2021年1月15日金曜日

「もっとよかった」なんてことがあるのか?

  「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学・倫理学の平井靖史先生です。


昨年は2020年で、人類史に残る劇的な年でしたね。
個人的にも、いろいろなことがありました。
人生楽しいことばかりとは限りません。気が滅入るようなこと、心が破れるようなことも起こります。そんな時、

ああすればよかった。
あの時こう言っていれば違ったのか。

そのような考えが頭を離れないこともありますよね。

もし時を戻せるなら、今の自分ならこうするのに——。

時間の哲学をやっているので授業で時折タイムトラベルを扱います。タイムトラベルにかんするフィクション作品を見ると、おおくのケースで過去を改変する話になっています。

でも、同じ過去を生き直すということをテーマにしたものもあります。
現実を、より深く愛せるために。
今日は少しそれに関係した話です。


「あの時こうしていれば」と考えているとき、私たちは何をやっているのでしょう。
人生の別の可能性を巡っては、哲学的にいろんな問いが立てられます。

例えば、僕は美大から哲学の道に進んだのですが、そうせずに、そのまま画業を続けていたら——?という例で考えてみます。

第一の問い。途中まで同じ人生でありながら、哲学に行かずに絵の道を歩み続けるなんてことが、そもそも可能だったのでしょうか?同じ本を読み、同じ人たちと交遊し、同じ場所で同じ成長を遂げていながら、哲学を志すに至らずに、そのまま絵を続けるということがありえたのでしょうか?もしありえなかったのなら、後悔の余地はないことになりますね。だって可能性は一つしかないのですから。

そこで、他の可能性がありえた、として考えを進めてみましょう。つまりこの僕が、哲学に進まず絵を描き続けることも可能だったとします。
すると、第二の問いとして、そのもうひとりの僕は、「生きて感じている」実在の人間だろうかという問いが生じます。いかがでしょう。一定数の人々は、単に可想上の存在でしかないと考えるのではないでしょうか。だとするなら、その僕は、いわば「絵に描いた餅」でしかない。でも、考えてみてください。そもそも食べられない絵の餅が現実の餅より美味しい(より善い)なんてことがあるでしょうか。ないなら、後悔する意味がないことになります。だってそれは、現実のお餅をすでに手にしている人が、それを餅の絵と交換してくれと言っているようなものですから。

そこで、絵の道を進んだ僕も、この僕と同等に、そちらの世界で実際に生きていて、幸せにやっているとします。
すると、第三の問いとして、そのようにうまくやっている僕は、この僕であるのか、という問題が立ちます。ひとの同一性(personal identity)の問題ですね。今ほっぺをつねっても痛いのはこっちの僕だけで、あっちは何も感じないのだから、どれだけ似ていても「一人の同じ人間」とはいかないのではないでしょうか。さて、もし同一人物というなら、僕は何も後悔する必要がなくなってしまいます。だって、彼の幸せはそのまま僕自身の幸せなのですから。でも逆に同一人物でないなら、つまりよく似てるだけの他人なら、この僕の可能性は結局一つしかなかったということになりませんか?するとやはり後悔の余地はなくなる…。


このように、過去可能性の問題はいくつかの階層をなしていて、それぞれにさらに奥深い問題が控えているのですが、今日は深入りしません。これらの問題の手前で考えたいことが一つあるからです。それは、なぜ、この世界じゃダメなのか。別様であって欲しかったと、なぜひとは考えたくなるのか。その出発点の問題です。

世界は圧倒的に豊かです。大小さまざまな出来事の流れは、私たち一人ひとりの考えが及ばないほど複雑に編み込まれ、この現実という一枚の壮大な絵模様を織り成しています。人間も所詮は獣が単に進化したものでしかなく、その認識には自ずから制限とバイアスがあります。

その狭い了見で「ここだけ部分修正してお願い、でもあとは同じままでね!」という都合の良いリクエストを出したとしても、そんなこと無理筋かもしれない。私たちが認識していない水面下でさまざなスケールの因果が走り巡っていて、ある箇所を変えれば思わぬ影響が他に出るかもしれない。今の自分を形作ってくれた大切な経験たちも、自分が忌々しく思っている当の出来事と実は密接に結びついているかもしれない。愛せる何かは手付かずに残したまま、特定の過去だけを都合よく別のものに差し替えるなんていう編集ができるのか?

色々疑念は出てきますが、結局、これらの問いは、一点に収束していきそうです。つまり、「修正を望む」ということは、この現実世界に満点をつけてあげられていない、ということです。

2001年のニューヨーク同時多発テロで夫を失われた杉山晴美さんという方がいます。
旅客機が世界貿易センタービルに突っ込むというまるでフィクション映画のような事件に自分のパートナーが巻き込まれ、見つからぬ遺体を探し続ける日々は、どれほど耐えがたいものだっただろうと想像します。「目覚めて夢であってくれたら」「あの時引き止めていれば」と幾度も考えたのではないでしょうか。

それなのに、のちに出版された手記の中で、杉山さんはこう書いています。これを読んだときの衝撃をよく覚えています。

「もう一度、あのつらい出来事が待っているとわかっていても、あなたとの結婚を選ぶでしょうか?地獄の苦しみ。その都度、乗り切ってあげるわ。」

これが運命的な恋愛を語るロマンチックな発言に見えた人は、もう一度読み直してください。違います。来世でもう一度会えたら、という「改善バージョン」の話ではないからです。
彼女は「あのつらい出来事が」と指定しています。911テロのことです。つまり、この現実を、何度でも繰り返す、と述べているのです。次のターンで、そっちはもっとマシなストーリーになっていて、こっちは残念だったけど、あっちではもっとうまくやりましょう、という話ではないのです。

「この現実」の反復。よく見るととても異様な仮定です。
ニーチェに詳しい人なら、ああ、この人は永遠回帰に自力でたどり着いたんだと思うかもしれません。

どうして、こんなにひどいことが起きた現実を反復しようなんて考えるのでしょうか。
そもそも、どうせ想像なのだから、想像の中は自由なのだから、現実がこれほど辛いなら、せめて想像の中でも「もっと善い」ストーリーを思い描いてもバチが当たらないのではないか?と傍目には考えがちです。

でもそうしなかった。
そのことの意味を、みなさんも考えてみてください。



参考文献

映画「アバウトタイム〜愛おしい時間について〜」2013年。
ベルクソン『道徳と宗教の二源泉I・II』(森口美都男訳)、中公クラシックス、2003年。
Yasushi Hirai, “Événement et personnalité”, Annales Bergsoniennes VI : Bergson, Le Japon, La Catastrophe, PUF, 2013, 133-148.
クリプキ『名指しと必然性』(八木沢敬・野家啓一訳)、産業図書、1985年。
ライプニッツ『弁神論』(佐々木能章訳、『ライプニッツ著作集』第6・7巻)、工作舎、1990年。
ルイス『世界の複数性について』出口康夫・佐金武・小山⻁・海田大輔・山口尚訳)、名古屋大学出版会、2016年。
杉山晴美『天に昇った命、地に舞い降りた命』、マガジンハウス、2002年。

※写真はすべて平井によるもの。



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