892万匹で、ここ数年減少傾向にあるそうなのですが、犬を飼うことを促すという意味では、犬と接する機会を増やすこともナッジになると考えられます。そこで、ペット可の施設を増やすのはどうでしょう。たとえばスウェーデンでは、電車やバスにペット可の車両があり一目でわかるようになっているそうなのですが、一般のオフィスでもペット可のところが数多くあるようです。同時にスウェーデンは、よく知られているようにもっとも有名な高福祉国家でもあります。ただし、スウェーデンは動物保護・管理の面でもきわめて厳しく、犬を6時間以上監視なしで1匹だけにさせてはいけないなど細かい規制も多く、簡単に犬を飼える社会ではないようですが・・・。

 犬を飼う、というのはそれなりにコストがかかるので、もっと手っ取り早い(?)方法としては、貧困問題への寄付を募るポスターをペットショップや動物病院に集中して貼る、というのも効果的かもしれません。

 と、いうことで林先生、みなさんと飲みに行く機会を増やして下さい。犬を飼いませんか。


参考文献

・R.セイラー・C.R.サンスティーン,遠藤真美(訳),2009, 『実践行動経済学』,日経BP社.
・S.コレン,木村博江(訳),2002,『相性のいい犬、悪い犬』文春文庫.
・S.コレン,木村博江(訳),2002,『犬語の話し方』文春文庫.
・S.コレン,木村博江(訳),2011,『犬があなたをこう変える』文春文庫.
・一般社団法人ペットフード協会ホームページ[http://www.petfood.or.jp/index.html]
・国際NGOワールド・ビジョンホームページ[https://www.worldvision.jp/]

0 件のコメント:

コメントを投稿