共感的に理解しようとすることの大切さ
藤村健一(地理学)
昨年11月のLCアーベントでは、宗教地理学の観点から現在、天皇陵古墳に付与されているさまざまな意味についてお話ししました。このなかで、天皇陵古墳を神聖視する人々に対して、まずは共感的な態度で接し、その考え方を理解しようとする態度が、調査に際して必要であると述べました。
こうした態度の重要性は、現代宗教研究全般に関しても指摘することができます。宗教の調査では、インフォーマント(調査対象者)である信仰者の語る内容が常識的には理解しがたいことも珍しくありません。そうした場合でも、調査者が自分の見方や価値観にとらわれずにインフォーマントを共感的に理解することが必要だとされています(磯岡哲也「信頼できる情報とは何か」井上順孝編『宗教社会学を学ぶ人のために』世界思想社、2016年、237頁)。
ただし、宗教研究者がつねにこうした態度をとるべきであるとは限りません。1995年の地下鉄サリン事件のあと、オウム真理教に関する複数の宗教学者の記述や発言が「オウムに擁護的」と非難を浴びました。このことは、それまで研究者の多くが宗教を肯定的に理解しようとする態度だったことに反省を促しました(磯村健太郎「オウムとは 宗教研究者の模索」『朝日新聞』2018年7月18日付朝刊)。
このように、とりわけ社会問題化した宗教について研究する際には、教団や信者に共感的態度でアプローチするだけでなく、教団への批判者も含むさまざまな人々の考えに耳を傾ける必要があります。たとえば北海道大学の櫻井義秀さんは、統一教会(世界基督教統一神霊協会から世界平和統一家庭連合に名称変更)について研究するなかで、現役信者・脱会信者双方へのインタビューを中心とした「トライアンギュレーション」(三角測量)という調査方法を確立しました(櫻井義秀「カルト問題と宗教社会学」鳥越皓之・金子勇編『現場から創る社会学理論―思考と方法―』ミネルヴァ書房、2017年、35~45頁)。
以上のように近年、宗教調査においては信仰者への共感的理解に基づく調査だけでは不十分であり、ときには彼らの立場から距離を置いて客観的な視点から調査をすることが求められるようになっています。
しかし2011年の東日本大震災以後、さらに状況が変わりつつあるようです。東京工業大学の弓山達也さんは、震災のあと、宗教研究者と宗教者が協働して被災地支援にあたったり、臨床宗教師のような資格制度の整備に双方が関わるようになったりしたことで、両者の距離が再び縮まっていると指摘しています(弓山達也「デタッチメントを越えて」『中外日報』2018年12月14日付)。
このように宗教研究者にとって、対象(教団、宗教者、信仰者)との距離の取り方は一筋縄ではいかない問題です。今後もおそらく、研究者の試行錯誤が続くと思います。しかし私は、やはり他者を共感的に理解しようとする態度が根本になければ、宗教調査は成り立ちがたいのではないかと考えています。
だがその一方で、そもそも他者を本当に理解できるのか、と疑問視する向きもあるでしょう。「人の気持ちなぞ理解できなくて当然だ。理解しあえると思うことこそ傲慢である。」これは、私が最近みたドラマ「家売るオンナの逆襲」第3話(日本テレビ系2019年1月23日放送)での主人公・三軒家チーフのセリフですが、たしかに他者の気持ちを理解しようとしてもなかなかできるものではありません。
けれども、他者を共感的に理解する態度を端から放棄することで、他者への偏見や不寛容が生じやすくなります。たとえば昨今、各地で問題化しているヘイトスピーチは、相手をはじめから同じ人間としてみようとしない態度から発しているといえるでしょう。
じつは、他者に共感したり同情したりする能力は、人類にはじめから備わっていたわけではありません。共感や同情の対象範囲は、人類の長い歴史のなかで徐々に拡大してきました。とくに大きく広がったのが18世紀の啓蒙主義の時代です。この頃から人々は、自分以外の人間の多くに同情の念を抱くようになり、他者の苦しみに無関心でいられなくなっていきます。そして、以前は当たり前だった死刑・体刑や奴隷制が批判されるようになり、人々が残虐性を求めることも減っていきました。ハーバード大学の心理学者スティーブン・ピンカーさんは、こうした変化を「人道主義革命」と呼び、これが人類の大いなる進歩であったと主張していますが(スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・塩原通緒訳『暴力の人類史 上巻』青土社、2015年、245~346頁)、私もまったく同感です。
しかし残念なことに今日、他者への共感を拒むヘイトスピーチまがいの言動はYouTubeやTwitter、Yahoo!ニュース(コメント欄)のように、われわれにとってごく身近なメディアにもあふれています。現在ではインターネットの発達によって、一般の人々が広く社会に向けて気軽に意見を発信できるようになっていますが、それによって社会が野蛮化していくとすれば困ったことです。
話がいくぶん脱線してしまいましたが、他者を共感的に理解しようとすることが、宗教研究のみならず、現代の社会全体にとっても大切であることをご理解いただければ幸いです。
こうした態度の重要性は、現代宗教研究全般に関しても指摘することができます。宗教の調査では、インフォーマント(調査対象者)である信仰者の語る内容が常識的には理解しがたいことも珍しくありません。そうした場合でも、調査者が自分の見方や価値観にとらわれずにインフォーマントを共感的に理解することが必要だとされています(磯岡哲也「信頼できる情報とは何か」井上順孝編『宗教社会学を学ぶ人のために』世界思想社、2016年、237頁)。
ただし、宗教研究者がつねにこうした態度をとるべきであるとは限りません。1995年の地下鉄サリン事件のあと、オウム真理教に関する複数の宗教学者の記述や発言が「オウムに擁護的」と非難を浴びました。このことは、それまで研究者の多くが宗教を肯定的に理解しようとする態度だったことに反省を促しました(磯村健太郎「オウムとは 宗教研究者の模索」『朝日新聞』2018年7月18日付朝刊)。
このように、とりわけ社会問題化した宗教について研究する際には、教団や信者に共感的態度でアプローチするだけでなく、教団への批判者も含むさまざまな人々の考えに耳を傾ける必要があります。たとえば北海道大学の櫻井義秀さんは、統一教会(世界基督教統一神霊協会から世界平和統一家庭連合に名称変更)について研究するなかで、現役信者・脱会信者双方へのインタビューを中心とした「トライアンギュレーション」(三角測量)という調査方法を確立しました(櫻井義秀「カルト問題と宗教社会学」鳥越皓之・金子勇編『現場から創る社会学理論―思考と方法―』ミネルヴァ書房、2017年、35~45頁)。
以上のように近年、宗教調査においては信仰者への共感的理解に基づく調査だけでは不十分であり、ときには彼らの立場から距離を置いて客観的な視点から調査をすることが求められるようになっています。
しかし2011年の東日本大震災以後、さらに状況が変わりつつあるようです。東京工業大学の弓山達也さんは、震災のあと、宗教研究者と宗教者が協働して被災地支援にあたったり、臨床宗教師のような資格制度の整備に双方が関わるようになったりしたことで、両者の距離が再び縮まっていると指摘しています(弓山達也「デタッチメントを越えて」『中外日報』2018年12月14日付)。
このように宗教研究者にとって、対象(教団、宗教者、信仰者)との距離の取り方は一筋縄ではいかない問題です。今後もおそらく、研究者の試行錯誤が続くと思います。しかし私は、やはり他者を共感的に理解しようとする態度が根本になければ、宗教調査は成り立ちがたいのではないかと考えています。
だがその一方で、そもそも他者を本当に理解できるのか、と疑問視する向きもあるでしょう。「人の気持ちなぞ理解できなくて当然だ。理解しあえると思うことこそ傲慢である。」これは、私が最近みたドラマ「家売るオンナの逆襲」第3話(日本テレビ系2019年1月23日放送)での主人公・三軒家チーフのセリフですが、たしかに他者の気持ちを理解しようとしてもなかなかできるものではありません。
けれども、他者を共感的に理解する態度を端から放棄することで、他者への偏見や不寛容が生じやすくなります。たとえば昨今、各地で問題化しているヘイトスピーチは、相手をはじめから同じ人間としてみようとしない態度から発しているといえるでしょう。
じつは、他者に共感したり同情したりする能力は、人類にはじめから備わっていたわけではありません。共感や同情の対象範囲は、人類の長い歴史のなかで徐々に拡大してきました。とくに大きく広がったのが18世紀の啓蒙主義の時代です。この頃から人々は、自分以外の人間の多くに同情の念を抱くようになり、他者の苦しみに無関心でいられなくなっていきます。そして、以前は当たり前だった死刑・体刑や奴隷制が批判されるようになり、人々が残虐性を求めることも減っていきました。ハーバード大学の心理学者スティーブン・ピンカーさんは、こうした変化を「人道主義革命」と呼び、これが人類の大いなる進歩であったと主張していますが(スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・塩原通緒訳『暴力の人類史 上巻』青土社、2015年、245~346頁)、私もまったく同感です。
しかし残念なことに今日、他者への共感を拒むヘイトスピーチまがいの言動はYouTubeやTwitter、Yahoo!ニュース(コメント欄)のように、われわれにとってごく身近なメディアにもあふれています。現在ではインターネットの発達によって、一般の人々が広く社会に向けて気軽に意見を発信できるようになっていますが、それによって社会が野蛮化していくとすれば困ったことです。
話がいくぶん脱線してしまいましたが、他者を共感的に理解しようとすることが、宗教研究のみならず、現代の社会全体にとっても大切であることをご理解いただければ幸いです。
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