なぜ私は締めに、ラーメンを食べてしまったのか
— 酒と理性と情念と —
— 酒と理性と情念と —
林 誓雄(哲学)
忘年会・新年会シーズンたけなわである。学生も教員も皆、思い思いのメンバーと、お酒を呑みに、街へ繰り出す日々が続いていることだろう。とはいえ、私の場合、別にそのようなシーズンであるなしに関係なく、毎週のように呑んだくれているわけだが…。そして、ついつい呑み過ぎてしまい、記憶を失うこともしばしば…である……。
そんな、記憶(および、その他の大切なもの)を失って家に帰り、その翌朝、重たい身体を何とか動かし、体内からアルコールを抜くべく、シャワーを浴びているときなどに、ふと考えてみたことがある(別名、「反省」とも言う)。それはすなわち、記憶や意識を失いつつも、酔いにまかせて、なぜ私は締めに、それが不健康であるとよくよく理解しているにもかかわらず、こってりラーメンを食べてしま(い、挙げ句の果ては、終電すら逃してしまい、結局はタクシーで帰る羽目にな)ったのか、ということである。以下では、そのとき(反省時)の私のささやかな考察を、まとめることにしたいと思う。すなわち本稿は、人間というものが、どのようなメカニズムに基づいて行為するのかについての考察、一言で、人間の「行為の動機づけ」についての一考察である。
人間の「行為の動機づけ」の仕組みについては、古くから、哲学者たちの間でさかんに議論が交わされてきた。私の専門とする、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームもまた、その中のうちの一人であり、現代のメタ倫理学と呼ばれる領域のうちの「行為の動機づけ」の議論において、多大なる影響を及ぼしている。
ヒュームによると、伝統的に人間とは、理性と情念(=感情)という二つの原理によって行為するものと考えられてきた。そして、「理性と情念の闘争」ということが、さまざまな場面で言われてきたわけだが、その対立においては一般に、次のように主張され、また命じられてきたのだという。すなわち「何か、行為をするにあたっては、理性にしたがい、理性によって自分の行為を規制して生きることこそが、倫理的な・健康的な・立派な生き方なのであり、われわれは皆、そのようにするべきである」と。逆に、「情念にしたがってはならず、むしろ情念に抗うようにせよ」と、そのように(幼い頃より口すっぱく)言われてきたのである、と(T 2.3.3.1)。
確かに、特段、哲学的な議論においてだけでなく、普段の生活の中においても、「感情的に行動するな」、あるいは逆に、「理性的に行為しなさい」と言われるような場面を、われわれは頻繁に目にするし、そういう場面に出くわすことも多いだろう。そこでは、(神にその起源を有するがゆえに)理性とは永遠、不変なものであり、善を司るものであることが前提とされている。その一方で、情念とは盲目で、移り気で、そしてしばしば、われわれに嘘をつかせるなど、悪を司るものであることが、議論の前提とされている(ibid.)。
しかし、こうした伝統的な人間観に、ヒュームは疑問を投げかける。すなわち、果たして本当に、理性にしたがって、われわれが行為することなど、できるのか、と。このようにヒュームが疑問を抱くのは、伝統的な哲学においては、理性とは(1)数学的・直観的な計算能力か、あるいは(2)因果関係や目的手段関係について把握する推論能力かの、どちらかだとされているからである。
ヒュームに言わせると、われわれ人間が数学的な計算能力だけで、行為に至ることはない。5+7=12であることがわかったからといって、われわれは行為へと突き動かされることはない。そしてまた、推論能力のみによっても、われわれが行為に至ることはない。例えば、目の前に置いてある冷たいビールを呑もうと、私が手を動かす場面を考えよう。確かに、目の前のビールが原因となって、それを呑むことで、私は心地よい気分になるから、ビールを手に取るという行為が生まれはする。しかしながら、ビールが「原因」となり、それを呑むことで心地よい気分になるという「結果」が私にもたらされることを、私が把握しているとしても、それだけで私は、行為へと突き動かされることはない。私が行為するためにはもうひとつ、「心地よさを取り込みたい」という欲求(=情念)が、理性による推論とは別に、はたらいていなければならないのである。
以上の議論より、われわれ人間は、理性の能力のみでは、行為へと突き動かされることはない。この「理性と情念との関係」についてヒュームは、次のような刺激的な言葉を残している。
さて、以上のようなヒュームの人間観を、具体例を交えてまとめ直すと、次の通りとなる。すなわち、人間を、車に例えて説明するならば、車のエンジン部分が「情念(=感情)」であり、車のハンドルが「理性」に相当する。ハンドルだけを、グリグリ動かしても、前にも後ろにも進むことはない。理性だけをはたらかせても、われわれ人間は動かないのである。逆に、エンジンだけがはたらくとしても、ハンドルによる方向づけがうまくいかないと、前や後ろには進むことはできたとしても、しかし、崖から転落してしまったり、壁にぶつかってしまったりすることになる。つまり、エンジンであるところの情念が、人間を駆動する本質的部分ではあるとしても、しかしハンドルとしての理性による方向づけがあってはじめて、人間は合理的に行為することが可能となるのである。以上がヒュームの人間観である。そして、こうした人間の捉え方は、現代では「ヒューム主義」と呼ばれている。
そんな、記憶(および、その他の大切なもの)を失って家に帰り、その翌朝、重たい身体を何とか動かし、体内からアルコールを抜くべく、シャワーを浴びているときなどに、ふと考えてみたことがある(別名、「反省」とも言う)。それはすなわち、記憶や意識を失いつつも、酔いにまかせて、なぜ私は締めに、それが不健康であるとよくよく理解しているにもかかわらず、こってりラーメンを食べてしま(い、挙げ句の果ては、終電すら逃してしまい、結局はタクシーで帰る羽目にな)ったのか、ということである。以下では、そのとき(反省時)の私のささやかな考察を、まとめることにしたいと思う。すなわち本稿は、人間というものが、どのようなメカニズムに基づいて行為するのかについての考察、一言で、人間の「行為の動機づけ」についての一考察である。
人間の「行為の動機づけ」の仕組みについては、古くから、哲学者たちの間でさかんに議論が交わされてきた。私の専門とする、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームもまた、その中のうちの一人であり、現代のメタ倫理学と呼ばれる領域のうちの「行為の動機づけ」の議論において、多大なる影響を及ぼしている。
ヒュームによると、伝統的に人間とは、理性と情念(=感情)という二つの原理によって行為するものと考えられてきた。そして、「理性と情念の闘争」ということが、さまざまな場面で言われてきたわけだが、その対立においては一般に、次のように主張され、また命じられてきたのだという。すなわち「何か、行為をするにあたっては、理性にしたがい、理性によって自分の行為を規制して生きることこそが、倫理的な・健康的な・立派な生き方なのであり、われわれは皆、そのようにするべきである」と。逆に、「情念にしたがってはならず、むしろ情念に抗うようにせよ」と、そのように(幼い頃より口すっぱく)言われてきたのである、と(T 2.3.3.1)。
確かに、特段、哲学的な議論においてだけでなく、普段の生活の中においても、「感情的に行動するな」、あるいは逆に、「理性的に行為しなさい」と言われるような場面を、われわれは頻繁に目にするし、そういう場面に出くわすことも多いだろう。そこでは、(神にその起源を有するがゆえに)理性とは永遠、不変なものであり、善を司るものであることが前提とされている。その一方で、情念とは盲目で、移り気で、そしてしばしば、われわれに嘘をつかせるなど、悪を司るものであることが、議論の前提とされている(ibid.)。
しかし、こうした伝統的な人間観に、ヒュームは疑問を投げかける。すなわち、果たして本当に、理性にしたがって、われわれが行為することなど、できるのか、と。このようにヒュームが疑問を抱くのは、伝統的な哲学においては、理性とは(1)数学的・直観的な計算能力か、あるいは(2)因果関係や目的手段関係について把握する推論能力かの、どちらかだとされているからである。
ヒュームに言わせると、われわれ人間が数学的な計算能力だけで、行為に至ることはない。5+7=12であることがわかったからといって、われわれは行為へと突き動かされることはない。そしてまた、推論能力のみによっても、われわれが行為に至ることはない。例えば、目の前に置いてある冷たいビールを呑もうと、私が手を動かす場面を考えよう。確かに、目の前のビールが原因となって、それを呑むことで、私は心地よい気分になるから、ビールを手に取るという行為が生まれはする。しかしながら、ビールが「原因」となり、それを呑むことで心地よい気分になるという「結果」が私にもたらされることを、私が把握しているとしても、それだけで私は、行為へと突き動かされることはない。私が行為するためにはもうひとつ、「心地よさを取り込みたい」という欲求(=情念)が、理性による推論とは別に、はたらいていなければならないのである。
以上の議論より、われわれ人間は、理性の能力のみでは、行為へと突き動かされることはない。この「理性と情念との関係」についてヒュームは、次のような刺激的な言葉を残している。
理性は情念の奴隷であり、奴隷のみであるべきである。つまり理性が、情念に付き従う以外の役目を申し立てることはできないのである。(T 2.3.3.4)
さて、以上のようなヒュームの人間観を、具体例を交えてまとめ直すと、次の通りとなる。すなわち、人間を、車に例えて説明するならば、車のエンジン部分が「情念(=感情)」であり、車のハンドルが「理性」に相当する。ハンドルだけを、グリグリ動かしても、前にも後ろにも進むことはない。理性だけをはたらかせても、われわれ人間は動かないのである。逆に、エンジンだけがはたらくとしても、ハンドルによる方向づけがうまくいかないと、前や後ろには進むことはできたとしても、しかし、崖から転落してしまったり、壁にぶつかってしまったりすることになる。つまり、エンジンであるところの情念が、人間を駆動する本質的部分ではあるとしても、しかしハンドルとしての理性による方向づけがあってはじめて、人間は合理的に行為することが可能となるのである。以上がヒュームの人間観である。そして、こうした人間の捉え方は、現代では「ヒューム主義」と呼ばれている。
ところで、もしかするとここで、車が動く上で必要となる部分がひとつ、上の説明には欠けていることに、気がついた人がいるかもしれない。それはすなわち、車のブレーキである。伝統的な哲学においては、車のブレーキも、理性が担当すると考えられてきた。だからこそ、「感情・情念を理性で抑える」というような表現が、一般に受け入れられているのかもしれない。
しかしながら、ヒュームはこのブレーキの役割を、理性には認めない。理性はあくまでも、人間の行為の方向づけをするだけである。それでは、ヒュームの人間観において、ブレーキの役割を担うものは何か。それは、他ならぬ「情念(=感情)」である。しかもこの、ブレーキの役割を担う情念のことを、ヒュームは「穏やかな情念」と呼ぶ。
特定の穏やかな欲求や傾向は、実際には存在している情念なのだけれど、こころに、ほとんど情動を生みださず、それゆえ、直接的な感じや感覚によって知られるというよりもむしろ、その結果によって知られることが多いのは確かである。こうした欲求には二種類ある。すなわち、善意や敵意、生命愛、そして子供への思いやりなど、人間本性に元々植え付けられている特別な本能と、そのようなものとしてだけ考えられる場合の、善に向かう一般的な欲と、悪に対する一般的な嫌悪である。こうした情念のどれもが穏やかであり、魂に波風をまったく引き起こさない場合、そのような情念は実に安易に、理性が決定したものと取り違えられる、つまり、真偽を判断するのと同じ能力から生じると考えられるのである。(T 2.3.3.8)
伝統的な哲学、および一般的な考え方においては、人間には理性と情念(=感情)が備わっており、情念が暴れようとすることを、理性が抑えるものであると、そのように考えられてきた。しかしながら、ヒュームに言わせるとそれは間違いであり、一般に「理性」対「情念」の対立と思われているものは、実は「穏やかな情念」対「激しい情念」の対立なのである。それにもかかわらず、伝統的な哲学においては、穏やかな情念のはたらきは、その穏やかさゆえに、こころに波風を立てることなくはたらく「理性」のものだと、そのように勘違いされてきた、これがヒュームの診断である。理性はあくまでも、情念の奴隷としてしかはたらくことができない。理性と情念とは、まったく異なるフェーズではたらくものなのであるから、その二つが「対立」したり、「闘争」したりするなど、できるはずもないのである。
さて、以上のヒュームの診断が正しいとしよう。そして私はつい最近まで、その診断が、概ね正しいものだと考えてきた。ヒュームにしたがうならば、不道徳・不健康・愚かな行為へとわれわれを突き動かしがちな「激しい情念」を、善へと向かい・悪を嫌悪する「穏やかな情念」によって規制することで、われわれは善く・健康的に・立派に生きることができる、ということになるだろう。
ここで、読者によっては、「激しい」と「穏やか」という言葉使いから、「穏やかな情念」など、「激しい情念」に勝てるわけがないと、思う人がいるかもしれない。しかしながら、激しさや穏やかさは、行為への動機づけにおいては、あまり関係がないとヒュームは述べる。行為の動機づけにおいて重要となるのは、情念の「強さ」である。われわれは、穏やかであるけれども、しかし「強い」情念をもっていれば、「激しい情念」によって不道徳・ 不健康・愚かな行為を、しでかしてしまうことはないのである(Cf. T 2.3.4.1-2)。
さて、本題はここからである。そして、問題となるのは、他ならぬ「酒」である。冒頭で示した、私の愚かな行為について、もう一度思い出していただこう。私は、酒を大量に摂取したために、(明瞭な)意識や記憶を失う状態へと至った。しかしながら、そういった状態であっても、私はどういうわけだか、呑みの締めにと、ラーメン屋に入っていき、とんこつラーメンを食したのである。このとき、仮に酒が入っていなければ、私は自分の健康と、目の前の快楽とを天秤にかけ、きっと妥当な判断を下して、立派に行為していたことであろう。すなわち、「ヒューム主義」の枠組みにしたがって説明するならば、健康で長生きしたいとする「穏やかな情念」が、目先の快楽を味わいたいとする「激しい情念」に打ち克ち、そしてそれを抑制し、締めにラーメンなど食べずに、大人しく家に帰ってきたはずである。そうすると、次のように分析することができるように思われる。すなわち、〔A〕酒のせいで大人しく家に帰らずにラーメン屋の暖簾をくぐったとするならば、それは、酒が原因となって、「穏やかな情念」のはたらきが弱まり、あるいは封じ込められ、「激しい情念」が野放しになってしまったのだ、と。いや、可能性としてはもう一つ考えられる。すなわち、〔B〕酒が原因となって、「激しい情念」のみが、そのはたらく力を増大させ、その結果、私は「穏やかな情念」の言うことなど聞かず、唯々諾々と「激しい情念」の導きにしたがってしまったのだ、と。
以上の分析は、しかしながら、納得できないところがある。すなわちそれは、〔A〕の場合、なぜ「穏やかな情念」は、そしてそれのみが、酒に弱いのか、ということである。同様に、〔B〕の場合であれば、なぜ「激しい情念」は、そしてそれのみが、酒によってパワーアップするのか、ということである。
同じ「情念」とカテゴライズされるものであるならば、「穏やかな情念」だけでなく「激しい情念」の両方が、酒によって、そのはたらきを封じ込められる、あるいは両方が、酒によってパワーアップしてしかるべきであるように思えるのである。しかしながら、現実にはそうなってはいない。すなわち、酒はどういうわけだか、どちらか一方の情念のみに、影響を及ぼしている。これは、「一貫性」という点で問題があるように思われる。そして、この一貫性という問題について、適切な説明が与えられない場合、もしかするとヒュームの人間観それ自体が、そもそもまちがっていることを示すことになるように思われるのだ。
ヒュームの人間観(理性は情念の奴隷)が正しいものではないとすると、即座に対案として、伝統的な哲学における人間観が思い浮かぶ。すなわち、人間の理性と情念とは、そのどちらにも動機づけの力が備わっており、情念の自分勝手な蠢きを、理性がただしく抑えることによって、人間は善く・健康的に・立派に生きることが可能になる、という捉え方が、やはり妥当なものであったのである、と。
だが、伝統的な人間観にも、依然として難点はつきまとう。それは、ヒューム主義的な人間観に当てはまったのと同じものであるが、なぜ「理性」は、そしてそれのみが、酒に弱いのか、ということである。あるいは、なぜ「情念」は、そしてそれのみが、酒によってパワーアップするのか、ということである。伝統的な人間観の場合、理性と情念とは、別個の存在とされているわけだから、ヒューム主義が直面した「一貫性」という問題については、それを回避することができるだろう。しかしながら、それでもやはり、なぜ酒が、一方の原理にのみ影響を及ぼすのかという点については、説明が与えられなければならない。とりわけ、哲学や倫理学を研究している者からすると、どうして「理性」が、そしてそれのみが、酒に弱いのかということについては、納得のいく説明が欲しいところである。なぜなら、理性とは神にその起源があるとされているにもかかわらず、それが酒に弱いということは、神の全能性と矛盾するように思われるからである。いや、もしかすると、全能とか言っておきながら、実はカミサマって、酒にだけは弱いのかも、しれない。
かくして、人間についての捉え方は、ヒューム主義と伝統的な哲学、どちらが正しいものであるのだろうか。理性は情念の奴隷であるのか、それとも、理性によって情念は、抑え込むことができるのか。あるいは、これら両方ともに、人間の捉え方として間違っているのか。ともかくも、以上の考察から、一つだけ言えることがある。すなわち、それは、「お酒は、ほどほどに」ということである(自戒)。
参考文献
Hume, D. [1739-40] A Treatise of Human Nature, eds., by Norton, D. F. & Norton, M. J. 1st Ed, Oxford U. P., 2000. (引用・参照の際は、略号としてTを用い、巻、部、節、および段落の番号をアラビア数字で順に付す。訳は筆者によるものである。)