東日本復興支援プロジェクト報告
佐藤基治(心理学)
図1 |
8月18日午前中に、学生と教職員計50名が福岡空港に集合し、仙台空港に向けて出発した(写真1)。仙台空港から貸し切りバスで高速道路を約2時間走行すると南三陸町に到着する。最初に防災対策庁舎で線香をあげ、被災者の冥福を祈るとともに、ボランティア活動の無事を祈念した。昨年の活動の際には防災対策庁舎が更地に文字通り「孤立」していた(写真2、3)が、現在は周囲の区画に高さ10メートルほどの盛り土がなされており、防災対策庁舎は盛り土の山々に埋もれたように存在する。この辺りは津波で大きな被害を受けた場所で、「復興」が進む中で、防災対策庁舎を「忘れないでほしい」という思いと「忘れさせてほしい」という思いの間で、現地の人々は未だに揺れ動いている。
図2 |
図3 |
19日は南三陸町の雑草で覆われた避難路の清掃をした。これは「椿道プロジェクト」という津波の際の避難路に、塩害に強い椿の木を植えて道標にしようとする活動の一環である。椿の木の成長のためには下草を抜く必要があり、それは人の手で地道にやっていくのであるが、ところがそのような軽作業に従事する人手がないのである。ボランティア活動といえば、大震災直後には体力を必要とする作業もあり、強靭な体力を持つ人が過酷な環境の下で限界まで活動するというイメージだが、現在では寧ろ軽い作業に従事するボランティアが必要とされているようだ。重機を使った復興作業が進む一方で、たくさんの人手が必要な作業は中々捗らない。派遣隊の一部、15人で3時間ほど働くと歩きやすい径になるのにである(写真4,5)。
図4
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20日は南三陸ボランティアセンターの紹介で漁業作業に派遣された。作業はホタテ養殖の漁具の手入れであったが、より重要な活動は漁師の視点からの津波の体験、「復興」事業への感想の聞き取りであったように思う。「津『波』っていうから、白い波がしらのあるのを想像するかもしれないけど、『引き波』でいったん数百メートルほど沖まで海がなくなったかと思うと、『押し波』でビルのような灰色の壁が押し寄せてきた。」。ニュースなどでは復旧した道路や鉄道だけが報道され、放置された部分を目にすることは少ないが、道路沿いにはいまだに打ち上げられた漁船やグニャグニャのガードレールが放置されており、未開通の線路は雑草に埋もれてしまっている(写真6)。
図6 |
22日、23日は石巻に移動した。海岸沿いの津波の跡を高台の日和山から見渡すことができる(写真7)。震災前は住宅などが立ち並ぶ街だったのが、一面の更地のままである。海岸沿いは大規模な公園になることが決定したが、どこまでを公園にするかという新たな問題が生じている。22日は石巻市のボランティア団体の案内で海岸部を見学し、その後、防災に関するワークショップを体験した。東日本大震災で得た教訓を生かした「防災・減災」、「自然災害への備えと対応」が主要なテーマであった。23日は石巻専修大学のボランティア団体とのワークショップを行った。「復興から地域の問題を解決する」がテーマであり、「震災の風化を防ぐ」「被災地の問題を「知ること」は、地域問題の解決を考えること」と考え、「自分が、いま、すぐ、できる「行動」を考える。一人ひとりの小さな行動が、防災や地域問題の解決へとつながることを考えてみた。
図7 |
震災直後の、多くの人がボランティア活動に参加するときには、それはそれで人手が必要な時期であり有用なのだが、4年の歳月が過ぎた今、もっと地味な形での人手、息の長い活動が必要なようだ。震災直後には何となく気を削がれて、参加できなかった人も、こっそりと東日本の復興支援に参加してはどうだろう。新聞やテレビではわからない東日本の現状、復興の様子、人々の暮らしを直接目にするのは、「文化の多角的総合的理解」を目指す文化学科の学生にとって、有意義だと思う。今後は11月25日に学内で報告会を開催し、来年4月には次期の参加者募集の予定である。
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