実を言えば、議論が途切れてしまった場合、見学者として私の意見を聞かれるのではないかとハラハラしながら席に就いていたのだが、何のことはない、常に誰かが主張しており(笑)、途切れるどころか時間内では収まらないほどだった。その時私は、安心と同時に一握りの寂しさを抱いた。それほどに、意見を飛び交わしている学生たちの表情が生き生きとしており、楽しそうに見えたからだ(決してほのぼのとした議論とは言えないのだが)。刺激的で、(いい意味で)荒々しい議論を交わすことで、学生たちがお互いを高め合いながら成長していく上で重要な経験であり、「死」と「不死」という窓を通して生きることを見つめる機会でもあったと感じた。またこのような機会があれば、一介の見学者としてではなく、議論に加われるような立場で、際限なく意見を交わせたら、と思う。(先生方、何卒よろしくお願いいたします。)
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2015年8月17日月曜日
宮野ゼミ×林ゼミ「死と不死」(LC13 原口花恵さん)
去る7月17日金曜日、A701教室では熱い議論が繰り広げられていた。宮野ゼミと林ゼミの学生による、「死と不死」をテーマに行った合同ゼミの発表会である。私は友人から合同ゼミのことを聞いて興味を持ち、見学を申し出たが、その際の宮野先生の快諾っぷりは、そのまま発表会の(すなわちゼミの)開放感を体現していた。私が明らかに浮いた様子で教室内に居ても、誰もが「ああ、見学ね」といった様子で、鷹揚に迎えてくれて安堵したのも束の間だった。
それぞれのゼミ内で、「死」と「不死」の合計4グループに分かれて行われたそのディスカッションは、お気楽に構えていた私の甘い考えを初っ端から木端微塵にした。シンプルだからこそ重く難しいテーマでありながらも各々の個性が光る発表であったし、1グループが発表する毎に質問の時間が設けられているのだが、先輩も後輩も関係なく、気兼ねすることなしにストレートな意見が宙を舞った。それぞれの方法で、見方で、切り込み方で、自分たちの主張を展開していく姿は瑞々しく、議論が盛り上がる中で軌道が逸れる場面もあったものの、先生方の舵取りが入りつつ学生たち主導で熱く力強く進んでいった。
実を言えば、議論が途切れてしまった場合、見学者として私の意見を聞かれるのではないかとハラハラしながら席に就いていたのだが、何のことはない、常に誰かが主張しており(笑)、途切れるどころか時間内では収まらないほどだった。その時私は、安心と同時に一握りの寂しさを抱いた。それほどに、意見を飛び交わしている学生たちの表情が生き生きとしており、楽しそうに見えたからだ(決してほのぼのとした議論とは言えないのだが)。刺激的で、(いい意味で)荒々しい議論を交わすことで、学生たちがお互いを高め合いながら成長していく上で重要な経験であり、「死」と「不死」という窓を通して生きることを見つめる機会でもあったと感じた。またこのような機会があれば、一介の見学者としてではなく、議論に加われるような立場で、際限なく意見を交わせたら、と思う。(先生方、何卒よろしくお願いいたします。)
実を言えば、議論が途切れてしまった場合、見学者として私の意見を聞かれるのではないかとハラハラしながら席に就いていたのだが、何のことはない、常に誰かが主張しており(笑)、途切れるどころか時間内では収まらないほどだった。その時私は、安心と同時に一握りの寂しさを抱いた。それほどに、意見を飛び交わしている学生たちの表情が生き生きとしており、楽しそうに見えたからだ(決してほのぼのとした議論とは言えないのだが)。刺激的で、(いい意味で)荒々しい議論を交わすことで、学生たちがお互いを高め合いながら成長していく上で重要な経験であり、「死」と「不死」という窓を通して生きることを見つめる機会でもあったと感じた。またこのような機会があれば、一介の見学者としてではなく、議論に加われるような立場で、際限なく意見を交わせたら、と思う。(先生方、何卒よろしくお願いいたします。)
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