宮島の「たのもさん」
宮岡真央子(文化人類学)
2016年9月1-2日、2年生のゼミの研修旅行で広島に出かけた。1日目、福岡から一路宮島へ到着したわたしたちは、まずは腹ごしらえと、厳島神社の参道で一軒の食堂に入った。香りのよい牡蠣丼で満たされてから店内を見渡すと、9月1日という日付と「たのもさん」と大きく書かれたポスターに気づいた。「たのもさんというのは、何かのお祭りですか?」若い店員さんに聞くと、「今夜これを海に流すのです」と、店の入口に飾られているカラフルな作り物の船を指差した。期せずしてお祭りの日に出くわしたことに少々興奮し、さらに質問を重ねようとすると、店員さんは奥の女将さんを呼びに行った。出てきた女将さんは、わたしの質問に答えながら以下のようなことを話してくださった。
船の中をのぞき込むと、かわいらしい人形が並んでいた。
宮島歴史民俗資料館の展示解説、そこでいただいた宮島の年中行事紹介のリーフレット、そして帰福後に閲覧した『文化庁月報』の記事などから、以下のようなこともわかった。
「たのもさん」でこしらえる作り物の船は「たのも船」と呼ばれる。旧暦8月1日、厳島神社の末社の1つ四宮(しのみや)神社では、同社氏子である南町の人々によって例祭「四宮大祭(大黒天)」がおこなわれる。その時に五穀豊穣等を祈願した「たのも船」を持ち寄ってお祓いを受け、「たのも船」のローソクに火をともして夜の満潮時に厳島神社から海へと流す。今日では参加者は、南町に限らず島全体に広がっている。
お盆の精霊流しでもないのに海に船を?と最初はよく分からなかったが、やがてなるほどと合点した。その日は旧暦8月1日であり、八朔は正月や盆にならぶ節日と考えられてきた。中国・九州地方では八朔行事として、稲の実る前の豊作祈願の予祝儀礼(農家の主人が酒を携えて田に赴き、「よう出けた、よう出けた」と唱えながら酒を注いでまわる「田誉め」など)、二百十日を控えた風止め祈願などが行われ、これらは「さくだのみ(作頼み)」とも呼ばれる。また、稲作をしない地域では、八朔に子どもの初節句を祝い、それにともなう贈答慣行もあった。現在でも福岡県内に残る行事としてよく知られるのは、遠賀郡芦屋町の八朔の誕生祝いであろう。生後初めて八朔を迎える男の子がいる家では、ワラウマ(藁馬)を、女の子がいる家ではシンコでダゴビイナ(団子雛)を作って飾る。その後、それらワラウマやダゴビイナは親類や近所に配られる。ただし、現在は旧暦8月1日ではなく、新暦9月1日から2日にかけて行われる。また、かつては博多でも、子どもが初節句を迎える家で、親類・縁者からお祝いに贈られたサゲモン(吊し飾り)を吊した笹竹を座敷に飾り、翌日にはこのサゲモンを親戚や近隣に配ってまわった。このように、西日本では八朔雛、八朔人形の贈答習俗が広く見られたのである(八朔行事の詳細は、下記参考文献を参照)。
宮島の「たのもさん」は、豊作祈願の行事である。ただし、シンコの人形を載せた船を海に流し、それを対岸の農家の人々が受け取った、という点は芦屋町や博多などと共通する贈答慣行として理解することもできる。自分たちには作ることのできない農作物を対岸の人々から受け取る。宮島の人々はそのことに感謝し、神の加護を受けた作り物の船と八朔人形を対岸に返礼する。そこには、宮島島民と対岸農民との互酬性(やりとり)が垣間見られる。ただし現在、このような互酬性が対岸で意識されることはなくなったようだが。
もう一つ、宮島の「たのもさん」について知る過程で、暦のことが気になった。上に述べた芦屋町の八朔行事のように、今日わたしたちの身のまわりにあるさまざまな民俗行事は、もともと行われていた旧暦の日付ではなく、「月遅れ」で行われることが多い。もともと旧暦7月15日前後におこなわれていた盆行事を新暦8月15日前後に行うというのは、この典型である(ただし、東日本の都市部を中心に盆行事を新暦7月15日前後に行うところも多い)。
日本の暦は、1873(明治6)年、明治政府によって旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)へと切り替えられた。暦の西洋化である。以来人々は、それまで日常生活で培ってきた季節感と上から定められる暦との間で、自らの生活の暦を調整してきた。月遅れで行われる行事は、その調整の結果といえる。さらに現在では、多くの民俗行事が月遅れの日に近い日曜日(会社や学校の休日)に日を移しつつある。このことは、上に述べた生活上の暦の調整が、今なお進行中であることを示している。
とはいえ、宮島の「たのもさん」は、今も旧暦に従って行われる。なぜだろう。
調べたところ、宮島で「たのもさん」の他に旧暦に従う行事として、旧暦6月17日の厳島神社の「管絃祭」があった。これは、夕方の満潮時に御輿(みこし)を船に載せ、雅楽を演奏しながら諸神社を巡る神事だという。「たのもさん」も「管絃祭」も、大潮の満潮時、という条件を必要とする。こうなれば、やはり月の動きに基づき、潮の干満を即座に知ることのできる旧暦に従うことが肝要なのだ。海の上に建つ厳島神社ならではの事情といえよう。ちなみに、沖縄では今もさまざまな行事が旧暦に従って行われている。海の中にあり、常に潮の干満を意識する島の生活では、今なお旧暦が大きな存在感をもつのだということを、あらためて思い返した。
わたしたちが宮島を訪れたのは、平日だった。それにもかかわらず、宮島では国内外からのたくさんの観光客が闊歩していた。一見すると観光化された島と思われるが、宮島には民俗行事がこのように生活に根ざした形で受け継がれている。このことに驚き、感心した。
その日、わたしたちは「たのも船」が海に浮かぶ光景を眺めることなく、夕方には広島市内の宿へと向かうため、宮島を後にした。残念。「宮島は夜がいいんよ」という島の人の言葉を思い出しつつ、次回の広島行きに思いを馳せている。その時は、事前に旧暦を調べることも忘れないようにしよう。
(参考文献)
佐々木哲哉 2010「八朔のお節句」、アクロス福岡文化誌編纂委員会(編)『福岡の祭り』、96-99頁、海鳴社
長沢利明 2000「八朔」、福田アジオ他(編)『日本民俗大辞典 下巻』372-373頁、吉川弘文館
(参考URL)
宮島観光協会「管絃祭」:http://www.miyajima.or.jp/event/event_kangen.html
蔦谷慶三(南町総代会)「宮島のタノモサン(連載 祭り歳時記 伝承を支える人々)」、『文化庁月報』平成24年9月号(No.528):http://prmagazine.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_09/series_08/series_08.html
□宮岡先生のブログ記事
・台湾と沖縄
「たのもさん」とは、旧暦八月朔日(ついたち)、八朔(はっさく)の行事である。宮島では、農作物の豊作と家内安全を祈り、各家で小さな船を用意して、夜にこれに火をともして厳島神社から海に流す。宮島は神の島で、島全体がご神体と考えられてきたため、明治以前には田畑を作ることが禁じられていた。だから豊作祈願は、自分たちでは作ることのできない農作物への感謝の気持ちを込めて行う。以前は対岸の大野町の農家の人たちが、流れてきた船を海から拾い上げ、自分たちの田へ持ち帰って供え物としていた。今は対岸で船を拾う人もいないので、牡蠣船が後日これを片付けている。船にはシンコ(米粉)で作った人形を載せる。その家の人数分の人形に、やはりシンコで作った犬と太鼓を添える。この家ではネコを飼っているので、犬の代わりにネコの人形を添えた。
船の中をのぞき込むと、かわいらしい人形が並んでいた。
宮島歴史民俗資料館の展示解説、そこでいただいた宮島の年中行事紹介のリーフレット、そして帰福後に閲覧した『文化庁月報』の記事などから、以下のようなこともわかった。
「たのもさん」でこしらえる作り物の船は「たのも船」と呼ばれる。旧暦8月1日、厳島神社の末社の1つ四宮(しのみや)神社では、同社氏子である南町の人々によって例祭「四宮大祭(大黒天)」がおこなわれる。その時に五穀豊穣等を祈願した「たのも船」を持ち寄ってお祓いを受け、「たのも船」のローソクに火をともして夜の満潮時に厳島神社から海へと流す。今日では参加者は、南町に限らず島全体に広がっている。
お盆の精霊流しでもないのに海に船を?と最初はよく分からなかったが、やがてなるほどと合点した。その日は旧暦8月1日であり、八朔は正月や盆にならぶ節日と考えられてきた。中国・九州地方では八朔行事として、稲の実る前の豊作祈願の予祝儀礼(農家の主人が酒を携えて田に赴き、「よう出けた、よう出けた」と唱えながら酒を注いでまわる「田誉め」など)、二百十日を控えた風止め祈願などが行われ、これらは「さくだのみ(作頼み)」とも呼ばれる。また、稲作をしない地域では、八朔に子どもの初節句を祝い、それにともなう贈答慣行もあった。現在でも福岡県内に残る行事としてよく知られるのは、遠賀郡芦屋町の八朔の誕生祝いであろう。生後初めて八朔を迎える男の子がいる家では、ワラウマ(藁馬)を、女の子がいる家ではシンコでダゴビイナ(団子雛)を作って飾る。その後、それらワラウマやダゴビイナは親類や近所に配られる。ただし、現在は旧暦8月1日ではなく、新暦9月1日から2日にかけて行われる。また、かつては博多でも、子どもが初節句を迎える家で、親類・縁者からお祝いに贈られたサゲモン(吊し飾り)を吊した笹竹を座敷に飾り、翌日にはこのサゲモンを親戚や近隣に配ってまわった。このように、西日本では八朔雛、八朔人形の贈答習俗が広く見られたのである(八朔行事の詳細は、下記参考文献を参照)。
宮島の「たのもさん」は、豊作祈願の行事である。ただし、シンコの人形を載せた船を海に流し、それを対岸の農家の人々が受け取った、という点は芦屋町や博多などと共通する贈答慣行として理解することもできる。自分たちには作ることのできない農作物を対岸の人々から受け取る。宮島の人々はそのことに感謝し、神の加護を受けた作り物の船と八朔人形を対岸に返礼する。そこには、宮島島民と対岸農民との互酬性(やりとり)が垣間見られる。ただし現在、このような互酬性が対岸で意識されることはなくなったようだが。
もう一つ、宮島の「たのもさん」について知る過程で、暦のことが気になった。上に述べた芦屋町の八朔行事のように、今日わたしたちの身のまわりにあるさまざまな民俗行事は、もともと行われていた旧暦の日付ではなく、「月遅れ」で行われることが多い。もともと旧暦7月15日前後におこなわれていた盆行事を新暦8月15日前後に行うというのは、この典型である(ただし、東日本の都市部を中心に盆行事を新暦7月15日前後に行うところも多い)。
日本の暦は、1873(明治6)年、明治政府によって旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)へと切り替えられた。暦の西洋化である。以来人々は、それまで日常生活で培ってきた季節感と上から定められる暦との間で、自らの生活の暦を調整してきた。月遅れで行われる行事は、その調整の結果といえる。さらに現在では、多くの民俗行事が月遅れの日に近い日曜日(会社や学校の休日)に日を移しつつある。このことは、上に述べた生活上の暦の調整が、今なお進行中であることを示している。
とはいえ、宮島の「たのもさん」は、今も旧暦に従って行われる。なぜだろう。
調べたところ、宮島で「たのもさん」の他に旧暦に従う行事として、旧暦6月17日の厳島神社の「管絃祭」があった。これは、夕方の満潮時に御輿(みこし)を船に載せ、雅楽を演奏しながら諸神社を巡る神事だという。「たのもさん」も「管絃祭」も、大潮の満潮時、という条件を必要とする。こうなれば、やはり月の動きに基づき、潮の干満を即座に知ることのできる旧暦に従うことが肝要なのだ。海の上に建つ厳島神社ならではの事情といえよう。ちなみに、沖縄では今もさまざまな行事が旧暦に従って行われている。海の中にあり、常に潮の干満を意識する島の生活では、今なお旧暦が大きな存在感をもつのだということを、あらためて思い返した。
わたしたちが宮島を訪れたのは、平日だった。それにもかかわらず、宮島では国内外からのたくさんの観光客が闊歩していた。一見すると観光化された島と思われるが、宮島には民俗行事がこのように生活に根ざした形で受け継がれている。このことに驚き、感心した。
その日、わたしたちは「たのも船」が海に浮かぶ光景を眺めることなく、夕方には広島市内の宿へと向かうため、宮島を後にした。残念。「宮島は夜がいいんよ」という島の人の言葉を思い出しつつ、次回の広島行きに思いを馳せている。その時は、事前に旧暦を調べることも忘れないようにしよう。
(参考文献)
佐々木哲哉 2010「八朔のお節句」、アクロス福岡文化誌編纂委員会(編)『福岡の祭り』、96-99頁、海鳴社
長沢利明 2000「八朔」、福田アジオ他(編)『日本民俗大辞典 下巻』372-373頁、吉川弘文館
(参考URL)
宮島観光協会「管絃祭」:http://www.miyajima.or.jp/event/event_kangen.html
蔦谷慶三(南町総代会)「宮島のタノモサン(連載 祭り歳時記 伝承を支える人々)」、『文化庁月報』平成24年9月号(No.528):http://prmagazine.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_09/series_08/series_08.html
□宮岡先生のブログ記事
・台湾と沖縄
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