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2018年3月30日金曜日

カウンターには何があるのか?(宮野真生子先生)


平成29年度第15回教員記事をお届けします。哲学の宮野真生子先生です。私たちはなぜ飲みに行くのか、カウンターには何があるのかを実体験をまじえ(?)、語っています。


カウンターには何があるのか?
宮野真生子(哲学

食事に行くとき、あるいは飲みに行くとき、さらには喫茶店にコーヒーを飲みに行くときでさえ、私はカウンターに座るのが好きです。

そこで、たくさんのお酒を飲み、おしゃべりし、時にマスターに怒られ、常連になぐさめられたり、相談にのったりしながら、かなりの時間を過ごしてきました。とくに京都での学生時代には下手をすると家で勉強しているよりも、長い時間をカウンターにいたかもしれません(記憶にある限り、夜の7時に入って朝7時までいたというのが最長のような気がします)。

感覚的にいうと、当時の私はカウンターという場所で多くのことを学ぶと同時に、救われてきたんだと思っています。しかし、いったいなぜ? 
某バーにて


居酒屋やバーという小箱の店は、多くの場合カウンターがメインです。もちろん、そこには美味しい食べ物があるし、良いお酒もある。けれど、良い酒だけを飲みたいのであれば、あるいは、良い食材を堪能したいのであれば、家に買ってきて楽しんだ方がコスパはきっといいはず。それでも人は外で食べ、飲むことを求めるわけです。もっと極端な例を出すと、家で食べられるありふれたものしか出ないような店に好んで行く人もいます。




たとえば、最近人気のマンガ『深夜食堂』はその典型ですね。出てくるものは、タコさんウィンナーや卵焼き、お茶漬けに肉じゃが。本当に普通のものです。ありふれたものしか出ないのに、なぜわざわざ店に行くのか。この問いに対して、日本の戦後文化を研究するマイク・モラスキーは居酒屋の魅力を「物の流通および消費する場」ではなく「人との出会いおよび交流が発生する場」と述べています。そして、その魅力を「第三の場」というキーワードから分析します。この「第三の場」という言葉の意味するところを、レイ・オルデンバーグが『サードプレイス—コミュニティの核になる「とびきり居心地のよい場所」』で詳しく説明してくれています。彼によれば、第三の場(サードプレイス)とは、第一の「家」、第二の「職場」に続く、「インフォーマルな公共のつどいの場」です。その例としてオルデンバーグは、職場に行く前に立ち寄るカフェや家に帰る前のパブをあげています。こういった場所は「誰でも受け入れる」場であり、いつ行ってもいいし、いつ帰ってもいいところです。その自由さは家にも職場にもないものです。それなら、コンビニやファーストフード店だってそうじゃないか、と思うかもしれません。けれど、サードプレイスとコンビニは全く違います。コンビニの自由は、その人が一人の人格、「私」という存在である必要がないというだけ、つまり、互いに顔を認識することもない「誰でもいい人」として扱われることから生じるものです。それは、自由というより、むしろ孤独に近いものです。一方のサードプレイスはたしかに出入り自由ですが、そこには互いをよく知るお馴染みの面子がいて、それぞれの顔をしっかりと認識し、様々な会話が交わされます。そして、このような活動を通じて、サードプレイスは人びとの生活を円滑にするためのコミュニティとして機能し、「個人とより大きな社会との間をとりもつ基本的な施設」となっている、とオルデンバーグは言います。

なぜ、サードプレイスはそうした機能をもつのでしょう。それはサードプレイスでは、「レベリング(平等化)」が起こるからです。サードプレイスはあらゆる人に開かれています。それはつまり、それぞれの人の立場を問わないということです。あらゆる人が楽しむ場になるためには、社会的地位はサードプレイスの外に置いてくる必要があります。オルデンバーグはこう言っています。

「サードプレイスの門をくぐるときには、きっとある変化が起こるはずだ。なかにいる全員が平等でいられるように、世俗の地位をひけらかすのはやめてほしい、と入口で念を押されるに違いない。外の身分の放棄、あるいは配達用トラックの持ち主とその運転手とを対等な者として扱う平等化の見返りとして、より人情味があり、より長続きする場に受け入れてもらえる。平等化は、日常の世界での地位が高い人にとっても低い人にとっても、喜びであり安らぎである」(オルデンバーグ、p71)

私たちの日常生活は、たいていの場合、何らかの目的に基づく行動によって形作られています。その目的を達成するために、人と人は一定の役割に基づく関係を結びます。それは安定した日常を送るために大切なことですが、上司と部下や、妻と夫といった役割は、時に人の行動を制約し、その役割を生きている「私」の姿を見えなくしてしまいます。サードプレイスのレベリングはこうした役割を外すことで「本人の個性や、他者と共にいることの固有の喜び」を発見させることができるというわけです。

ふりかえって考えると、私にとってカウンターはまさにこうしたサードプレイスだったのです。若く、まだ肩に力が入っていた頃、大学のなかで群れることを嫌い、うまく友だちも作れず、しかしプライドだけは高かった、まぁ、要するにこじらせ系女子だった私が、そのしょうもないプライドを打ち砕かれ、色々と背負っていたもの(背負っているつもりのもの)をおろして、ただの小娘に戻れる場所。そして、だからこそ、私はそこで色々なことを学べたのだと今になって思います。関西の酒場ライターであるバッキー井上さんは次のようにカウンターの魅力を語っています。

「ひとりでいるのは気楽だけれど時にさみしい。でも街にはカウンターがあってくれるので、さみしくなったらそこへ随意に行くことができる。…そのうちにひとりの人生だけれどひとりではなくなるような気になってくる」(バッキー井上、p59)

あいかわらず私は一人でカウンターに飲みに行きます。むしろカウンターに座るときは一人がいい。そこで色んなものを下ろして、小娘のときからさして変わっていない自分に気づくのです。「あいっかわらずアホやなぁ」。ひさしぶりに訪れた木屋町(京都の繁華街です)のバーでそう言われることほど嬉しい瞬間はありません。

*参考文献


レイ・オルデンバーグ、2013年、『サードプレイス—コミュニティの核になる「とびきり居心地のよい場所」—』、みすず書房

バッキー井上、2009年、『たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯ってる。』、140B

マイク・モラスキー、2014年、『日本の居酒屋文化—赤提灯の魅力を探る—』、光文社新書



2018年3月19日月曜日

平成29年度 福岡大学人文学部 文化学科 学位記授与式が挙行されました

 平成30年3月19日、平成29年度福岡大学人文学部文化学科の学位記授与式が挙行されました。
 学科主任の浦上雅司先生より、学科の卒業生一人一人に学位記が授与されました。
 ご卒業されたみなさま、本当におめでとうございます。卒業生を支えて下さったすべての方々に心よりお礼を申し上げます。
 夜には会場を移して卒業記念パーティが行われました。
 卒業したみなさんの将来が、希望と幸福に満ちたものでありますように。












2018年3月7日水曜日

平成30年度 文化学演習所属希望調査について(再掲)

文化学科学生各位

《重要》平成30年度 文化学演習所属希望調査について(再掲)


◆平成30年度 新2年生(LC17台)・再履修者各位
 平成30年度の文化学演習Ⅰ、文化学演習Ⅱの所属希望について、下記の要領で提出して下さい。

◆平成30年度 新3年生(LC16台)・新4年生(LC15台)・再履修者各位
 平成30年度の文化学演習ⅢⅣ、文化学演習ⅤⅥの所属希望について、下記の要領で提出して下さい。

  1. 演習Ⅰ・Ⅱ(LC17台および再履修者)については、配布された「演習所属希望調査票」を前期と後期で各1枚提出して下さい(再履修を除くと、各自2枚提出)。
  2. 演習Ⅲ-Ⅳ、Ⅴ-Ⅵ(LC16台・LC15台)については、配布された「演習所属希望調査票」を前・後期通じて合計1枚提出してください(再履修を除くと、各自1枚提出)。ただし、再履修の場合は1科目(半期)ごとに1枚提出してください。
  3. 提出先は文系センター棟低層棟1階のレポート提出ボックスです(下記案内図参照)。
  4. 提出期間は 平成30年3月16日(金)~19日(月) 16:50  <厳守> です。提出がない場合や期限に遅れた場合は、教務・入試連絡委員が所属を決定します。 ※何らかの事情で上記の期間中に提出できない場合は、事前に教務・入試連絡委員(小笠原か本多)へ相談して下さい。
  5. 決定した演習の所属は、3月22日(木)の9時までにFUポータルと人文学部掲示板で発表します。
  6. 演習所属に関する問い合わせは、文化学科の教務・入試連絡委員 小笠原か本多まで。

※注意事項
  1. 演習ⅢとⅣ、ⅤとⅥは前期と後期で同一教員の演習に所属することになります。
  2. 演習の所属は原則として本人の希望に基づいて決定します。ただし、希望人数が定員を超える場合は、平成29年度の成績に基づいて調整します。
  3. 各演習の内容については、3月上旬以降にFUポータルでシラバスを閲覧することができます。『文化学科 教員紹介』も参考にして下さい。
  4. 登録制限科目を履修する場合、所属を希望する演習の開講曜日・時限と重複しないように注意してください。
  5. 学芸員を志望者する3年生 (LC16台)は、必修の「博物館資料保存論」(火曜5限<前期>)が、火曜5限<前期>の文化学演習Ⅲと重なっています。学芸員必修科目を履修する場合、火曜5限の文化学演習Ⅲ・Ⅳは履修できませんので注意して下さい。
  6. 再履修が必要な場合、必要な用紙を別途用意し、「再履修」欄に必要事項を記入して提出してください。
  7. 「演習所属希望調査票」が手元にない場合は下記からダウンロードしてください。文化学科のFUポータルからもダウンロードできます。ダウンロードした用紙は配布したものと色が違う場合がありますが構いません。






平成29年度提出の卒業論文題目一覧


 平成29年度提出の卒業論文題目一覧をお届けします。末尾に卒業論文関係の記事も載せていますので、そちらもぜひご覧下さい。


平成29年度提出の卒業論文題目一覧

大上 渉 准教授(犯罪心理学)
・事故と血液型との関連性からみるパーソナリティ
・行動的・パーソナリティ的指標に基づいた趣味的活動の量的類型化
・グリコ・森永事件の犯行声明文について―テキストマイニングを用いて―
・毒物を用いた殺人事件の犯行特徴と犯人特徴について

佐藤基治 教授(認知心理学)
・あした、なに着ていく?
・低音では時計が遅れる 速さは時計を遅くする

一言英文 講師(感情心理学、比較文化心理学)
・思春期の自閉症児を対象とした社会的交流活動と幸福感に関する心理学的研究
・日本の文化は個人主義化しているのか


2)芸術学・美術史
植野健造 教授(日本の美術)
・花鳥画~伊藤若冲と円山応挙~
・仏像の美~千手観音像について~

浦上雅司 教授(西洋の美術)
・ウェス・アンダーソン監督の箱庭的世界観について
・近代建築の日本における受容 ル・コルビュジェと前川國男を通して
・シャガールとステンドグラス―ザンクト・シュテファン教会を中心に―


白川琢磨 教授(宗教人類学)
・太宰府の観光と信仰―文化資源としての重層性―
・日本人の宗教観の独自性に関する一考察
・宗像における神と仏

宮岡真央子 教授(文化人類学)
・化粧におけるジェンダー
・日本人の遺体観


平井靖史 教授(近現代フランス哲学)
・タイムトラベルの可能性
・人工知能の哲学

・なぜダメ男製造機系女子がうまれるのか?
・これからの日本における家族の役割について


岸根敏幸 教授(日本の神話と宗教、仏教、インド哲学)
・古事記神話における統治者の正統性について―アマノオシホミミの位置づけ
・「千と千尋の神隠し」における神々


磯田則彦 教授(人口地理学)
・私たちはなぜファッションを楽しむのか



2018年3月2日金曜日

拝観料とは何か?観光寺院とは何か?(藤村健一先生)

 平成29年度第14回目の「教員記事」をお届けします。地理学の藤村健一先生です。今回は、京都や奈良、鎌倉の寺院で拝観料の値上げが相次いでいることを受けて、観光寺院には宗教空間、観光施設、文化財の3つの側面があり、しかしその相互関係は必ずしも簡単ではないことを指摘されています。



拝観料とは何か?観光寺院とは何か?
   
     藤村健一(地理学

 昨年某日、朝日新聞大阪本社の岡田匠記者から取材依頼の連絡が入った。岡田記者とは一面識もなかったので、何事かと思いながら依頼書を読んだ。これによれば最近、京都・奈良や鎌倉の寺院で拝観料の値上げが相次いでいるとのこと。ついては「藤村先生に拝観料について、色々と教えて頂きたい」と書かれていた。

 私は2016年、「京都の拝観寺院の性格をめぐる諸問題とその歴史的経緯」(『立命館文学』645)という論文を書いたので、たぶん記者がこれを読んで依頼してこられたのだろうと考えた。けれども、“拝観料の専門家”だと思われていたとは意外だった。

 たしかに当時は観光寺院(拝観寺院)について調べていて、同年には「上海における仏教の観光寺院の空間構造・性格・拝観」(『E-journal GEO』11-1)という論文も書いた。しかし、自分の専攻分野はあくまでも宗教地理学だ(と思っている)。宗教地理学では、宗教に関わる空間の構造・意味・変化などについて明らかにする。そのため、これらの論文では、観光寺院の建物配置や、人々の観光寺院に対する意味づけ(イメージ)、歴史などを分析した。拝観料についてもこの中で触れているが、私自身、別段拝観料に詳しい訳ではないし、最近の値上げについてもよく知らない。岡田記者にはそのようにお伝えしたが、結局、求めに応じて私見を述べさせてもらった。その内容は、昨年11月14日の『朝日新聞』朝刊記事(岡田匠「大寺院の拝観料 相次ぐ値上げ」)の中で、私のコメントとして掲載された。

 ただ考えてみると、拝観料を専門としている研究者はたぶんいない。これに関する既往研究も僅かしかない。だから、この問題についてコメントできる者が私くらいしか見当たらなかったのだろう。「鳥なき里のこうもり」の心境である。

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 しかし、京都・奈良などの有名寺院を見るには拝観料が必要だから、支払ったことがある人は多いはずだ。また京都では1980年代、拝観料に上乗せする「古都保存協力税(古都税)」が社会問題になった(88年廃止)。最近でも、朝日報道以降、『読売』(「社説」2017年11月26日朝刊)や『日経』(「拝観料 相次ぎ値上げ」2018年1月11日朝刊)など各紙が相次いで拝観料の値上げ問題を取り上げている。にもかかわらず、仏教学や観光学などの関連学界では(古都税問題が起きた80年代を除いて)拝観料が注目を集めることはない。その背景には、拝観料の性格のあいまいさがあるとみられる。

 朝日記事の中で、私は「拝観料には宗教行為のお布施と、文化財を見ることへの対価の両方がある」とコメントした。拝観料は、拝観者の大多数を占める観光客にとっては、文化財の入場・見物のための定額料金である。一方、寺院側は建前ではそれを拝観者の自発的な寄進(お布施)だと捉えている。とはいえ、不特定多数の拝観者(観光客)に対する教化に熱心な寺院は少ない。それゆえ、これを観光産業の文脈のみで論じることはできないが、かといって仏教教学の立場で論じることも容易ではない(ただし、観光寺院が加盟する京都仏教会は、古都税問題以降、拝観行為の教義的な正当化に努めている)。

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 拝観料を徴収する観光寺院もまた、あいまいな存在である。同記事で、私は宗教地理学の立場から「観光寺院は宗教空間、観光施設、文化財の3つの側面がある」とコメントした。これらの側面(性格、意味)については『立命館文学』の拙稿で詳述し、今年度の「文化地理学」の授業でも説明したが、ここではこれら3つの相互関係について手短に述べたい。

 「観光施設」というのは、観光産業や観光客の側からの意味づけである。観光産業はビジネスである以上、営利目的であり、観光客は支払う対価にみあったサービスを求める。しかし、観光寺院といえども教団や僧侶、信者(檀家)にとっては「宗教空間」であり、営利目的の施設ではないという認識がある。拝観料も、宗教活動に伴うお布施とされ非課税である。観光寺院の僧侶であっても、自分たちの寺が単なる観光施設とみなされることにはしばしば抵抗感をもっている。

 このように、「宗教空間」と「観光施設」の側面は、あまりしっくりいかない関係にある。そこで観光寺院としては、不特定多数の観光客に拝観させることを教義的に正当化する必要が生じる。朝日の記事には「山川草木すべてに仏があり、境内に入れば宗教心を感じる。拝観は宗教行為だ」という清水寺幹部の声が紹介されているが、これはその一例といえる。

 一方、多くの寺院では、お堂や仏像などが「文化財」に指定されることに対し、さほど抵抗感をもっていない。しかし「文化財」は行政が選定するものなので、「文化財」と「宗教空間」の関係は政教関係の文脈で捉えることもできる。憲法の政教分離原則のもと、両者の関係は潜在的に対立要素をはらんでいるともいえよう。

 これらの関係に比べれば、「観光施設」と「文化財」の関係は親和的である。観光施設に「文化財」という公的なお墨付きが与えられれば、集客力が向上する。文化財保護を担当する行政機関としても、観光を通じて文化財への国民の理解が進むことが期待できる。しかも、昨年3月に閣議決定された『観光立国推進基本計画』には、文化財を観光振興に積極的に活用していく政府方針が明示されている。しかしその翌月、山本幸三・地方創生担当大臣が「観光マインドがない学芸員はがんだ」という趣旨の発言を行った際には、文化財保護を担う学芸員から反発の声が上がった(佐藤丈一・岸達也「学芸員 怒り心頭」『毎日新聞』2017年4月20日朝刊)。

 このように、観光寺院の3つの側面は、宗教界、観光業界(観光客)、行政の関係者が、それぞれ異なる立場から寺院を意味づけた結果として生じている。同時に複数の側面を併せもつがゆえに、「観光寺院」はあいまいでどことなく違和感を抱かせる概念となっている。

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 さきほど、「宗教空間」と「観光施設」の関係はしっくりいかないと述べた。それでは、「宗教」と「観光」の関係はどうだろうか?

 宗教学者の岡本亮輔氏は、2015年の著書『聖地巡礼』(中公新書)の「序章」で、両者の関係の変化を次のように分析した。


“近代以降は、聖地巡礼と観光はひとまず別の現象として語られてきた。”
“そして場合によっては、巡礼(者)と観光(客)は対立するものとしてとらえられている。”
“ただ、その様相は、現在また変わろうとしている。”
“現在起きているのは宗教と観光の融合である。” (下線引用者)


 さらに「第3章 世界遺産と聖地」の中で、現在の両者の関係を次のように評価した。


“これは単に宗教文化が観光用の商品として加工され、販売されているということではない。宗教と観光が融合しながら、従来とは異なる仕方で互いを位置づけ直し、新しい距離感を持って存在し始めているのである。”
“こうした状況においては、世界文化遺産制度は、宗教が社会の中に新たな位置取りをするための重要なルートになっている。世俗の基準と評価を意識しながら、宗教は、見るに値すべき文化として再び価値を与えられているのである。” (下線引用者)


 一方で岡本氏は今年2月、講談社のウェブサイト「現代ビジネス」に「日本で急速に進む『宗教の観光利用』の危うさに気づいていますか」という論文を発表した。この中では近年、日本で宗教の観光資源化が目立っており、自治体と宗教法人の「政教連携」によってその促進が企図されている現状を紹介したうえで、次のように懸念を示している。


“神社仏閣は歴史的に地域の核となってきた場合が多く、有力な観光資源になりうる。そして現在、観光も地域全体で取り組むべき重要課題とみなされるようになっている。”
“つまり、宗教と観光が一体となって地域を動員する形が生まれやすくなっているのだ。”
“しかし、筆者はすぐに軍靴の音が聞こえてくるタイプではないつもりだが、政教分離という近代国家の基本原則が観光化という意外な文脈でなし崩しに侵されることには注意を払う必要があると考える。” (下線引用者)


 これを読むと、やはり宗教と観光の関係は簡単ではないとあらためて感じる。

 結局のところ、聖地や寺院、神社などの宗教的な空間をめぐって、宗教界・観光業界・行政が、互いの立場の違いに配慮しつつ、一定の距離を置いて関わるのが望ましいといえるだろう。