2017年3月30日木曜日

恋とはどういうものかしら?(宮野真生子先生)

教員記事をお届けします。2016年度第14回目は哲学の宮野真生子先生です。


恋とはどういうものかしら? 

宮野真生子(哲学)

 すこし前、学生さんとお酒を飲みながら、恋人ができたという報告を受けた。ちょっと恥ずかしそうにしている学生さんを相手に、年甲斐もなく、「相手は?」「どうやって知り合ったの?」などと思わず質問攻めにしてしまい(ごめんなさい・・・)、でも学生さんは「いや、じつはけっこう前から好きで・・・」「でも、なかなか言えなくて」と恥ずかしそうに答えてくれた。それを聞いて、私はさらに年甲斐もなく、「わー、恋だねぇ、いいねぇ」と羨ましがってしまったのだった。


 「恋がしたい!」というフレーズはわりと頻繁に耳にする。だが、そういうときに求められている「恋」の体験は一様ではないと思われる。「恋って素敵!」といっても、そこで想定されている「恋」の魅力は色々あるということだ。

 まずは、恋人になるずっと手前、たとえば合コンやあるいはバーや居酒屋で隣に座った人と、何も知らないまま話し始め、「あれ、この人なんかいいかも」と感じる瞬間。言ってみれば、出会いの感覚、何かが始まる予兆へのドキドキである。次はもう少し進んだ段階で、まだ付き合ってはいないけれど、明らかに相手も自分に関心があるし、これはいけるかもと思いながら距離を測りつつ近づいていくプロセス。ちょっと露悪的にいうと「恋のかけひき」を楽しんでいるとき。そして、ようやく恋の成就。つまり、相手と想いが通じ合い、相思相愛になるとき。それは、相手に想いが届いたという喜びと同時に、相手から愛され、「あなたじゃないとダメ」と自分の唯一性が認められたことの満足感だろう(こうした唯一性の感覚を「確固としたもの」として手元に置いておきたいと思うからこそ、人は恋の相手を束縛し、嫉妬に駆られる。そして、そんなふうに束縛し嫉妬する自分を嫌悪し、そういう自分は愛されないかもしれない、と脅えて、自分から愛されることの満足感を削り取っていく)。

 私が「恋っていいな」と思うのは、とくに出会いとかけひきのプロセスに関してである(じつは唯一性の承認は、恋人以外でも手に入るので)。恋を分析するなんて、色気のカケラもない野暮の極みだが、こういうことを言語化したいと思うのが哲学をやる者のいけないところだ。でも、すこし考えてみよう。

 合コンやバーでたまたま知り合った人と話をする。こういうとき、とりあえず簡単に自分について(あるいは自分が考えていることについて)話すことがあるだろう。どういう仕事をしているのか、何が好きなのか、最近どんなことが面白かったか・・・など。それは社交辞令的で、とてもありふれた会話のように思えるけれど、じつは、私たちは自分が何者であるか/自分は何を考えているか、ということをイチから語る場面に出くわすことはそんなにない。もちろん、日々私たちは多くの人に出会い、様々な形で関わっているけれど、友だち同士だと、すでにある程度、お互いの情報が共有されているところから会話は始まるし(とくに最近ではSNSで事前に相手の状況を知っていることが多いので、会話が始まる時点で前提されている内容が多い)、他方、全然知らない人と関わる場面では、たとえば、駅に忘れ物をして駅員さんに問い合わせをしてお話したところで、それは、駅員さんとお客さんという関係のなかで関わっているだけで、その駅員さんがどんな人なのか、何を考えているのか、なんていうことに思いをはせることはない。

  しかし、合コンや、酒の場でたまたま一緒になった人とはそうはいかない。「私は何者なのか」「何を考えているのか」ということから説明する必要がある。とくに、合コンとは違って、酒の場でたまたま会話をかわした人との関係は難しい。いわゆる、酒場の会話の一つの特徴として、その場限りで流れていく良さというのがあり、その意味で、酒場で「私は何者か」について詳しく喋るのは、むしろ野暮の極みである。もちろん、相手にたいし、「あなたは何者か」と根掘り葉掘り尋ねるのも野暮というものだ。しかし一方で、そうすると、知らない者同士が並ぶ酒場のカウンターでは、会話のとっかかりというものがない。(もちろん、だから一人で静かに飲む、というのもそれはそれで心地良い)。相手がどういう考えの人で、どのような背景をもっているのか、そういうことがわからない。そのなかで、何かの拍子に(良いバーテンダーさんというのはそういう拍子をとるのがうまい)、会話が始まる。手探りでそろりそろり。だけど、相手が知らない人だからといって、当たり障りのない話だけしていても、会話は弾まない。だから、様子を見つつ、自分の思っていることをぽつりぽつりと話してみる。それに対する相手の反応を見つつ、あるいは、相手の話す言葉を捉えつつ、酒場で出会ったそのとき限りの二人が「自分」だけを手札に会話することになる。だからこそ、酒場での会話には、本音がぽろりと漏れることがあるし、そんなとき意図せず人は無防備な状態になってしまったりする。そういう無防備な状態で、「すごくわかります」などと理解を示されてしまったりすると、思わず「おっ」となってしまうことがある。
 
たぶん、それは合コンでも同じことで、要は自分をある程度晒さねばならないところで、思わず、自分の弱いところ、プライベートな感覚を晒してしまうことがあって、多くの場合は、そういうふとした瞬間は見逃されてしまうのだけれど、時々、そこにスルリと入って来る人がいる。そうすると、なにせ元が無防備な状態なので、こちらは驚いてしまう。その驚きは、心を動かすことがある。その動いた、という感覚。それは恋というにはまったく及ばない。あるいは単なる動揺のままの場合もある。けれど、その驚きや動揺は、安定した日常に小さな風穴を開けるだろうし、その風穴から吹く風に何かが始まる予兆を感じ取ることができる(ただし、この風に乗るか乗らないかは自分次第だ)。結局のところ、「恋がしたい」という呟きは、日常を覆うベールを壊したい、あるいは、様々な前提に隠された自分を引き出したい、それに触れてもらいたいという、ある種の自己破壊的な願望なのかもしれない。

 そして、恋は進みはじめる。恋のかけひきも自己破壊的な側面をもつものなのだが、その話はまたいずれ。



□宮野先生のブログ記事
ここにいることの不思議
文化学基礎論
死と生をめぐる合同ゼミ
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□宮野先生の授業紹介
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