2014年5月31日土曜日

大学とは何でしょうか?(岩隈 敏教授)

「教員記事」第三回は、西洋哲学の岩隈 敏教授です。


 共通教育科目「哲学」の私の講義は、大学が誕生した時のその理念と、大学の歴史について話すことから始めます。

 大学とは何であるか?そこではどういう教育が行われたのか?それを考えることによって、新入生諸君に大学生としての自覚をもって欲しいと願うからです。

 大学の起源は中世のヨ-ロッパにあります。大学は教師と学生の、一種のギルド(同業者の自治団体)として発足しました。イタリアのボロ-ニャ大学は1088年、フランスのパリ大学は1150年ころ、イギリスのオックスフォ-ド大学は1167年、ケンブリッジ大学は1318年に創設されています。

 大学設立の目的は何だったのでしょうか?それは、聖俗の外部権力に対して、真理を探求する学問の自由という特権を確立するために、闘争することでした。それと同時に、内部では、共通のカリキュラムを定め、所定のカリキュラムの修了者には学位(doctor)を認可することでした。

 学問の自由を抑圧しようとする聖なる外部権力はキリスト教会です。聖書の記述に反する学問的な主張は教会によって弾圧されました。ガリレオはコペルニクスの地動説を支持して宗教裁判にかけられました。学問の自由を抑圧しようとする俗なる外部権力は政治権力、つまり国家です。太平洋戦争中、治安維持法によって左翼思想が弾圧されたことは記憶に新しいところでしょう。宗教権力、政治権力は、いつの時代にも、学問の自由をいろんな形で抑圧し、拘束してきたのです。

 大学の学部構成と教育内容は、どのようなものだったでしょうか?大学は、予科的な学芸を教える哲学部と、専門教育を行う神学部、法学部、医学部(すべての大学がこれらの全学部を揃えていたわけではありませんが)から構成されました。

 哲学部は、教養を身につけるための学部であり、専門の三学部の基礎教育を行いました。学生達は哲学部を修了してから、各々の専門学部に進学したのです。そして、学位授与権を持つのは専門学部だけであって、哲学部は専門学部でないことから、授与権をもっていませんでした(ドイツ系の大学で哲学部が学位授与権を獲得するのは、驚くことに、19世紀になってからのことです)。



 哲学部で教えられたのは自由七科(seven liberal arts)です。それは三科と四科に分かれます。三科(trivium)とは、論理学(logica) 文法(grammatica) 修辞学(rhetorica)であり、四科(quadrivium)とは、天文学(astronomia) 幾何学(geometrica) 算術(arithmetica) 音楽(musica 一本の弦を一対一に分割すれば八度音程がとれる。一対二、一対三、一対四というように整数比分割すればそれぞれに調和した音程が取れる)です。

 少し注意すれば分かるように、三科は言葉、言語に関係します。四科は自然に、あるいは自然研究に必要なものに関係します。中世のキリスト教世界において、神は二つの書物を書いたと考えられました。それは聖書と自然です。三科は聖書を、四科は自然という書物を読むための学問なのです。

 とすれば、大学生が、教養として、基礎的に身につけなければならないことは、神(一般的にいえば、人間を超えた無限者、絶対者ということになるでしょう)が書いた聖書と自然という二つの書物を読んで、人間と神(絶対者)、人間と人間、人間と自然との関係の、本来的な在り方を考え、正しい、善い生き方をすることであったと言えるでしょう。

 ついで、神学部 法学部 医学部の上級学部では専門教育が行われました。なぜこれらが専門学部とされたのでしょうか?それも、よく考えると分かります。それは、これらがすべて、人間にとって抜き差しならない〈生と死〉に関係するからです。医学が人間の生死に関わることは言うまでもありません。神学、一般的にいえば宗教学は、人間の魂の永続性、不死性と救済を、仏教の言葉でいえば、生死からの出離と〈後生の一大事〉、つまり救済を問題にします。法学も、死刑制度の例で分かるように、人間の生殺与奪権にかかわります。

 アメリカの西部開拓史を描いた西部劇を見たことがありますか?西部の開拓地に一つの町が発生し、それが共同体として成り立つためには、基本的に何がなければならないでしょうか?まず、教会があって聖職者がいなければなりません。そして、病気を治す医師がいなければ困ります。紛争が起これば、その処理にたずさわる判事(辺境地では、訴訟があった時だけ出張して来るようです)が必要です。これらの職業、それに関わる学問は、一つの地域共同体が共同体として存立するための基本条件なのです。

 とすれば、基礎学部である哲学部を修了して専門学部に進学する、という大学のシステムにおいては、専門的な学問を修め、人間の生と死について的確な、正しい判断ができるためには、まず人間としての教養を身につけなければならない、言いかえれば、人間と神(絶対者)、人間と人間、人間と自然との、本来的な関係の在り方を学び、正しい、善い生き方ができなければならない、とされたということでしょう。

 聖職者、判事、医師の三者、とくに医師がうける報酬が〈honoraria〉と呼ばれたことにも注意しなければなりません。それは〈労賃〉や〈賃金〉、あるいは〈代価〉といった意味ではなく、むしろ〈名誉〉であり、〈尊敬〉という意味に近いものでした。このことは、それらの仕事が営利目的に行われてはならないことを意味します。金儲けをしてはいけないのです。なぜでしょうか?よく考えてみなければなりません。それは、思うに、聖職者、判事、医師たちが〈人間の不幸〉を相手にしているからではないでしょうか。

 人間だれしも、生きているかぎり、つねに死の可能性に晒されています。いつ死ぬか分かりません。「死期はついでを待たず」、つまり、順序どおりにやって来るものでもありません。人間はすべて有限で、不完全な存在者です。幸いなことに、死に値する罪は犯していないとしても、日々、何らかの罪は犯しています。だから、いつ死に値する罪を犯すことになるかも知れないのです。みずから、よろこんで罪を犯し、死にたいと思うひとは誰もいません。ひとが死に値する罪を犯したり、いつ訪れるとも知れない死期を迎えたりすることは、そのひとにとって最大の不幸なのです。その不幸、悲しみを、それらの仕事は相手にしています。ひとの不幸、悲しみを相手に金儲けをしようなんて思うことは、言語道断なのです。

 時代が変わるとともに、大学で学ぶ者の階層も、人口も変化します。それにともない、専門学部の構成や教育内容も大きく変わりました。しかしながら、基礎教育と専門教育の理念、大学の理念は、発足当時から、何も変わっていないのではないでしょうか。

 近ごろ、産、官、学の共同が、声高に叫ばれ、推奨されています。それ自体、悪いことだとは、けっして思いません。しかし、産業・経済界や、国から多くの研究費を集め、支給される学問でなければ、また企業利益、国益に貢献する学問でなければ、立派な学問ではないかのような風潮を、時に感じることがあります。

 政治、経済や一般社会などの外部世界から、直接、影響されない自由と独立を保ち、外部世界が誤り、道を逸れた場合には、適宜それを批判し、向かうべき正しい方向を指し示すのが大学である。この大学本来の役割が、発足当初から何も変わっていないことも、けっして忘れてはなりません。

 文化学科で学ぶ君は、大学は、大学生とは何であると考えますか?

*平凡社刊『世界大百科事典』・「だいがく 大学」の項目(執筆者 寺崎昌男)参照。
*村上陽一郎著『生と死への眼差し』(青土社 1993)参照。
*『徒然草』第百五十五段


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