2022年1月30日日曜日

リアルってなんだ!?

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学の平井靖史先生です。


 最近のガンプラはすごく良くできていて、買ってきてパチパチ組み立てるだけで、スタイル抜群&ぐりぐり可動するかっこいい模型があっという間にできます。大まかにプラの色分けもされてて、塗装の必要もない。すごいなあ。そこでちょっとひと手間かけて、「墨入れ」をしてあげると、さらにリアルに仕上がります。ガンダムの表面で筋彫りされているところに、筆ペンみたいなやつで線をなぞってあげると、本物感が増すんです。筆ペンで済むので片付けもいらないし、お手軽なのでおすすめです…。
 というわけで、今回はガンプラの話を——。というわけではなくてですね、リアルってどういうこと?というお話です。今、ガンプラのリアルって話をしたんですが、ガンダムってそもそも実在しないですよね。いや、今は実在するので(実物大で動くガンダム立像が日本各地に存在します)話がさらにややこしくなるんですが、とりあえずは元がフィクションだという意味です。例えば元が実在する…そうですね、ルンバにしましょう。お掃除ロボットルンバ。さて、ルンバのプラモデルがあるとしましょう。5分の1スケールとか?その場合、ルンバのプラモをリアルに作るというのは、おうちで働いているあの実在のルンバに似せていくという意味合いですよね。ところが、ガンダムは、それがないわけです。地球連邦軍が作った、アムロが乗ってる「あの実在のガンダム」はないわけです。オリジナルが存在しないモデルについて、それがリアルだとかそうじゃないって、いったいどういう意味なんでしょうか。 

 さらにいうと、先ほど触れた実物大のガンダム立像——最近、福岡にも新しく立ちました、ν(ニュー)ガンダム——のほうも、当然ですがガンプラの比じゃなくめちゃくちゃ「リアル」なんですよ。筋彫りのところは筆ペンで「ぽく」してあるわけじゃなくて、実際にパネル分かれてますし、なによりサイズが実物と同じで——。あれ「実物」が出てきたぞ。実在しない実物?だんだん混乱してきます。 
 さらにおまけに、最近ガンプラの「アニメ塗り」という手法が出てきたんですが、ご存知でしょうか。脳みそがバグるので、見たことない人はぜひ検索してみてください!「ガンプラ イラスト風 二次元」で画像検索すればどんどん出てくると思います。立体物であるプラモデルの表面を、アニメ風に塗装するんです。そうすると、三次元なのに二次元にしか見えない。完成品をビデオで撮っているのに、動画の中に切り絵が立ってる雑なコラにしか見えない。目が受け取っているものに、脳が追いつけてない状態を味わえます。で、これがまたある意味ですごく「リアル」なわけですね。アニメに対してリアル、と言いますか。この場合、アニメは実在するわけです。アムロがガンダムを操縦するというのは事実ではないけど、アムロがガンダムを操縦するというアニメが20世紀の日本で放映されたというのは事実なわけです。それを再現する度合いが、高い。 
 というわけで、ここでちょっとまとめると、再現すべきオリジナルが実在していて、それにどれくらい寄せてあるか、どれくらい近いかという意味でのリアルさというのがひとつある。オリジナルの特徴を、モデルがどれだけ写しとっているか、という意味で、写実のリアルと呼んでおきましょう。だけど、もうひとつ、そういう別のオリジナルが存在しないときにも、リアルと呼べるものがありそうです。その場合、何をもってリアルとかリアルでないと言うのでしょう。

 「リアル」を辞書で引くと、「実物そのままであるさま」「写実的」という意味と一緒に、「現実のこと」とか「現実であるさま」という意味が出てきます[1]。「写実的」のほうは、実物を模している以上、実物ではないことが前提になっています。それに対して、「現実の」のほうは、フィクションであっては困ります。混乱する要因はこの辺りにありそうですね。
 もとは英語なので、「real」も引いてみましょう。すると、「ただ想像されたり想定されたりしているのではなくて、物や事実として現実に存在している」(actually existing as a thing or occurring in fact; not imagined or supposed)というのが筆頭に出てきます[2]。これは日本語では先ほどの「現実の」に近く、「実在の人物」と言ったりする場合の「実在の」もこれに合いそうです。さらにもう一つ、英語のほうには「(物について)模造品や人工物ではない、真正の」((of a thing) not imitation or artificial; genuine)という意味も出てきます。身近な日本語だと「本物の」が近い感じでしょうか。そうすると、最初の写実のリアルに加えて、想像ではなく実在のリアル偽物ではなく本物のリアルというものが出てきたことになります。


 ここで、私たちの「認識」というものに目を写してみましょう。目では光が見え、耳では音が聞こえます。香り、味、手触りを合わせて、これらの五感を通じて世界を認識しています。こうした私たちの認識は、リアルだと言えるでしょうか?言えるとしたら、どの意味で?
 まず、「写実のリアル」はおぼつかなさそうです。心理学の授業などで、様々な錯視を見たことがあるでしょう。ほんとうは違う大きさなのに同じに見えたり、同じ色なのに違って見えたり。世界という実物を、そのまま写しとっているとは到底言えない。
 では、「想像ではなく実在のリアル」や、「模像ではなく本物のリアル」はどうでしょう。錯視や幻覚などの事例をきっかけに、私たちの認識の仕組みについて興味を持った人は、勉強していくと次のようなことを知ることになります。つまり、私たちが、直接見ていると思っている世界は、ほんとうはかなりの程度、自分たち自身で作り出しているものにすぎない、と。概念や理論や常識、文化的背景などによって、ひとの体験は大きく左右されることがわかっているからです。空にかかる同じ虹を見て、五色のアーチを見る人と、七色のアーチを見る人がいるのは、ほんとうです。でもそこから、私たちの認識は、実在でも本物でもない、ということにもなってしまうのでしょうか。

 微妙だけど哲学的にはどうしてもこだわりたい点がここにあります。認識が写実には程遠く、そこには個々人の知識や概念が大きくフィルターとして影響することがほんとうだとしても、それでもなお「すべての認識は実在ではなく想像だ、本物ではなく偽物だ、その意味でリアルじゃない」とは言うべきじゃない、という点です。注意してほしいのは、「すべての認識は」の部分です。もちろん、私たちは時に実在しないものを想像できます。例えば、ららぽーとに出向く前に、高さ20メートルのνガンダムを想像してみることはできます。でもそれと、実際に目の前に聳え立つ20メートルのνガンダムを見ることは、やはり違います。それは、ちゃんと実在を捉えているのです。また、私たちは時に偽物を本物と見間違えることもあります。例えば、録音されたメッセージであることに気づかず話しかけたり、ホログラム映像に気づかず手で触ろうとしたり。でも、あらゆる認識が偽物だということはありません。想像と実在の区別も、偽物と本物の区別も、「私たちに与えられる」全体の中でなされる線引きのはずです。だから、その「すべて」が実在でないとか本物でないというひとは、実在や本物の基準を不当に上げすぎて、いつの間にか「ないものねだり」に陥ってしまっていないでしょうか。そして、今日の話のポイントはここなのですが、そうなってしまうのは、認識というもの全般を、初めから実在の外に締め出しているからではないでしょうか。


 哲学の古典的な論文の一つに、マクタガートという人の「The Unreality of Time」という論文があります。「時間の非実在性」と訳されています[3]。そこで述べられているのは、世界の時間を私たちの時間が正確に写しとれていないといった「写実的でなさ」ではありません。時間の流れというもの自体が、論理的に矛盾を抱えていて、そもそも世界に実在しようがないという話をしているのです。時間の流れというものは、私たちの想像の産物に過ぎない。その意味で、実在ではない、と。
 残念ながらマクタガートの詳しい議論に入り込むことはできないのですが、ここでは時間の流れのリアリティを例に、まったく別の考え方もできるということを指摘してみたいのです。マクタガートの言うとおり、世界の側に実物の流れがあって、それを私たちの認識が写しとっているわけではない。それは共有するとします[4]。そうすると、時間の流れは認識の側にしかないことになるわけですが、そこに実は分かれ道があるのです。もしそこで、【認識を初めから実在の外に締め出す】という前提があると、そこから「それは想像であって実在ではない、本物ではなく偽物だ」と進むことになります。マクタガートの道です。でも、その前提を取らないなら、「時間の流れの認識は、それ自体で本物で、実在だ」と言える道が開けます。
 もうひとつ例を挙げておきましょう。色クオリアの例です。私たちが赤色だと思っているものの正体は、目に入ってくる波長630nm前後の電磁波です。そして、電磁波そのものに「赤色」はついていません。だから、世界側にほんとうの色があって、それを私たちが写しとっているわけではないのです(だから、さきほど「写実的」のところで述べた話は、そもそも比べるものを間違っていますね!)。そうすると、色というものは認識の側にしかないことになるわけですが、そこから「色は実在ではない」と進むのか、そうじゃないのか。それがこの【認識の実在からの締め出し】前提にかかっているわけです。



 では、【認識を初めから実在の外に締め出す】とはどういうことでしょうか。それは、認識ということで、認識の中身だけを切り離せるかのように考えることです。「認識の中身だけを」というのは、「認識の働きから切り離して認識の中身だけを」という意味です。最初の方で触れたアニメの話を思い出してください。アニメは実在でしょうか。アニメの中身だけを切り離して考えるなら、それは実在ではないと言いたくなります。フィクションです。アムロも、アムロが操縦しているガンダムも想像の産物です。でも、ガンダムというアニメは、この現実世界で放映されたのです。それは想像ではありません。つまり、この世界という実物の、実在の、紛れもない一部なのです。
 認識を実在にカウントしないという前提は、思っているより根深いようです。まるで、カメラという機器なしに写真が撮れるかのように、認識という現象なしで認識の内容がなりたつかのように、認識というものを何か幽霊のように考えてしまうのです。そしてその前提があると、さきほど述べたように「時間の流れは実在しない」とか「色は実在しない」とか言うことになってしまうのです。なぜかというと、認識としては流れはあるし、色はあるんだけど、「認識は存在の名に値しない」ため、ノーカウントということにされてしまうからです。
 でも、認識は、この現実世界で起きています。それは想像ではありません[5]。時間の流れを経験するのも、夕日の赤をしみじみ眺めるのも、そうした働き自体は実物の世界のただ中で起きています。そして、そうした経験の中身は、それを味わっている働きから切り離せないのではないでしょうか。味わわれていない味なんてないし、悲しまれていない悲しみなんてないように。だとすれば、時の流れも色も音も香りも肌触りも、この世界という実物の、実在(リアル)の、れっきとした一員と言ってあげていいのではないでしょうか。



[1]『スーパー大辞林』三省堂、macOS 辞書2.3.0 (268)。
[2] Oxford English Dictionary, macOS 辞書2.3.0 (268)。
[3] J・E・マクタガート『時間の非実在性』(永井均訳)講談社学術文庫、2017年。
[4] マクタガートとはまた別な根拠から、世界の時間が流れていないとみなす立場もあります。
[5] いや、想像も認識の一種なので、この現実世界で起きているという意味で実在なのですが(もちろん、このままでは想像でない認識との区別がつぶれてしまうので、それを別途用意する必要があります)。
※写真はすべて平井によるもの。 

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