カウンターには何があるのか?
宮野真生子(哲学)
食事に行くとき、あるいは飲みに行くとき、さらには喫茶店にコーヒーを飲みに行くときでさえ、私はカウンターに座るのが好きです。
そこで、たくさんのお酒を飲み、おしゃべりし、時にマスターに怒られ、常連になぐさめられたり、相談にのったりしながら、かなりの時間を過ごしてきました。とくに京都での学生時代には下手をすると家で勉強しているよりも、長い時間をカウンターにいたかもしれません(記憶にある限り、夜の7時に入って朝7時までいたというのが最長のような気がします)。
感覚的にいうと、当時の私はカウンターという場所で多くのことを学ぶと同時に、救われてきたんだと思っています。しかし、いったいなぜ?
某バーにて |
居酒屋やバーという小箱の店は、多くの場合カウンターがメインです。もちろん、そこには美味しい食べ物があるし、良いお酒もある。けれど、良い酒だけを飲みたいのであれば、あるいは、良い食材を堪能したいのであれば、家に買ってきて楽しんだ方がコスパはきっといいはず。それでも人は外で食べ、飲むことを求めるわけです。もっと極端な例を出すと、家で食べられるありふれたものしか出ないような店に好んで行く人もいます。
たとえば、最近人気のマンガ『深夜食堂』はその典型ですね。出てくるものは、タコさんウィンナーや卵焼き、お茶漬けに肉じゃが。本当に普通のものです。ありふれたものしか出ないのに、なぜわざわざ店に行くのか。この問いに対して、日本の戦後文化を研究するマイク・モラスキーは居酒屋の魅力を「物の流通および消費する場」ではなく「人との出会いおよび交流が発生する場」と述べています。そして、その魅力を「第三の場」というキーワードから分析します。この「第三の場」という言葉の意味するところを、レイ・オルデンバーグが『サードプレイス—コミュニティの核になる「とびきり居心地のよい場所」』で詳しく説明してくれています。彼によれば、第三の場(サードプレイス)とは、第一の「家」、第二の「職場」に続く、「インフォーマルな公共のつどいの場」です。その例としてオルデンバーグは、職場に行く前に立ち寄るカフェや家に帰る前のパブをあげています。こういった場所は「誰でも受け入れる」場であり、いつ行ってもいいし、いつ帰ってもいいところです。その自由さは家にも職場にもないものです。それなら、コンビニやファーストフード店だってそうじゃないか、と思うかもしれません。けれど、サードプレイスとコンビニは全く違います。コンビニの自由は、その人が一人の人格、「私」という存在である必要がないというだけ、つまり、互いに顔を認識することもない「誰でもいい人」として扱われることから生じるものです。それは、自由というより、むしろ孤独に近いものです。一方のサードプレイスはたしかに出入り自由ですが、そこには互いをよく知るお馴染みの面子がいて、それぞれの顔をしっかりと認識し、様々な会話が交わされます。そして、このような活動を通じて、サードプレイスは人びとの生活を円滑にするためのコミュニティとして機能し、「個人とより大きな社会との間をとりもつ基本的な施設」となっている、とオルデンバーグは言います。
なぜ、サードプレイスはそうした機能をもつのでしょう。それはサードプレイスでは、「レベリング(平等化)」が起こるからです。サードプレイスはあらゆる人に開かれています。それはつまり、それぞれの人の立場を問わないということです。あらゆる人が楽しむ場になるためには、社会的地位はサードプレイスの外に置いてくる必要があります。オルデンバーグはこう言っています。
「サードプレイスの門をくぐるときには、きっとある変化が起こるはずだ。なかにいる全員が平等でいられるように、世俗の地位をひけらかすのはやめてほしい、と入口で念を押されるに違いない。外の身分の放棄、あるいは配達用トラックの持ち主とその運転手とを対等な者として扱う平等化の見返りとして、より人情味があり、より長続きする場に受け入れてもらえる。平等化は、日常の世界での地位が高い人にとっても低い人にとっても、喜びであり安らぎである」(オルデンバーグ、p71)
私たちの日常生活は、たいていの場合、何らかの目的に基づく行動によって形作られています。その目的を達成するために、人と人は一定の役割に基づく関係を結びます。それは安定した日常を送るために大切なことですが、上司と部下や、妻と夫といった役割は、時に人の行動を制約し、その役割を生きている「私」の姿を見えなくしてしまいます。サードプレイスのレベリングはこうした役割を外すことで「本人の個性や、他者と共にいることの固有の喜び」を発見させることができるというわけです。
ふりかえって考えると、私にとってカウンターはまさにこうしたサードプレイスだったのです。若く、まだ肩に力が入っていた頃、大学のなかで群れることを嫌い、うまく友だちも作れず、しかしプライドだけは高かった、まぁ、要するにこじらせ系女子だった私が、そのしょうもないプライドを打ち砕かれ、色々と背負っていたもの(背負っているつもりのもの)をおろして、ただの小娘に戻れる場所。そして、だからこそ、私はそこで色々なことを学べたのだと今になって思います。関西の酒場ライターであるバッキー井上さんは次のようにカウンターの魅力を語っています。
「ひとりでいるのは気楽だけれど時にさみしい。でも街にはカウンターがあってくれるので、さみしくなったらそこへ随意に行くことができる。…そのうちにひとりの人生だけれどひとりではなくなるような気になってくる」(バッキー井上、p59)
あいかわらず私は一人でカウンターに飲みに行きます。むしろカウンターに座るときは一人がいい。そこで色んなものを下ろして、小娘のときからさして変わっていない自分に気づくのです。「あいっかわらずアホやなぁ」。ひさしぶりに訪れた木屋町(京都の繁華街です)のバーでそう言われることほど嬉しい瞬間はありません。
*参考文献
レイ・オルデンバーグ、2013年、『サードプレイス—コミュニティの核になる「とびきり居心地のよい場所」—』、みすず書房
バッキー井上、2009年、『たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯ってる。』、140B
マイク・モラスキー、2014年、『日本の居酒屋文化—赤提灯の魅力を探る—』、光文社新書