2015年4月2日木曜日

台湾と沖縄 (宮岡真央子准教授)

「教員記事」をお届けします。第二二回は文化人類学の宮岡真央子先生です。



台湾と沖縄                       
宮岡真央子

距離
 学生のころ、宮古諸島での調査の往復に船をよく利用した。船は安いし、距離を実感できる。那覇から宮古・石垣を経由して台湾の基隆や高雄に向かう定期連絡船で、このまま乗っていたら台湾へ行けるなと思いつつ、ついぞ台湾までの船旅をすることはなかった。台湾と沖縄の距離を少しだけ実感したのは、その後、東京に留学中の台北出身の友人と宮古へ出かけたときのことだ。池間島で、漁師さんは「台湾は大きな島だよね」と言った。お年寄りは、戦時中台湾へ疎開したときの思い出と後日当時の知人と再会したときの喜びを語った。東京から来た友人は「ここは台湾にとても近い」とうれしそうに笑った。
 この近さは、八重山諸島へ行けばもっと顕著だ。最西端の与那国島から台湾までは約一一〇キロメートル、年に数日は台湾の大きな島影が望める。ただし、友人のいう「近さ」とは物理的距離の長短だけによるものではない。むしろそれは、人の往来や交流をともなう「親しさ」に近い感覚だったのだと思う。

半世紀間の往来
 かつて台湾が日本の植民地だった半世紀間、沖縄、とりわけ八重山の人たちにとって、台湾はもっとも身近な都会であり、多様な機会に恵まれた場所だった。進学、就職、資格取得などのため多くの人が台湾へ向かった。与那国島では、学校を卒業すると台湾で仕事に就くのが当たり前だった。沖縄各地の漁村からは、東部の漁村に移住がおこなわれた。現在の台湾東部の漁法や漁具には、沖縄漁民の技術が継承されている。他方、台湾から八重山への出稼ぎや移住もあった。西表島の炭鉱では過酷な労働が強いられた。石垣島には昭和期に台湾からの開拓者が数百人規模で入植した。台湾からもたらされた水牛やパイナップル栽培は今ではすっかり八重山の景観に溶け込み、台湾系住民のコミュニティも健在だ。また、池間島のお年寄りのように太平洋戦争末期に台湾へ疎開した人は、宮古・八重山を中心に一万人以上にのぼった。そして一九四五年、台湾と沖縄とのあいだには国境線が引かれた。その後数年間、この海域では「密貿易」が盛んにおこなわれ、その中継基地となった与那国島は空前の好景気に潤った。

「近さ」の回復に向けて
 台湾でも沖縄でも、こうした時代を直接経験した人はもはや少なくなり、ことばも通じない。往来の記憶は遠いものになりつつある。しかし、これらの経験と記憶を頼りに自治体は交流の道を探り、台湾東部の花蓮市と与那国町(一九八二年)、蘇澳鎮と石垣市(一九九五年)、基隆市と宮古島市(二〇〇七年)のあいだで姉妹都市協定が締結されている。また石垣市は、二〇〇九年から台北のある国立大学と提携して留学生派遣を開始した。台湾東部と八重山・宮古地域間の経済活動促進を目的とする民間団体主催の会合も近年開催されている。
 残念ながらあの定期連絡船は、船会社が倒産し五年前に廃止された。しかしそれと相前後するように、今度は基隆から石垣・那覇への豪華なクルーズ船が往来している。いま、台湾と沖縄を結ぶ海域では、あらたな形での交流や人の往来、そして「近さ」の回復が模索されている。


出典:月刊みんぱく 平成25年9月1日発行 第37巻第9号(通巻第432号)[編集・発行]国立民族学博物館

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