2020年12月20日日曜日

コロナ禍と忘年会

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学・倫理学の林誓雄先生です。


 忘年会のシーズンである(書き出しが、毎年同じような気が…)。しかし、ご存知の通り、コロナ禍のため、我々国民は旅行自粛や会食自粛の日々を送っている。その一方、国民の模範となるべき(?)某首相は、少なからぬ人数での会食を行う日々を過ごしているようだ。もちろん、国民として、自身の自由を犠牲にして他者に迷惑や危害を及ぼすのを避け、他者の、そして自身および自身の大切な人たちの命を守る行動を取ることは、至極当然のことであり、それこそ倫理的にも妥当なことだと思われることだろう。倫理学者児玉聡は、コロナ禍における社会による個人の(行動の)自由の制限について、それが次のように正当化されると主張している。

あなたが確実に別の人に感染症をうつすというわけではないが、あなたを含め、あなたと似たような状況にある人口集団が自由に行動したならば、一定数の人が感染症にかかって重症ないし死ぬリスクがあるから、あなたには協力をしてほしい。自発的に協力できないならば、人々の健康や生命を守るためにあなたの協力を強制的に求めることも正当化されうる。(児玉[2020])

このように、人々の健康や生命を守るために、「生存」という価値を理由・根拠として、哲学的・倫理学的な見地から、個々人の「飲み会に行く自由」の制限が正当化され、そしてひたすら「忘年会を開催する自由」という価値が、「生存」の価値によって制限される状況が続いている。

 他方で、人々の行動・移動の自由を制限することに対しては、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが論考を発表し、それが一時、話題(「炎上した」とも言う)となった(これについては國分功一郎の紹介(國分[2020a, 2020b])により知ることとなった)。國分によると、アガンベンは「政府がコロナ禍を利用して緊急事態を恒常化しようとしている」と指摘し、そして「社会がただ単に「生存」だけを至上の価値とした時、社会は何か大切なものを失ってしまうのではないか」と問うているという(國分[2020a])。とりわけ、「生存」という価値の名の下に、人々が(哲学者も含めて)「移動の自由」への制限を易々と受け入れていることに対して、アガンベンは警鐘を鳴らしている。その自由は、「近代が権利として確立してきた様々な自由──思想の自由等々──の根源にある自由」なのであり、そう軽々しく制限されてはならないものであるのだ、と(國分[2020b])。

 批評家の東浩紀も、同じくアガンベンを引きながら、「人間にとって「密」はいかに大切か」を論じている。今回のコロナ禍では、食事の際には無駄話をせずに短時間で済ませよと指示され、大人数での飲み会の自粛・授業のオンライン化・年末年始の帰省や忘年会の自粛などが要請され、実施されてきた。こうした現状に対し、東は「ものごとの「本体」とそうでない部分とを、簡単に分けすぎているのではないか」と警鐘を鳴らす(東[2020]p. 46)。

いま「オンライン化」に舵を切って、あらゆることについて何が「本体」なのかを見極めて効率化を図ろうとしています。だから「余剰」の部分をカットするという話になります。ですが、その余剰が果たしていた役割こそが重要なのです。
 教育にしてもビジネスにしても、「本体」が何なのかは、実は我々はよく分かっていません。無駄だと思われていた雑談やつきあいが実は大事だった、ということはよくあります。それなのに本体だけをスマートにこなそうとするとかえって全体が崩れてしまう。効率を求めるあまり、単純なものの見方がまかり通っているという気がします。(東[2020]p. 46)

 その上で東は、余剰と思われているもの=「ノイズ」の重要性を指摘しつつ、「ノイズ」を排除してゆく社会では、思考やもののあり方の画一化が進み、文化の多様性が、そして文化そのものが破壊されると主張する(東[2020]pp. 48-49)。

 東の主張には、ハッとさせられるものがあった。例えば、研究会や学会も今年はオンラインで実施されることが多かった。昨年までは、100人以上の研究者が一堂に会し、それぞれのテーマについて発表と質疑応答が行われ、その後、懇親会・二次会・三次会へと雪崩れ込んでいくのが、研究会・学会というものであった。しかし今年は、最初の「発表と質疑応答」をオンラインで行うのみであった。大人数の立食形式での懇親会はもちろん、日本各地の研究者と実際に会うことも制限されたのである。もちろん、それらはすべて「生存」のためであり、「本体」は「研究発表と質疑応答」なのであるから、「余剰=ノイズ」である懇親会・二次会・三次会・締めのラーメンは不必要である。しかも、懇親会がなければ文化の多様性が破壊される、というわけでもないのだから、それらは切り落とされても仕方がないと思われるかもしれない。

 しかしながら、やはり懇親会・二次会・三次会・締めのラーメンは、必要であり重要なのだと思われる。懇親会では、恩師の先生や先輩から、自分の存じ上げない研究者を紹介してもらうなど、研究発表と質疑応答の場ではなかなか実現しない「予期せぬ出会い」がある(オンライン学会ではこの出会いは決して実現しない)。二次会では、恩師の先生や偉大な先輩方に呼び出されて目の前に座らされ、まずは呑めと言われたのち、自分の発表の内容や質疑応答のやり方について説教をくらい、反省をする機会がある(しかしそれはとても勉強になることでもある)。三次会では、同期や後輩から「林くんはよくやったよ」と労われ、少しだけ自信を取り戻す機会がある(明日からもしっかり研究を進めよう・頑張って生きていこうという気持ちになる)。

 だが、研究会や学会がオンラインとなり、懇親会・二次会・三次会・締めのラーメンが不要なものとして切り落とされると、上記の機会はすべて失われてしまうのだ。そしてそうした機会の喪失により、研究の広がりも深さもなくなってしまうことに間違いはないように思われる。懇親会に限らず、雑音はときに、重要な発想の源になることもあるだろう。懇親会や同僚との宴会、学生とのゼミコンパなどでは、カクテルパーティ効果により、今目の前で話をしている人の声に集中し、その他の雑音はカットされることになるが、しかし目の前の人との会話にひと段落がつき、ふと周りの話に耳を傾けてみると、興味のある、しかし会話をしていた二人からは出てこなかった話題が耳に届いてきて、再びその二人の会話が始まる・さらに別の人をも巻き込んで会話が盛り上がるということもあるだろう。雑音に紛れて漏れ聞こえる言葉から生まれるさらなる交流や新しい発想は、しかし、懇親会・宴会・コンパがなくなるとともに、失われてしまうのだ。

 私は、後期から対面式の授業をゼミ演習に限って導入した。そこでは、前期のオンラインのみで行われたゼミ発表と同じことしか行われていないかのようにも思われた。しかし先日、その考えは間違いであることがわかった。ゼミ演習が終わった後、ゼミ室の片付けを終え、自分の研究室へ歩いて帰るその道すがら、とある学生と他愛ない話をしていたときのことである。歩き話のなかで、私ははじめてその学生が、筑後市から1時間以上かけて週に一度だけ、このゼミのためだけに授業に来てくれていたこと、感染予防のために電車の中では椅子に座らず吊革なども持たないこと、最近就職が決まったこと、そして、昨年突然亡くなられた先生に対してどうしたらよいのか、まだ気持ちの整理がつかないでいる、ということを知った。私は、その歩き話を通じてやっと、その学生を、その「人間」を「見た」のである。

 なるほど、大学とは教育研究機関であり、「学生」と「教員」ということで考えれば、授業をし、授業を受けることが「本体」に他ならず、授業のオンライン化により、それさえ確保できていれば、大学としての機能を果たしていると思われるかもしれない。しかし、われわれは教員であり学生であると同時に、「人間」でもある。そして、その学生が・その教員がどのような「人間」であるのか、ということは、実際に会ってみて、そして授業時間だけでなく授業時間外にも、実際に会話などでやりとりをしない限り、わからないことである。学会は、発表と質疑応答だけが必要であり有用であるわけではないし、大学は、授業の内容だけが必要であり有用であるわけではない。そもそも、世界は、(目に見えて)必要なものと有用であるものだけで成り立っているわけではない。そしてわれわれは「人間」として、社会で生きてゆくために、「人間」と交流を重ね、自分の「人間」としての徳も磨き・積んでゆく。「人間」として徳を積み、善く生きていくためには、大学で学ぶことのできる知識や技能だけでは足りるわけもない。「人間」を実際に見て、そこにいる生の「人間」たちとの出会いや交流を重ねることにより、様々な「人間」が世の中にはいること、その「人間」が作り上げる社会や文化が複雑で多様であることを学ぶ必要があるのである。

 ところが、そうした学びの機会は、コロナ禍をきっかけにしたオンライン化によって、尽く奪われようとしているし、奪われてしまった。もちろん、「生存」の価値を蔑ろにすることはできないし、そして何より、コロナ重症患者に日々対応している医療従事者の肉体的・精神的負担のことを考えれば、安易に元の「密」な状態に戻すべきだとはなかなか言えない。しかしながら、われわれが「人間」として善く生きていくためには、生の「人間」と実際に会って交流を重ねていくことが必要不可欠である。ファイスガードやマスクを必ず着用した上で、アクリル板に仕切られる部屋に通されながらでも、実際に会って酒を飲み、ともに語らう時間を積み重ねることが、「人間」として生きていく上では必要不可欠だと思われるのである。

 来年は、このコロナ禍も収束し、元どおりの日常に戻るかもしれないし、ウィルスがさらに強毒化して、今以上の悲惨な世界が待っているのかもしれない。ただ、そのような中にあっても、全てをオンラインで済ませておけばよい、という安易な方向に流れるのではなく、実際に会うこと、そして無駄でありノイズであると思われるような時間を共に過ごすことの大切さを心に刻んで、日々、飲み会への志向性を忘れずにいたいものである。

 さて、そういうわけで、クリスマスも近いことだし、今年も忘れたいことがたくさんあることだし、誰かを飲みに誘おうかしら。あ、でも、いったい誰が、お誘いに乗ってくれるのかしら……。


〈参考文献・記事〉
東浩紀「このままでは文化は滅びる 人間にとって「密」はいかに大切か」『週刊新潮』2020年11月12日号、pp. 46-49、新潮社
國分功一郎[2020a]「A MESSAGE OF HOPE(連載:希望へ、伝言)】Vol.65 國分功一郎──大切なことはいつも困難なのです」
(https://www.gqjapan.jp/culture/article/20200613-koichiro-kokubun-message)【2020.12.20閲覧】
國分功一郎[2020b]「千字で語るコロナ論|哲学 國分功一郎|コロナ禍と東大。」
(https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00100.html)【2020.12.20閲覧】
児玉 聡[2020]「新型コロナウイルス対策、政府はどこまで「自由」を制限できるのか−「公衆衛生」の倫理−」『現代ビジネス』(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71906?page=3)【2020.12.20閲覧】

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