2016年2月25日木曜日

日本は監視社会か?(平兮元章先生)

「教員記事」をお届けします。2015度第18回は社会学の平兮元章先生です。



日本は監視社会か?

                                                    平兮元章(社会学

 皆さんは日頃何某か「監視」されていることを意識したことがあるだろうか? 私の専門である社会学の領域では、公的機関や所属している組織、地域社会等々からの「監視」を一つのテーマとして取り上げるようになってから久しい。この「監視」についてD.ライアンの著書『監視社会』をヒントに日本社会について考えてみよう。彼の主張は日本社会にもかなり当てはまるであろうと思われるので、それらの内容を見ていきたい。

 彼の監視社会の考え方はこれまでのものとは異なっている。政府が市民を監視する(オーウェル)、警察の監視強化(マークス)、目に見えぬ権力による監視(フーコー)等の主張のように、外部から誰かが強制するものではなく、日常の社会関係の内にあるものだという。

 携帯電話、スマートホン、電子メール等による連絡・取引などのように、対面接触なしの相互作用(身体の喪失)が進む社会を「情報社会」とよんでいる。しかし、技術をとおした諸個人の姿は、一定量のデータでしかないために不確実性の高い社会であるという。

 そこで交渉の信頼性をあげるためには、諸個人の属性・資格の判定や成果の確認、つまり「監視」が必要となる。これを担うものとして再登場するのが技術である。コンピュータなどの技術は、社会関係を結ぶ媒体の機能を果たすだけでなく、その際に残る個人情報を保存・蓄積している。例えば、IDと通信記録、あるいは高速道路の開閉と走行経路などである。それをネットワークで繋ぎ照合すれば、情報の源である個人を簡単に特定することができる。そのために「情報社会」では、意識や身体を有する現実の個人よりも個人を分割したデータに社会的な関心が集まるようになる。そこで、現代の「監視」はデータに関する監視であるということになる。ライアンが「情報社会は監視社会である」というとき、あらゆる場所に設置された防犯(監視)カメラによる監視だけを指すものではない。監視行為を「個人データの収集・保存・処理・流通」という広い意味で捉えなおそうとしている。現実には、「監視体制による束縛」や「管理されていること」を感じている人はほとんどいないために、監視システムに順応していることになるという。この事態を「社会という一種のオーケストラ」への参加と比喩した。社会関係を結ぶという諸個人の演奏こそが、監視の「オーケストレーション」を完成させるという意味なのである。

 人間のプライバシーはたしかに心配であるが、それよりも「監視」によって社会そのものが再編成されようとしていることの方が大きな問題だとしている。監視は社会の秩序編成そのものに寄与する。監視の「もう一つの顔」は、それが担う社会的・経済的分割を強化する働き、選択を誘導し、欲望に方向を与え、いざとなれば束縛・管理するという働きに由来する。この監視能力は人間集団を分類・選別し、カテゴリー化・類型化するために、一部の人びとのライフチャンスを増進し、別の人びとのそれを抑制するために用いられる。

 彼は「情報社会」と監視の関係に着目する既存の議論をいくつか検討している。その一例が「データベース」に関する議論である。「データベース」とは、各所でデータの蓄積が進むと、それを繋ぐネットワークこそが多様なデータの貯蔵庫になることを表す概念であるという。「データベース」は監視に寄与するが、それ以上に過去のデータを参照することで、対象となる個人の主体像を予測するという特徴がある。具体例をあげれば、企業が「データベース」を参照して、ある個人の購買行動からその全般的な消費能力・性向を読み取り、購入に適した商品の広告を出すという例があげられる。「データベース」は対象となる個人の意識や行動よりも先に、理想的な主体像を構成してその枠組みの方へと個人を誘導していく(現実に経験した人も多いであろう)。さらにそれが進めば、個人は「シミュレーション」の対象となる。十分な量のデータがあれば、現在だけでなく、未来の主体像を先取りして構成することができる。極端な例のようだが、現実味を帯びつつある事態としては、遺伝子情報から将来の性格や能力、交友範囲、寿命などをシミュレートして、影響を与えそうな要因を予防的に制御するといったものである。このように未来を事前に見通すことも「監視」なのである。

 そのために対象となる個人にとって「シミュレーション」は、自己の生とその環境のすべてを管理する「見えないフレームワーク」となるという。だが、ライアンは現実から遊離しない議論にこそ社会的な価値があると考え、上述のような議論を認めながらも、そこから一定の距離をとる。

 そのほか、彼は「監視」と関わっているさまざまな事象があるとして、新自由主義、都市の管理、グローバル化などの動向もとりあげている。また、シムシティー、ディズニーランド、ゲーティッド・コミュニティなどもとりあげて論じている(紙幅の関係上、割愛)。

 ライアンの指摘する「監視」は、リスクを管理・統制するという合理性ゆえに、誰も反対しない。だからこそこの「監視」は着々と進行し、いつの間にか社会を作り替えてしまうというのである。

 現代の監視社会は「身体の消失」を伴ったが、彼はこれに対して「個人の再身体化」の倫理を主張している。しかし、具体的な方策は提示されていない。

 現代社会を一つのオーケストラに例えており、皆心地よくそれに参加し、順応している。しかし、背後にとんでもない方向に社会が向いていってしまう事への懸念、「赤信号皆で渡れば怖くない」といった意識への警鐘を鳴らしているように思える。

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