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2017年12月29日金曜日

知的に自由であるということ(平井靖史先生)

 平成29年度第12回目、今年最後の「教員記事」をお届けします。哲学の平井靖史先生です。今回は、平井先生が代表を務められた国際研究プロジェクトPBJ (日本ベルクソン・プロジェクト Project Bergson in Japan)について、マネジメントのご苦労と、その苦労を大きく上回る他では得難い知的な歓びと自由について熱く語られています。



知的に自由であるということ
   
     平井靖史(哲学

 2015年から2017年までの三年間、平井はとある国際研究プロジェクトの代表を務めました。文科省の科学研究費というところから財源をもらって、一年に一度、合計三回の国際シンポジウムを企画・運営・出版するという大きなお仕事のとりまとめ役と言うと立派に聞こえますが、まあやっていることは発表者に登壇を打診したり、皆さんの出張の書類作ったり、ホームページ作ったり、開催にかんする事務手続きなどをする、雑用が大半です。でも、なかなか得がたい経験で、そこからあらためて学ぶことも多くあったので、ご報告がてら少しお話しします。

図1 シンポジウムのポスター

図2 論集として出版
 まず、書類がびっくりするくらい多いです。例えば国内の他の大学からも先生をお呼びします。すると、その先生自身の代理出張手続きをこちらがするのですが、それだけでなく、福岡大学の人文学部長から、その先生の大学の所属部長宛てにその先生を出張させることを許可して下さいという依頼の文書を作って、さらに、その先生を出張させることを向こうの所属部長がうちの学部長に許可しますよと返事をする承諾の文書も僕が作り、先の依頼文書と一緒に送ってそれにはんこを押して返してもらいます。ん?違うか、うちの学部長がじゃなくて向こうの所属部長がその先生を出張させるように命令してくれるようにうちの学部長が依頼をする(ように僕が学部長に依頼する)のだから、それに対して承諾するということは、向こうの所属部長にしてみれば、自分が自分のところの先生に出張命令を出すことを依頼してくることに対して許可を出していることになる(命令させるようにお願いしてもいいよ?)…のかな?あーもう分からんし!ちなみに返信用封筒の切手貼りと宛名書きも僕がやります。侘びしくなんてないです。全然…。

 会場のアルバイトの皆さんには事前登録・勤務表・振込などの書類を人数分(16〜18名/年)用意します。シンポジウムは4日間に及び、外国人・日本人の参加者一人一人でスケジュールが違い、ホテルの予約や移動の計算も複雑を極めます。一年目はもうこれらの事務処理にやられて完全にグロッキーでした(笑)。自分も発表するんです。なんとかこなせたのは同じプロジェクトの先生方や福大の優秀な事務の方々のサポートのおかげ。

図3 シンポジウムの様子
 慣れない書類と電卓に無駄に時間かかる。自分の哲学の研究が進まない。苛立つ。一分も研究できないまま日が暮れる。なんか悲しくなる。でも、それはちゃんと報われたんです。

 ベルクソンの『物質と記憶』という書物には、〈心〉と〈時間〉の謎を解き明かすためのアイデアがモリモリに詰め込まれています。その意味は、伝統的な「フランス哲学」の範囲に留まるものではなくて、近年進展の著しい「意識の科学」や分析系の「心の哲学」に深く関係しています。この本を長らく研究対象にしてきた僕にはそのことは分かっていましたが、これら全ての分野を一人で網羅することは到底不可能です。だから今回PBJ(日本ベルクソン・プロジェクト)の代表を引き継ぎ、『物質と記憶』について集中的な協働研究の采配役を任されたことは、ほんとうに光栄であると同時にまさにうってつけのタイミングだったのです。

 今回、ベルクソンの学会なのに発表者のほとんどがベルクソン専門家でありません。しかも、海外についても国内についても非哲学の分野の方々は、書籍を通じて知っているだけでほぼ面識ゼロでした。中心的な論者となった英国の分析哲学者バリー・デイントンに、最初にメールを書いた日のことをよく覚えています。見知らぬ日本人から突然ヘタクソな英語でメールが来て、あなたの説はベルクソン的だからベルクソン読め、そして発表しろと言われ、あれこれ注文されたにもかかわらず、快く引き受けて、来日し、初めてのベルクソン論を仕上げてくれました(その後彼は毎年参加してくれています)。ゲーム人工知能の三宅陽一郎さんとは渋谷の貸し会議室で初めて待ち合わせして、神経科学者の太田宏之氏といきなり6時間ぶっ通しで夜まで議論したっけ。別な心理学の国際学会で知り合った社会心理学者スティーヴン・D・ブラウン。初対面なのにイギリスやイスタンブールからお土産を持ってきてくれたデイヴィッド・クレプスとジャン=リュック・プチ、お別れの夜に白くなってた僕にあついハグをしてくれたアメリカのマイケル・R・ケリー。京都や大阪に移動した日は、あてもなく寺を訪ね、みんなでたこ焼きを一緒に食べたのもよい思い出です。

図4 議論の続き
 やっぱり学問ってすばらしいなって思いませんか。謝礼もありません、それどころか、こちらの予算が限られた中、多くの人が旅費を自前で出してくれてるんです。本には執筆料も印税もありません。ただ働きですよ?なぜ、そんなことが起こるのでしょう?

 それはみな、ある日、見も知らぬ研究者からメールボックスに届いた、純粋に学問的な問題提起から始まったのです。それに共感して予定を調整し参加を決め、もうテーマは暖まっているから会場で出会ったその瞬間にはガチの議論です。初対面とか関係なし。お互い発表を持ち寄って、徹底的にやり合って、飲み語らい、数ヶ月後には討議を踏まえた論文に仕上げ、それを翻訳し、本になるまで、そしてその後も、ただその純粋に学問的な問題だけが、のべ37人の発表者と18名の特定質問者を導きつづけたのです。人間ってすごい。

 そんな知的な歓びと自由を目の当たりにできるのなら、書類くらい書きますってば。書かせて下さいお願いします(涙目)。



2017年12月14日木曜日

忘年会に、いくべきではない理由(林 誓雄先生)

 前回から少し間が空きましたが、平成29年度第11回目の「教員記事」をお届けします。哲学の林 誓雄先生です。今回は、暴走列車や池で溺れる子どもの話を使った思考実験を手がかりに、わかりやすくかつ楽しく、貧しい国や地域の人たちに対する豊かな日本に住む私たちの果たすべき義務の問題を考察されています。



忘年会に、いくべきではない理由
   
     林 誓雄(哲学


ボブはもうすぐ定年を迎える。彼は、ブガッティという非常に珍しく高価なクラシックカーに自分の貯金の大半をつぎ込んだが、その車に保険をかけることは済んでいない。ブガッティは彼の自慢の種である。この車を運転し、きれいにすることによって得られる快楽に加えて、ボブはこの車の市場価値が上がっているため、この車をいつでも売って引退後も快適に暮らせることを知っている。ある日ボブがドライブに出かけたとき、彼はブガッティをもう使用されていない鉄道の側線の終端近くに停めて、線路に沿って散歩した。そうしていると、誰も乗っていない暴走列車が線路の向こうからやってくるのに気付いた。線路のずっと先をみると、線路の上で夢中になって遊んでいるように見える子どもの小さな姿が目に入った。その子どもは暴走列車に気づいておらず、大きな危険が迫っている。ボブには列車を止めることはできず、まだ子どもはずっと遠くにいるため、大声で叫んで危険を知らせることもできない。しかし、彼は切り替えスイッチを入れることにより、列車を彼のブガッティが停車している側線に導き入れることができる。そうすれば誰も死ぬことはない———しかし、側線の終端にある防御壁は破損しているため、列車は彼のブガッティを破壊するであろう。(シンガー [2014] pp. 15-16)


 倫理学では、暴走列車(トロッコ/ トロリー)を使った思考実験が数多く提案されている。基本的なものとしては、暴走列車を放っておくと5人が死ぬことになる一方、自分の目の前にある切り替え線のレバーを切れば、5人は救われるが別の1人が死ぬことになる。さぁ、あなたはレバーを切る? それとも切らない? というやつだ。

 さて、今回は車か子どもか、である。ちなみに、ここで登場する高級車ブガッティは、先日とある雑誌を読んでいたときに見かける機会があり、目が飛び出かけたのだが、なんと3億円もするらしい。もちろん、3億円払えばそれで済む話でもなく、維持費も年間数千万はかかるとのこと。いったい、どこにそんなお金持ちがいるのやら。(そういえば、高級車アルファ・ロメオに乗ってらっしゃる先生が、いたような気がするが…)

 と、そんな話をしているのではない。車か子どもか、である。悩ましい問題である。細かな条件について詰めておくと、この暴走列車の事例では、子どもの死は必然的なものではない。もしかするとその子どもは、列車が迫っていることにギリギリで気がついて、線路から跳びのき、死なないかもしれない。だが、子どもが列車に気づいても、腰を抜かして動けなくなり、死んでしまうかもしれない。つまり、子どもの死は、不確実なものである。

 他方で、車の方はというと、ボブがその車の方に向かうよう線路のスイッチを入れると、その高級車は(必然的に)パァになる。しかし、だからといって、ボブは、自分の住む場所を失ったり、借金を背負うことになったりするわけではない。ブガッティの支払いは済んでおり、また、自宅も(それが大豪邸かどうかは不明だが)確保されている。こうした条件下で、それではボブは、あるいはわれわれがボブの立場だったとしたら、どちらを選ぶべきか。車なのか、子どもなのか。

 この事例を「紹介」しているピーター・シンガーによると(この事例自体は、ピーター・アンガーという別の哲学者による創作である)、一般的に考えて多くの人は、仮にボブが切り替えスイッチを入れずに、車に被害が及ばないようにしたのだとしたら、彼の行為は誤っていたと答えるという。なぜなら、「ボブは切り替えスイッチを入れて自分が一番大切にしている高価な所有物を破壊し、それによって経済的に安定した老後を暮らすという希望を犠牲にすることを選ばなかったからだ」(シンガー [2014] pp. 16-17)。なるほど、われわれの直観からすると、ボブは、自分の経済的安定よりも、未来ある子どもの命を、たとえ暴走列車によるその子の死が必然的なものではないとしても、優先して守るべきであるような気がする。そしてそれは、「自分たちは困っている人を助けるべきであり、少なくとも彼らが自分の目に入るところにいて、また彼らを助けられるのは自分だけである場合には、助けるべきである」という、われわれが普通に持っている信念によって、支えられるものであるように思える。そのため、ブガッティを失うことは、無辜の命が失われることと同じくらい重大な問題だ、などと主張するのは困難であるし、そのように主張する人間は、どこか性根が腐っている、あるいは不道徳だと非難されても仕方がないように見える。

 しかしながら、「実はこれは、世界の貧困問題について考えてもらうための架空の事例なんですよ」とタネ明かしをされて、そして「ブガッティよりも無辜な子どもの命の方が大事であることを認めるのなら、あなたが余分に持っているお金すべてを、アフリカで今にも死にそうになっているかわいそうな子どもたちのために寄付しましょう」と言われると、われわれの多くは途端に、先ほどの考えを撤回する方へと傾くように思われる。あるいは、次のように言われても、われわれの多くは、すぐに説得されようとはしないように見えるのである。


「もしあなたに、何か悪いことが生じるのを防ぐことができ、しかもほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることなくそうすることができるのであれば、そのように行為しないことは間違っていると、あなたは認めたのでしょう。そうであるなら、世界には何百万もの、死が迫っている状況下にある子どもたちがいます。遠すぎてわからないというなら、ほら、そのひどい状況を、こうやってネット中継して、あなたにお見せすることができます。世界がこのようであるにもかかわらず、それを無視して、自分の快適な老後のために貯蓄をすることは、道徳的に間違っています。だから、余分なお金を老後の貯蓄なんかにはまわさずに、これ以上寄付すると、子どもの命とほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることになるぐらい貧しくなるまで、あなたは寄付をするべきです。」


 このように言われると、われわれは途端に及び腰になり、この寄付を求める議論には、どこか不可解なところがあるのではないかと思うようになる。(この議論が不可解だと思わない人は、どうぞ老後の蓄えをすべて、慈善団体に寄付していただければよい。)

 この議論が不可解であり、間違っていると思われる理由のひとつとして、ボブとわれわれとの間の「違い」を挙げることができるかもしれない。ボブは、3億円もの車を購入し、それを維持できるほどの大金持ちだ。他方で、われわれ一般の人間は、例えば日本の世帯平均所得で考えるなら、年間約546万円の稼ぎしかない(厚生労働省「各種世帯の所得等の状況」)。このように、われわれ一般人とボブとの間には、その収入や貯蓄の額に大きな差がある。だから、ボブにはブガッティを犠牲にする理由がある一方で、われわれ一般人は、日々慎ましい生活をするほどの余力しかないのだから、われわれの方には、寄付をするべき義務は発生しないように思われる。

 だが、シンガーはそういう言い訳(?)を許してくれない。われわれ一般人にも、やはり寄付を求めてくる。それは、どの程度の寄付なのかというと、「これ以上寄付をすれば、自分が寄付することで防ぎうる悪い事柄とほぼ同じくらい重要な何かが犠牲になってしまうところまで」(シンガー [2014] pp. 187)である。無辜な子どもの命が失われることと同じくらい重要な何かが犠牲になるまでは、ひたすら寄付しなければならないというのだ。こりゃあ、いくらなんでも大変だ。

 いまいち、寄付を進んでする気持ちになれない私は、次のように考えてみるのである。すなわち、毎年きちんと税金を支払っている私は、すでにODA(政府開発援助)の形で、世界の貧困をなくすために寄付していることになっているのではないのか。そうであるなら、一日本国民として、世界に対して果たすべき義務を、しかも公平に負担されるべき義務を、しっかり果たしているのではないか。そして、私には、自分が負うべき公平な負担以上のことをする理由は、もはやないのではないか、と。

 しかし、この「公平な負担」論に対しては、次の事例を考えてみよ、とシンガーは切り返してくる。


あなたが浅い池のそばを歩いていると、10人の子どもが池に落ちて助けを必要としているのを目にする。辺りを見回すと、親も保護者もいないが、自分と同様、たった今池のそばに来て溺れている子どもたちを見つけ、あなたと同じくらい子どもを助けられる立場にいる大人が9名いることに気付く。そこであなたは急いで水の中に入って1人の子どもをすくいあげ、池から離れた安全なところに連れて行った。あなたは他の大人たちも同様のことをして子どもたちは全員無事だろうと思って池の方を見ると、驚いたことに4名の大人がそれぞれ子どもを1人ずつ助けたのに対し、残りの5名はそのまま立ち去ってしまったことに気付く。池にはまだ5人の子どもがいて、明らかに溺れそうになっている。(シンガー [2014] pp. 192-193)


 この事例における「あなた」は、放っておくと5人の子供が溺れて死ぬと知りながら、「公平な負担」を理由にして、1人の子どもを救っただけで、救助をやめてもよいものだろうか。シンガーの答えは「ノー」である。彼は、他の人々が自分の公平な負担を果たしていないという事実は、「あなた」が子どもを容易に助けられるにもかかわらずその子どもを見殺しにするのを正当化する十分な理由にはならないと断じる。そしてさらにシンガーは、自分の公平な負担以上のことをするのを原則的に断る(私のような)人間は、公平さをフェティシズム(盲目的な崇拝)の対象にしているのであり、一種の性格のおぞましさを露呈しているのだ、とまで言う(シンガー [2014] pp. 194-195)。

 このように、仮にシンガーの言うことが妥当であるならば、私の性根は腐っている、ということになる。すなわち、これまでやっていたような、忘年会と称して、ちょっとお高めのお店にて、同僚たちとともに、この一年、研究や教育、そして学内の仕事を本当によく頑張ったことを労い合うだとか、今年もお世話になった自分の師匠に御礼の気持ちとして、ちょっといいお酒を贈って差し上げるだとか、ゼミ生たちとクリスマスパーリィーを開催して、おおかた奢ってやるだとか、そういったことに自分のお金を費やし、他方で寄付をまったくしないでいると、それは溺れて死にそうな子どもを見殺しにすることと同じだと言われ、自分の性根が腐っていることを示すことになるのである。私は、自分の性根を叩き直すべきなのだ。私は、心を入れ替えて、これまでそういった享楽に費やしてきたお金をすべて、世界の貧しい地域の子どもの命を救うために、寄付するべきなのだ。自分の気前のよさを、周りの比較的恵まれた人々にだけ振り向けるのではなく、それを恵まれない世界の人々へと向けるべきなのだ。貧しい人々が直面している多くの問題に、恒久的な解決を与えることができるまで、われわれは、寄付をし続けなければならないのだ……。

 うーむ、シンガーの言うことはわかるのだけれど、やはりどこか、何か、しっくりこない。これはいったい、何がどうおかしいのだろう。シンガーの議論のどこかに、何かおかしい点があるのか、それともやはり、私に徳が欠けているだけなのか。性根が腐りきっている私とは違い、私の出身研究室の某先輩(今回取り上げているシンガーの本の訳者の1人)は、毎月、国境なき医師団に寄付をしていらっしゃる。大変素晴らしい先輩である。腐った自分の性根を叩き直すために、今度、その先輩の爪の垢を譲ってもらい、煎じて飲めば、寄付できるようになるのかなぁ…。

 あれ? そういえば、ブガッティの事例でも、池で溺れている事例でも、どうして子どもたちの親や保護者が、どこにも見当たらないのだろう。本来、子どもたちの命について、その責任を負うべき親や保護者たちは、いったいぜんたい、どこで何をやっているのだろう。貧困な国や地域の大人たちは、後先考えずに、子どもを好き勝手に作るだけ作っておいて、貧しさのためにその子どもたちを不幸にし、そして、その子どもたちを死へと追いやっているとも言える。仮にも、この問題の「恒久的な解決」を目指すのならば、まずはその構造から、根本的に変えていくべきである。「かわいそうな子ども」を、これ以上、生み出すべきではない。もちろん、貧しさということが、子どもをかわいそうな状態にするのであれば、その貧しさを改善するために、われわれ裕福な国の人たちが寄付をするのも一つの方策かもしれない(そしてその方策を強く推し進めるのがシンガーである)。しかし、それとは別の手段もありえる。それは、そうした国や地域の大人たちが、これ以上子どもを持たないようにするのである。子どもたちが生み出され、存在してしまうからこそ、生み出され、存在してしまった子どもたちが苦しんだり死んでしまったりするのである。逆に、子どもたちが生み出されず、存在しなかったのだとしたら、そうした苦しみや悲しみは、この世に発生しないことになる。そして、こちらの手段の方が、シンガーのやり方よりも、「恒久的な解決」に資するものだと思われる。

 最近、デイヴィッド・ベネターという哲学者が主張する「反出生主義(anti-natalism)」という考え方に、注目が集まっている。われわれ人間が「存在する」ことは、「存在しない」ことに比べて、常に害悪である。それゆえ、害悪をこれ以上、この世の中に増やさないために、われわれには子どもを作らない義務がある、というものである。この主張を支える議論は、極めて難解なものではあるけれども(詳しく知りたい方は、ベネター『生まれてこない方が良かった』を読んでみてほしい)、仮にこの議論・主張が妥当だとするならば、貧困のために子どもの命が危機にさらされるような国や地域の大人に対して、避妊や(初期段階の)中絶を奨励することが、道徳的に正しいことになる。そうだ、それがよい。今後、子どもたちが生み出されない・存在しないのであるなら、彼らに関する悲しみや苦しみがこの世に生み出されることはなくなる。子どもたちが、死ぬこともなくなる。そしてそのことに、われわれは思い悩むこともなくなるのである。

 線路の上で遊ぶ子どもにも、池で溺れている子どもたちにも、これからは出会うことがなくなる。したがって、命の危険にさらされている子どもを救う義務を、われわれが負うこともなくなるのであり、われわれは寄付をしなくてよくなるのであり、自分で稼いだお金を、これまで通り、自分の楽しみに、あるいは自分の仲間との楽しみに、惜しみなく使うことができるようになるのである……。

 さて、このように、性根が腐りきっている私は、なんともうまい結論を引き出したもんだと思われるかもしれない。すなわち、貧しい国や地域の人たちが子どもをもたないようにしてもらうことで、自分が寄付をする義務を消し去り、自分のお金を自分の使いたいように使える状態にしたのだ、と。確かに、私の寄付をする義務は、ベネターの「反出生主義」を使うことで、消し去ることができるのかもしれない。しかし、「反出生主義」を支持することは、次のような反直観的な結論にもつながってしまうことを覚悟しなければならない。

 「反出生主義」は当然のことながら、人間であれば誰にも当てはまるものである。すなわち、「われわれは皆、子どもをもたない(これ以上もうけない)義務をもつ」と言われるのである。なぜなら、われわれ人間が「存在する」ことは、「存在しない」ことに比べて、常に害悪であり、人間を存在してしまうようにすること(=子どもをもうけること)は、害悪をこの世に生み出すことに寄与することになるからである。(ただし、「反出生主義」においても、「死」は悪いものなので、すでに存在してしまっている人間については、なるべく苦しみや悲しみを受けることなく生きるよう努力すべきとされる。)かくして、「反出生主義」にしたがうと、最終的にわれわれ人類は、絶滅することになる。そしてそれこそが、道徳的に目指すべき状態なのだと言われるのである……。

 さて、どうしたものか。やはり私は、忘年会なんぞには行かずに、あるいは今後は贅沢することを慎んで、余ったお金を貧しい国や地域の人たちのために寄付しながら生きていくべきなのか(おそらく、それが正解)。それとも、忘年会に行って(なんなら新年会にも行って)、自分のお金を好きなように使いながら、それでいて、人類の絶滅を導くように、生きていくのか。どちらが、正しい道なのか…(多分前者)。寄付をするのか、絶滅か……(だから、前者だって)。考えるのも疲れたので、とりあえず、酒でも飲みに行こうかしら。


参考資料

  • 厚生労働省「平成28年国民生活基礎調査の概況 II 各種世帯の所得等の状況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa16/dl/03.pdf)(2017年12月14日閲覧)
  • デイヴィッド・ベネター [2017] 『生まれてこない方が良かった:存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宣義 訳、すずさわ書店
  • ピーター・シンガー [2014] 『あなたが救える命』児玉聡・石川涼子 訳、勁草書房


2017年11月30日木曜日

白川琢磨先生最終講義のお知らせ

文化学科の教員として長きにわたり教鞭をとられてきた文化人類学の白川琢磨先生が、来年3月で定年を迎えられキャンパスを去られます。

最後の講義は以下の日時、内容で予定されていますので、在学生の皆さん、卒業生の皆さん、ぜひお集まりください。


白川琢磨先生最終講義

日時:2018年1月11日(木)2限(10時40分~12時10分)

場所:福岡大学8号館823教室

講義科目:文化人類学B(総合教養科目)

テーマ:レヴィ=ストロースとエマニュエル・トッド

2017年11月28日火曜日

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内

 私たち教員は分野に応じていくつかの「研究チーム」を運営しています。
 お互いの研究などを持ち寄って、発表したり討議したりすることは、研究活動を進めていく上でとてもよい刺激になっています。
 下記の研究チーム発表会を開催いたしますので、学生の皆さんもふるってご参加下さい。今回は中村未来先生のご発表です。普段の授業での「教員としての顔」とは違う、「研究者としての顔」を見られるチャンスかもしれません。
 文化学科の皆さんは参加自由です。参加したからと言って発言の強制などもありませんので、お気軽に聴講してください。

「善と悪に関する思想的研究」研究チーム代表 平井靖史


領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」

平成29年度 第3回研究会

・日時:12月13日(水)、16:30-18:00

・場所:A613 教室

・提題者:中村未来先生

・題目:「中国古代における殺人観」



2017年11月26日日曜日

私の選んだ道(LC16台 大谷真夕さん)

 今年度13回目の学生記事をお届けします。LC16台の大谷真夕さんが、将来の夢や文化学科に進学した理由、現在の大学生活について紹介してくれました。



私の選んだ道


LC16台 大谷真夕

 みなさんこんにちは! 人文学部文化学科 2 年の大谷です。

 私には、憧れている先生のような高校教師になりたいという夢があります。

 このように考えるようになったのには理由があります。私は高校1・2年生まで漠然と、持ち前の明るさを活かして人と関わる仕事に就きたいと思っていたのですが、明確には決まっていませんでした。高校 2 年生の終わりごろ、知り合いの看護師から話を聞いたのをきっかけに看護師という仕事に興味を持ち、看護大学のオープン キャンパスに行ったり、本やネットで医療について調べたりしました。その一方で、自分に向いている仕事ってなんだろう? もしかしたら自分に向いている仕事、私にしかできない仕事がほかにもあるのではないか? そもそも向いているって何? と思っている自分もいました。

 高校3年生になり、看護の道に進むか、福岡大学へ進学するか迷っていた私に、担任の先生が親身になって進路相談に乗ってくださいました。看護大に通うOGの先輩と話す機会を設けてくださり、忙しいにもかかわらず放課後に残って、嫌な顔一つせず私の話を親身に聞いてくださる先生を間近で見ているうちに、教師という職業の魅力に気がつきました。私は日本史が好きだったので、高校の社会(地理歴史・公民)の先生になろうと思いました。はじめ、歴史が専門の歴史学科に入ろうかとも迷ったのですが、社会科の教師になったときに、外国と比較した日本文化や、哲学、心理学など、歴史だけではない色々なことを子供達に教えられる教師になりたいと思い、文化学科を受験することに決めました。そうと決めてからは、友達5、6人で日々放課後を使って励まし合いながら勉強しました。その結果、私が通っていたのが福岡大学附属若葉高校の「福大コース」だったことも幸いして、第一希望の文化学科に入学することができました。

高校時代の青春を共にしたテニス部の仲間。看護師になるために専門学校や看護大学に通っていたり、薬剤師を目指して宮崎の大学に通っていたりと、普段はそれぞれの場所で夢に向かって頑張っていますが、今でも長期休暇に入るとよく集まります。年をとってもずっと付き合っていきたいと思える存在です。

 私は入学当初、大学はカリキュラムを自分で組むことや、福岡大学は学生数も非常に多いことから、友達は多くできないと思っていました。しかし、文化学科は他学部や他学科に比べて学生数が100人程度と少なく、1年生から少人数のゼミがあったので、すぐに顔見知りになり仲良くなることができました。2年生では自分でゼミを選択することができるため、私は興味があった心理学を専攻し、佐藤基治先生や現在のゼミのメンバーと出会いました。メンバーは皆個性豊かで、パン屋でアルバイトをしている友達が持ってきてくれたパンをみんなで食べたりするほど、アットホームな雰囲気のゼミです。夏休みにゼミのみんなで集まってBBQをするほど仲がいいです。授業では、3人ずつのチームに分かれてまず実験テーマをきめ、E-Primeという心理学実験用のpcソフトを使いながらながら、それぞれの実験テーマに沿って実験を進めていきます。最終的には、各チームが自分たちが調べたことをパワーポイントを使って発表し、それに対して他のゼミ生は質問をなげかけ、発表者がそれに答えるという、とても活気のある授業でした。

佐藤ゼミの仲間たちと!
(主役の、みんな大好き佐藤先生は光で飛んでしまっていますが…笑)

 また、サークル活動では高校からしていたテニスを続けています。週に1、2回、仲間たちと思いっきり体を動かすのは、気分転換やストレス発散になり、とても楽しいです。たまにバイトが無い日は、先輩や同期とドライブに行ったりもして、充実した休日を過ごしています。

夏の大会で健闘した後のやりきった感…!

 私はボランティアサークルにも所属しています。障害を持ったお子さんとそのご家族が開催している泊りがけの勉強合宿に参加したり、養護施設の子ども達とレクレーションを楽しんだりします。子ども達はとても元気がよく、一緒になって遊ぶとかなりへとへとになるのですが、毎回パワーをもらいます。これらの活動は楽しいだけではなく、子ども達から学ぶことや気づかされることも多くあり、とても勉強になります。子どもが心を開いてくれた時や、懐いてくれた時は、本当になんともうれしい気持ちになります。

 文化に興味がある、社会科教員になりたい、という人はもちろん、自分が将来何をしたいか明確に決まっていない、広い視野を養いたい、いろんな角度から物事を考えられるようになりたい、と考えている皆さん。文化学科では、様々な分野を幅広く勉強することが出来ます。文化学科に入って興味のあるものを片端から学び、新しい自分を見つけてみませんか?

2017年11月20日月曜日

平成29年度 卒業論文発表会開催のお知らせ

下記の日程で、今年度の卒業論文発表会を開催します。

 日時 1月29日(月)13:00~16:00 ※開催時間は若干変更の可能性あり
 場所 文系センター棟15階

詳しい発表形式やプログラムなどについては、改めて後日、このブログ上で告知します。

四年生はもちろん、一年生から三年生の皆さんもぜひ会場へ足を運び、先輩方の研究成果を確認してみて下さい。

何か不明な点があれば、教務連絡委員の小笠原か本多まで。

卒業論文発表会関連記事
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 平成28年度卒業論文発表会が行われました
 卒業論文発表会に参加して

2017年11月18日土曜日

「時間が止まる」視覚現象の解明(LC16台 宗雲菜生さん)

 今年度12回目の学生記事をお届けします。LC16台の宗雲菜生さんが、所属している佐藤基治先生のゼミについて、自分たちで実際に行った実験の内容を中心に紹介してくれました。



「時間が止まる」視覚現象の解明


LC16台 宗雲菜生

 この記事では、佐藤基治先生のゼミについて取り上げたいと思います。

 佐藤先生のゼミでは、心理学についての理解を深めることが出来ます。

 心理学とは、人はどういった心境の時にどんな行動をするのか、身体はどう反応するのかという、心と行動、身体のメカニズムを解明していく学問です。

 その中でも佐藤先生は認知心理学を専攻されており、このゼミでは知覚、記憶、思考など人間の心的機能の研究をしています。

 ゼミでは、3人~4人で1グループを構成し、それぞれの興味のあるテーマを決めます。私たちのグループが興味を持ったのは「時間が止まる」というテーマです。「時間が止まる」現象の例として一番に挙げられるのは、ふと時計に目をやると動いているはずの秒針が普通より長い時間止まっているように感じる、というものです。これは「クロノスタシス(Chronostasis)」という錯覚現象で、対象から対象へ素早く視点を動かす「サッケード(Saccade)」という眼球運動が関係しているそうです。このテーマの研究をしようと決めた理由は、私も秒針が長い時間止まって見えた経験があり、その現象には心理的なわけがあるということに驚き、興味を待ち、それを知りたいと思ったからです。テーマが決まると、それを実験するにあたって、どのような背景があるのか、実験の目的は何か、どのような実験を行うのか、結果の処理の方法はどうするのか、そしてどのような結果が予測されるのかを、スライドにまとめ発表します。他のグループに発表を聞いてもらい、質問を受けたり、疑問点を聞いたりアドバイスをもらうなどして、研究のやり方を見直し、改善します。

 私たちのグループの実験は、被験者に、モニターの左上にあるX印を見ていてもらいます。数秒後にモニターの右下に「0」の数字が表示されます。表示された瞬間にサッケードをして「0」を見てもらい、「0」から「1」「2」「3」「4」とカウントアップされていく数字を見てもらうというものです。「1」「2」「3」「4」の数字が切り替わる間隔はぴったり1秒なのですが、「0」から「1」の間隔は0.8秒から1.2秒と様々なパターンを作りました。そして「0」から「1」の間隔が他の数字の間隔と比べて短いか、同じか、長いかを識別してもらいました。その結果、「0」から「1」の間隔を他の数字と同じ1秒にしたとき、1秒より長く感じている人が50%いました。なぜこのように実際より長く感じてしまうのかというと、対象から対象へと視点を移している間の風景は、私たちの脳内では無視しているため、視点を動かしている間にカウントされている数字を見てもそれを理解するのが遅れ、時間を普通より長く感じるそうです。

研究室ではパソコンなども使えます

 このようにして、このゼミでは、グループで考え、意見を出し合い、まとめて、1つのテーマについて理解を深めることが出来ます。そして、佐藤先生は、私たちの研究にとても協力的で様々な資料を用意してくださったり、心理学の研究室を開放してくださいます。そのため授業が無い時や、少し時間が空いたときなどには研究室で勉強をするなど有意義な時間を過ごすことが出来ます。また、研究に関係すること以外にも、佐藤先生から心理学に関する色々なお話を伺うことが出来ます。親しみやすい環境で心理学の学習・実験に携わることができるのが、佐藤先生のゼミの特徴であると思います。

空いた時間は課題などが出来ます

 私たちは日常の中で、心理的な現象を度々経験しています。それは、私たちが意識していないうちに起きているものもあれば、経験した後に不思議に思うことなど様々です。それらの身近な現象の原因は、心理学の実験をしてみなければければわからないので、興味がある方はぜひ文化学科の佐藤ゼミで認知心理学を専攻してみませんか。

2017年11月10日金曜日

私の空きコマの過ごし方―中央図書館の有効活用(LC16台 鍋島明莉さん)

 今年度11回目の学生記事をお届けします。LC16台の鍋島明莉さんが、中央図書館の有効活用法を紹介してくれました。



私の空きコマの過ごし方―中央図書館の有効活用


LC16台 鍋島明莉

 みなさんこんにちは! 文化学科2年生の鍋島です。私はこの1年余りの学生生活で学んだ、空きコマの有効活用の仕方について、まとめたいと思います。

 空きコマとは何でしょうか? 大学生は、時間割が決められている高校生までとは違い、自分で受けたい授業を決めて時間割を作成しています。その中で例えば1限と3限が授業で2限は授業が入っていないなどといった日があります。その2限の時間が空きコマになります。1週間の中で空きコマはたくさんあります。ここで授業が無いからといってぼんやり過ごすのではなく、福岡大学の広大な敷地の中にある便利な施設を使った有効な過ごし方について述べたいと思います。

 今回私は、中央図書館を使った空きコマ利用の仕方を紹介します。


 

 2012年7月に開館した新中央図書館は、大学の中央に位置しており、蔵所数は約126万冊を数え、収容能力の高い自動書庫を備えた西日本有数の大学図書館です。中央図書館は、空きコマを利用して一人で黙々と勉強したいときに、おススメの場所です。このように薦める理由は、勉強するスペースが学内で一番多くあるからです。学生が約2万人いる福岡大学ですが、定期試験前の混雑時でも学習机を確保できます。館内は、とても静かで温度も快適に設定されているため、本当に集中して勉強することが出来ます。私はよくここで、授業の予習や復習、宿題、各種の検定の勉強などをしています。


 また、図書館は一人で勉強する場所だけでなく、友達と教え合いながらの勉強や少人数で話し合いができるスペース(ラーニング・コモンズ)もあります。ここではゼミなどで発表の下準備などをしている人をよく見かけます。こちらのスペースでは声を出しても、一人で勉強をする人がいるスペースと少し離れているので邪魔になることはありません。


 図書館にはDVDを見ることが出来るコーナーもあります。勉強で疲れた頭を一旦リラックスさせたいときや気分転換をしたいときに利用してみてはいかがでしょうか? スタジオジブリなど有名な作品もたくさんそろっています。もちろん図書館ですので本を読むことも空きコマの有効な使い方だと思います。

 また、アルバイトをしている人は、アルバイトが終わって、夜に帰宅した後で勉強をする気分になれないことも多いかもしれません。実際に私もそのように思う日は沢山あります。しかし、私は空きコマを利用してその日の復習、次の日の予習を終わらせているため、夜更かしせずに規則正しく就寝し、翌日に頭がきちんと働いた状態で授業に臨むことができています。また、秘書検定が近い時期には、図書館を利用して勉強をしていました。他のどの場所でやるよりも集中することができましたので、無事に合格できました! 皆さんも、ぜひ空きコマを有効活用して、大学生活を充実させましょう!

2017年10月16日月曜日

エデンの園における死と永遠の命 -創世記二章四節B-3章24節の再検討-(LC15台 田中俊太朗さん)

 今年度10回目の学生記事をお届けします。LC15台の田中俊太朗さんが、6月7日に開催された、領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」の研究会への参加体験記を寄稿してくれました。



エデンの園における死と永遠の命

-創世記二章四節B-3章24節の再検討-

LC15台 田中俊太朗

 6月7日、A棟612号教室はジメジメとした梅雨の熱気とはまた別の、静かな情熱に包まれていました。何故なら、今年初の領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」による研究会が開かれていたからです。

 領域別研究チームとはその名の通り、先生方がそれぞれの研究分野に応じて作られた研究チームの事を指し、より深い研究へのきっかけとなる可能性を探る為、研究や関心事を持ち合い、討議や発表を通して交流する事を目的としています。

 そして今年初めての交流会が小笠原史樹先生の研究をテーマとして行われたのでした。

 皆さんは旧約聖書を読んだ事があるでしょうか?日本では余り馴染無いこの書は、キリスト教圏であるヨーロッパでは、重要な書物として西洋文化圏で1,2を争うほど有名なものです。そんな重要な本である旧約聖書は「創世期」という物語から始まります。世界を7日間で作った唯一神が、罪を犯した人間を楽園から追放するお話……それが創世期のあらすじです。

 今回小笠原先生が着目したのは、そんな創世期の中で「エデンの物語」と呼ばれる部分……蛇に騙された人間が禁断の果実を食べ、楽園を追放される……の謎に迫ったものです。

 エデンの物語に隠された「謎」、それは「どの様な死生観によって人は死ぬ定めになったのか」というものです。

 神が何故アダムを楽園から追放したのか、という疑問には2つの答えが比較的簡単に、矛盾しない領域で出ます。

 1つはアダムが神の命令に背き、善悪の知識の木からとって食べたため、罰として追放された、というもの。

 2つ目は、アダムが命の木からも取って食べて永遠の命を得てしまう事を防ぐ為、アダムを追放して命の木から遠ざけた、というものです。

では、死生観に置き換えるとどうでしょうか?

 1つ目は「死は、アダムの命令違反への罰である」つまり、人間が死ぬ事に否定的で、永遠の命に肯定的です。

 ですが、2つ目に目を向けると「人間は永遠に生きるべきではない」……人間が死ぬ定めにある事に肯定的で、永遠の命に対して否定的と取れてしまうのです。

 この矛盾に対して、どの様な解答があり得るのか、小笠原先生があらかじめ用意していた3つの解答を超えて、様々な角度から議論が出ました。

 禁断の果実を食べた事で、「生」という概念を得たのではないか、もっと単純に時の権力者に合わせた形で成立していただけではないのか、そもそもエデンは実際にある場所として扱われていたのか……様々な論点が時に脱線し、合流し、そこからまた別の解釈を試みる様は文化学科だからこそ成立するものだったと、僕は感じます。

 6時と言う時間の制限が来て、惜しまれながらその日は解散となりました。この日行った充実した議論は、間違いなく僕の糧になる。そんな確信と共に、僕は帰路に着きました。

2017年10月6日金曜日

文化学科のお昼ごはん事情(LC16台 丸山ひまわりさん)

 今年度9回目の学生記事をお届けします。学生のみなさんは、どんなランチタイムを過ごしているのか?福大の学食はどんな感じなのか?LC16台の丸山ひまわりさんが「文化学科のお昼ご飯事情」というタイトルで楽しいお昼の時間の様子を紹介してくれました。



学生文化学科のお昼ごはん事情
LC16台 丸山ひまわり

 こんにちは。文化学科2年の丸山ひまわりです。

 大学生になって自由に使える時間が増えたので、よく友達と美味しいものを食べに行くようになりました。食べるって幸せですよね!ということで、私はアンケートをもとに、文化学科のお昼ごはん事情を紹介していこうと思います。

 文化学科2年生のLINEグループ(93人)で、WEBアンケートへの協力を呼びかけたところ、63人(67.7%)が回答してくれました。このLINEグループには、文化学科2年生(98人)のほとんどが参加しています。

Q1.「学校でお昼に、なにをよく食べてる?」の回答は、




 手作りお弁当    15人(23.8%)
 買ったお弁当or学食 48人(76.2%)

 「一人暮らしでお弁当を作るのは、相当な負担になるから。」「大学生になって、親にお弁当を作ってもらうことがなくなった。」という人たちが多く、8割近い人が、買ったお弁当や学食を食べるという結果になりました。学内には、ボリューム満点の学食や、リーズナブルな売店がたくさんあるので利用者がとても多いです。

Q2.「お昼ごはん、どこで食べる?」





 1位は教室でした!

 学食は、お昼すごく混むので、授業が終わるとそのまま教室で食べたりします。
 同じ授業の人たちとわいわい食べるのがすごく楽しいです!

 2年生になって専門教科が増えて、文化学科の人たちとさらに仲が深まり、毎日学校がすごく楽しいです!文化学科は1学年100人もいないので、雰囲気がアットホームです!

A棟7階の教室
天気のいい日には、外でたべてみるのもおススメです♪

 福大おすすめ食堂ランキング TOP3は、

  1位 ひだまり
  2位 オアシス
  3位 第2食堂

でした!!!

 文系の学生は、理系の棟の近くの食堂は、あまり使わないので、このような結果になりました。
ひだまりは図書館の横にあって、落ち着いた雰囲気のあるおしゃれな食堂です♪

 日替わりランチからパン、売店まであります。福大メロンパンは、ひだまりの名物です!お昼はすごく混みます!ですが、お昼の時間帯以外は勉強したり、楽しくお菓子を食べながら雑談したり、ゆったりとした空間です☆

「木曜日の3限は空きコマなので、すいている時間に利用しています!」

 このように人それぞれ福大でお昼を楽しく過ごしています♪

 皆さんも福岡大学にきたら、楽しいお昼が待っていますよ~!!!

2017年10月1日日曜日

主語と述語(小林信行先生)

 平成29年度第10回目の「教員記事」をお届けします。哲学の小林信行先生です。今回は、主語と述語をテーマとして、日本語、外国語を問わず難しくてわからない文章があるとき、主語となるものと述語となるものを明らかにすることで理解に近づけること、それどころか自分の生きている世界までも見えてくることをお話しいただいています。



主語と述語
   
     小林信行(哲学

 古典ギリシア語テキストの例題に「知識は魂の食べ物」という文がある。私はこれを「ことばはこころの養い」と解釈したい。ことばはわれわれの日常的な体験に勝るとも劣らない貴重な情報源である。子供の頃には理解できなかったことばが理解できるようになったとき、われわれはおとなのこころをもつようになる、つまりおとなになるわけだ。それが具体的にどのようなことなのかをここで少し特殊な形で説明し、ついでに語学(単に外国語ばかりではなく自分が幼少期から用いている言語もふくめて)の勧めをしてみたい。

 日本語であれ外国語であれ、相手が何を言っているのか理解できない、書かれていることが難しくて分からない、という経験は誰しももつのだが、何故それが難しいのか、理解できないのか、という問題に取り組むことは面倒なもので、つい敬遠しがちとなる。ましてや国語辞書や外国語辞書を引いても分からないとなると大抵のひとは音を上げてしまって他人に頼るか、最悪の場合はその努力すら放棄してしまうものだ。その状況を、ここではそのひとが物事を理解する自分流のフォーマットの限界に直面しているケースとして考えたい。簡単に言えば、それまではなんとなくやってこれたのに、そのやり方が通用しない状況に陥っていると考えてみたい。

Types
 そのときひとの直面する壁は困難の塊である。それを塊であるというのは、まだ分節化されていないという意味である。漠然とした塊に圧倒されて、それがどのような組成をもっているかに思いが及ばないのである。そのようなときまずはアリストテレスが『カテゴリー論』という論理学(そして合理性)の出発点となる書物の中で示してくれるヒントに従ってみることをすすめたい。問題となる塊(いまはなんらかの文章としておく)の主人公(その文の主題となるもの、つまり主語となるもの)とその記述(主語を説明するもの、つまり述語となるもの)を確認すること、これが問題の塊を分節化するための基本的フォーマットである。もしこのフォーマットがなければ、たとえばどこかに山があっても、それが美しいとか高いということさえわれわれには分からない。ただ自分がどこかへ行こうとするときにいつも行く手を阻むような抵抗勢力としてとどまるだけだろう。その山が高いのであれば克服もしよう、その山が美しいであれば愛しもしよう。そのときその山はわれわれの世界の中に入ってきているのだから。

 何語であれ、このように主語となるものと述語となるものを明らかにするだけでもずいぶん風通しがよくなるものだ。それどころか自分の生きている世界までも見えてくる。それほど主語と述語という考え方は重要であり、あとはほとんどその仕組みの組み立て方と周辺部の飾りなのだ。しかしこの基本フォーマットは習得・訓練の対象であり、簡単なのように見えて根気強い慣れが必要なのだ。というのも、主語と述語くらい簡単に分かると思えるが意外とその組み合わせがうまく理解できないことが多いからだ。人間はおとなになるにつれてその組み合わせ方に訓練を積んでいくものだ。基本的なフォーマットの中で多種多様な組み合わせがこの世界を作っていることをおとななら知っている。そしておとなはそれを食べてこころの養いとしている。単に語彙の豊富さだけがおとなのしるしではない。


□小林先生のブログ記事

2017年9月30日土曜日

平成29年度 卒業論文相談会が開催されました

 3年生対象の、平成29年度卒業論文相談会が9月29日(金)に開催されました。今年も多くの3年生が参加しました。


 卒業論文は、自ら「テーマ」を見つけて、さまざまな証拠(統計データや実験結果、文献資料、フィールドワークデータ etc.)を示しながら、結論へと導いていく一連のクリエイティブな作業をいいます。たとえば、時間について考えたい、エッシャーという画家の作品を掘り下げたい、人工妊娠中絶の是非を考えたい、危険ドラッグ使用者の心理的特徴を明らかにしたい、なぜ多くの人がディズニーを好きなのか明らかにしたい、などなどです。

 卒業論文に取り組むということは、初めて学問の分野で何かを生み出す、創造をすることに他なりません。大学生として本当の学びの実践をすることになります。

 この相談会は、教員と3年生が一堂に会して行われます。複数の教員と話をすることで色々なヒントが得られたことでしょう。この相談会を出発点として、卒業論文のテーマと指導教員が決まっていきます。

 これから1年以上をかけて、どのような個性豊かな卒業論文が生まれてくるのか、傑作、力作を期待しています。


2017年9月29日金曜日

LC哲学カフェ開催:ホラーを哲学する


一昨日、後期第一回目のLC哲学カフェが開催されました。タイトルは「なぜこのマンガは怖いのか?――ホラーを哲学する」。今回はいつもと異なり、はじめから特定のマンガ作品を取りあげるのではなく、各自で「このマンガが怖い、この場面が怖い」と思うような作品を持ちよる、という企画。

参加者は学生諸氏が7名に教員が3名。一応マンガから話は始まったものの、むしろ映画やお化け屋敷、ジェットコースターなどの「怖さ」を中心に、話は進んでいきました。

話題になった主な作品は下記の通り。

 マンガ
  伊藤潤二「中古レコード」、小林銅蟲『寿司 虚空編』、冨樫義博『レベルE』
  諫山創『進撃の巨人』、阿部共実『大好きが虫はタダシくんの』

 小説
  鈴木光司『リング』、山田悠介『アバター』『親指さがし』

 映画
  「貞子vs伽椰子」、「ジュラシック・ワールド」、「ヴィジット」

さて、ある作品やある場面が怖いのはなぜか。異常だから? 理由がわからないから? リアルで身近に感じられるから?

ホラー映画は暗い映画館の中で観るから怖いのであって、明るいとダメ? しかし、映画館でコメディを観て笑う、という場合もある。昼間に大勢の人に囲まれた明るい空間で、スマホで怖い動画を観てゾッとする、というケースも考えられる。

そもそも「怖い」とは何か。怖い=びっくりする? お化け屋敷の怖さは、ほとんどびっくりによるもの。しかし、怖さにはそれ以外の要素もある。怖い=身体的な反応? 例えば、心拍数が上がること。しかし、怖くなくても心拍数が上がる場合もある。「楽しい」の反対が「怖い」? しかし、わざわざホラー映画を観にいったりジェットコースターに乗ったりするのは、怖さを楽しむためのはず……?

集団心理の怖さ、対処できないことや予想できないことの怖さ。リアルな怖さとファンタジーの怖さの違い。苦手なものに注意を向けてしまうことの怖さ、見なれているものに異物が加わることの怖さ。さらに、「怖い先生」の話や呪いのわら人形、等々にまで論点は拡散。いつも通り特に結論も出ないまま、そして特に結論を出そうともしないまま、今回も時間切れで終了となりました。

なぜ怖いのか、怖いとは何か、という点について色々な「説」が出ましたが、関連して、次の本がおすすめ。

 戸田山和久『恐怖の哲学――ホラーで人間を読む』、NHK出版新書、2016年

この本を読んだ上で、改めて「怖い」について考え直してみると、何か、見えてくるものがあるはず。残念ながら、現時点で図書館には所蔵されていないようですが、書店の新書コーナーなどで簡単に入手可能。読みやすい好著ですので、ぜひ一読を。

2017年9月24日日曜日

文化学科で教師を目指そう(LC16台 白山愛永さん)

 今年度第8回目の学生記事をお届けします。教師を目指す文化学科2年生の白山愛永さんが文化学科における教職課程の履修について紹介してくれました。


文化学科で教師を目指そう
LC16台 白山愛永

 人文学部文化学科に所属している2年の白山です。私は高校の時から教師になりたいと考えていました。私が教師になろうと思った理由は、中学3年生の時の担任の先生への憧れです。先生の授業は丁寧で分かりやすく、生徒一人一人をしっかり見て、進路指導でも様々な進路を提案してくださいました。その先生の影響で、私も担任のクラスだけでなく、学年全体を見られるような教師になりたいと思いました。そこで、文化学科に入学後に、教職課程を履修しました。

 福岡大学では主に中学校教諭、高等学校教諭、養護教諭免許状の免許を取得することが出来ます。私はその中でも中学教諭、高等学校教諭の免許状を取得しようとしています。文化学科では中学社会と高等学校地理歴史・公民の教諭になることが出来ます。

1年次  4月 教職課程ガイダンス・履修開始
教職課程受講料を納入
2年次  1月 介護等体験申し込み(中学のみ)
3年次  6月
 6月以降
教育実習申込み
介護等体験(中学のみ)
4年次  5月以降
 9月
 3月
教育実習
教員免許状申請
卒業・教員免許状取得

 文化学科で教職を履修することの利点は、ほかの学科と違い、様々な分野から様々な知識を得られることです。文化学科には心理学や社会学・美術史・哲学・宗教学・文化人類学・民俗学・地理学といった分野に分かれており、3年次には専攻するゼミを決めて追及していきます。一つの意見や見方に捉われることがなくその各分野ごとの考え方があり、学んでいてとても面白いです。教師になる上で社会科関連の勉強をだけをしていけばいいかというとそうでもないですし、歴史を学ぶ上で、ただ単にその時代の背景を教科書や本で知るだけでなく、宗教から歴史を知ることもあれば美術から学ぶこともあります。この学科では自分の目の前にあるどんな分野においても、自分から何かを学びを得ようとする力を身に着けることができると思います。

 教職課程では各分野で以下の必要な単位数を取得しなければなりません。
①教育職員免許法施行規則第66条の6に定める科目
②教職に関する科目
③教職又は教職に関する科目
④教科に関する科目

 ①では例えば日本国憲法や体育、外国語コミュニケーション、情報機器操作などの学部においても教師になるにあたって必ず必要な科目です。②では1年次では教育概論や教育言論教育心理学など教育に携わっていく中で必要な科目を学びます。③では教育福祉論や教育行政学など様々な分野の教育について学びます。また、今後道徳が教科として取り入れられていこうとしている中で道徳教育論は必修科目となっています。④では各免許を取得しようとしている教科専門の科目です。例えば社会の先生になりたいなら、一般教養科目である外国史通論や日本史通論、専門教育科目である人文地理学や地誌学は必修科目になります。学年ごとにとれる科目が決まっていますから、1年の時から全部履修できるわけではありません。このように必要となる単位は自分の卒業単位とは関係なく履修するものが多いですが、少しでも教育関係に興味がある方は是非取るべきだと思います。1年次から計画的に履修していけば自分のペースでゆっくり前に進んでいくこともできます。

 また私はボランティアサークルに所属しています。サークルの活動では子供たちとかかわることが多く、長期休みに子供たちに勉強を教えることもあります。このような活動の中で子供たちや親御さん、その施設の利用者さんから学ぶことは多くあり、刺激を受けています。この経験が将来の自分の糧になればいいなと思っています。


 文化学科は新しい自分を発見できる機会が多くある学科だと思っています。一つの学びだけでなく様々なことに目を向け、挑戦していきたいと思う方は是非文化学科を選んでみませんか?

2017年9月19日火曜日

卒業論文相談会開催のお知らせ(再掲)

卒業論文相談会開催のお知らせ(再掲)
(LC15台/3年生対象)

10月上旬の「卒業論文指導願」提出に向けて、3年生を対象に卒業論文相談会を開催します。

 会場には文化学科の全教員が集合。その場で個々の教員に、卒業論文について個別に相談することができます。卒業論文を書くかどうか迷っている人も、ぜひ参加してみて下さい。

◆日時 2017年9月29日(金)16:30-18:00
◆場所 文系センター棟15階 第5会議室

 当日は『2017年度版 福岡大学人文学部文化学科 教員紹介』を持参して下さい。

 なお、この相談会に参加しなくても、卒業論文の指導を受けることは可能です。
 卒業論文を書くために必要な手続きについては、『2017年度版 福岡大学人文学部文化学科 教員紹介』の25-31頁「卒業論文を書くために――卒業論文をめぐるQ&A」を参照して下さい。
 卒業論文関連の最近のブログ記事は下記の通り。

平成28年度 卒業論文相談会が開催されました
平成28年度 卒業論文発表会が行われました
卒業論文発表会に参加して
卒業論文執筆を終えて(LC13台 植田舞香さん)
平成28年度提出の卒業論文題目一覧

何か不明な点があれば、教務連絡委員の小笠原か本多まで。

教務・入試連絡委員 小笠原史樹・本多康生
卒業論文指導願
【提出先:人文学部事務室前レポートBOX、提出期間:10月2日(月)~13日(金)】

2017年9月16日土曜日

早良区近辺の神社巡り(岸根敏幸先生)

 平成29年度第9回目の「教員記事」をお届けします。宗教学の岸根敏幸先生です。今回は、「早良区近辺の神社巡り」と題して、ご自身の住んでおられる早良区近辺の神社について解説つきで紹介していただきました。



早良区近辺の神社巡り

   
     岸根敏幸(宗教学

 これと言った趣味はほとんどないのですが(本当は色々とあるものの、人前で自信をもって披露できないということもあります)、唯一挙げられるものは、日本の神様を祭る神社を巡るということでしょうか。

 神社巡りと言えば、だれもが知っている神社――たとえば伊勢神宮、出雲大社、住吉大社、厳島神社など、九州だったら、宗像大社、宇佐神宮、太宰府天満宮、霧島神宮などといった神社――を思い起こすでしょう。このように有名な神社は、その名声にふさわしく、どれも見応えのあるすばらしい神社でして、日本の宗教的伝統の真髄に触れることができるということで、そういう神社を巡るというのはとても有意義なことなのですが、それとは別に、各地域で細々と営まれている神社を巡り、その地域の、いわば宗教的な息吹のようなものを感じとるというのも、大切なことのように思います。

 今から5年ほど前でしょうか、文化学科の卒業生や在学生と連れ立って、城南区にある神社を巡ったことがあります。城南区には神社がそれほどないので、その気になれば、1日で巡ることができます。なかには海神社(城南区東油山)のように、油山に入って奥まったところにある神社もありますが、総じて言えば、それほど苦労しないで巡ることができるでしょう(もちろん、かなり歩きますが)。日本で一番多い神社は稲荷神社で、八幡宮はその次に位置すると言われていますが、城南区に限って言えば、圧倒的に八幡神社の方が多かったです。稲荷神社が多いのは、博多区や中央区のように商業が盛んなところ、それと海に近いところですね。

 それからも時々福岡周辺の神社を巡っていましたが、去年から散歩も兼ねて、私の住んでいる早良区近辺の神社を巡るようになりました。ただ、早良区というのは南北に大きく広がった地域で、北には百道、西新など、海に近く、賑やかな街もありますが、遥か南に行けば、バスも通っておらず、鬱蒼とした山々が連なっていて、それを越えれば、もう佐賀県になってしまうという場所もあります。城南区と違って、神社の数もかなり多いです。一般に、神社は都会よりも山地や田畑が広がる地域に多いものです。早良区内の神社をすべて巡るのは容易なことではありませんが、別に期限があるわけではないので、気の向くままに巡ってゆくつもりです。

 ということで、早良区近辺でこれまでに巡った神社の一部について、多少の解説を付けて、紹介したいと思います。


 まずは梅林八幡宮です(写真1)。一見、古墳を思わせるような(実際、その近くには梅林古墳という前方後円墳の古墳があります)盛り上がった台地に境内があります。この神社には何度か訪れましたが、境内で人を見かけたことはなく、非常に静寂な場所です。
 梅林八幡宮 (写真1)

 つぎは野芥の櫛田神社です(写真2)。櫛田神社と言えば、山笠で有名な博多の櫛田神社を思い起こしますが、他にも城南区荒江に櫛田神社があります。野芥の櫛田神社の御由緒を見ますと、創建は景行天皇(倭建命のお父上)の時代にまで遡るとされています。博多の櫛田神社は奈良時代後期の創建と伝えられているので、それより約4百年ほど古いということになるわけですが、本当のところはどうでしょうか。それほど広くはありませんが、落ち着いた雰囲気の境内です。その境内に「社日社」への案内板があり、それが気になって山を少し登ると、小さな祠のようなものがありました。この「社日社」というのは、最初の「社」がその土地の産地神(うぶすながみ)を意味し、「社日」で、その神を祭る春と秋の日が表されており、要するに五穀豊穣を願った産地神を祭る社のようです(早良区重留に祭神が不明の社日宮という神社があるようです。また後述する地禄天神社の摂社に社日社があり、そこでは、食物神で日本書紀神話にも登場する保食(うけもち)神が祭られています)。
櫛田神社 (写真2)

 その後、さらに南に向かい、国道263号をずっと下ってゆきたいという衝動に駆られますが、自宅からかなり遠くなってしまうので、そちらにはまだ足が向いていません。地元の神社巡りは今のところ、自分の足で行ける徒歩圏内を考えていますので、あまり遠出はできないのです。ということで、北西に移動すると、地禄天神社という神社があります(写真3)。街道に沿った細長い形の境内になっていて、輪越祭(茅の輪くぐりのこと)など、年間を通じて様々な祭礼がおこなわれます。特に8月15日におこなわれる綱引きと盆押し(肩車をして押し合う)は熱気のある行事だそうです。まさに地域と共にある神社と言えるでしょう。
地禄天神社 (写真3)

 そこからさらに北に向かってゆくと、賀茂神社があります(写真4)。賀茂神社と言えば、京都の葵祭で有名ですね。福岡の賀茂神社はナマズと密接に関わっていて、享保の大飢饉のときに、飢饉が収まるようにと氏子が祈願したところ、夢枕にナマズが出てきて、ナマズを殺すなというお告げがあったと言われています。賀茂神社のすぐ前に金屑川という川がありますが、その川の主であるナマズが賀茂神社のご神体だったということなのです。毎年9月15日には千個の明かりを灯して、無病息災を祈る千灯明という行事がおこなわれますが、元々は飢饉の犠牲者を弔うためにおこなわれたと言われており、仏教でおこなわれてきた万灯会(まんどうえ)に近いものと言えるかも知れません。
賀茂神社 (写真4)

 そのあと、北東に向かえば、やがて自宅に帰り着けることになりますが、余力があれば、西に向かうこともあります。福岡外環状道路に沿ってしばらく西に進み、そのあと南に少し行くと埴安神社があります(写真5)。埴安神を祭っているので埴安神社なのです。埴は土のことで、本居宣長翁は「はにねやす」(「ねやす」は泥状のものを作ること)が縮まって「はにやす」になったと説明しています。埴安神は古事記神話では「ハニヤスビコ」「ハニヤスビメ」という男女一対の神、日本書紀神話では「ハニヤマヒメ」という女神、または、「ハニヤス」という神に該当します。この神は早良区、城南区、南区にまたがる地域において複数の神社で祭られており(前述の地禄天神社の祭神も埴安神です。近代になって整理統合されたものと思われますが、城南区七隈の菊池神社や南区桧原の五社神社でも祭られています。なお、「地禄」はおそらく音声的な類似性から「十六」とも表記され、福岡県内に「地禄天神社」「十六天神社」という神社がいくつか存在しています)、その地域一帯の産土神なのではないかと前から気になっているところです。元々、土の神なので、それは十分ありうることなのですが、その実態について今後、詳しく調べてみたいと思っています。
埴安神社 (写真5)

 そして、さらに西に向かい、室見川を横切って、すぐ北に見えるのが橋本八幡宮です(写真6)。後に福岡藩三代目の藩主となる黒田光之は、生母との関係で橋本に地縁があり、そこにあった八幡宮を移築したのが、福岡藩の守護神として篤く崇敬された紅葉八幡宮です。橋本にあった八幡宮は後に再建されることになります。木々に囲まれた橋本八幡宮の境内はとても清々しいです。神社を巡るたびに思うことですが、こういう何か特別なものを感じさせる場所(科学的にどう説明したらいいのか分かりませんが、川の近くにあり、植物に覆われていることで、普通とは違う空気に包まれ、それが人間の心情に何らかの影響を与えるということも考えられるでしょうか)に神社などが建てられるわけですね。神社の裏手には阿弥陀三尊(中央に阿弥陀仏、左に観音菩薩、右に勢至菩薩を配する形)の名を刻した石碑と祠があります。神仏習合の名残でしょうが、今でも神社の境内に堂々と阿弥陀三尊が祭られているというのは興味深いです。なお、橋本八幡宮は早良区ではなく、西区にあります。室見川を渡ると西区になります。
橋本八幡宮 (写真6)

 そこから室見川に沿って、ずっと北上すると国道202号に接します。地図で見ると、その途中に若八幡宮があるようですが、訪ねたときには見つけられませんでした。その国道202号を東に少し進むと、小田部という所に宝満宮があります(写真7)。宝満宮と言えば、霊峰の宝満山(竈門山)にあり、かつてあった大宰府政庁の鬼門除けで知られる竈門神社がすぐ思い起こされます。玉依姫を主祭神にしていて、縁結びの神として有名です。小田部の宝満宮もそれに由来する神社なのでしょう。通常、玉依姫は神武天皇となった神倭伊波礼毘古命の母上のことを指しますが、そのような固有名詞としての用法だけでなく、霊的なものが依り憑く巫女の神格化を指す用法があるという指摘もあります(柳田国男「玉依姫考」)。福岡近辺にはこの宝満宮がかなり存在して(小田部からすぐ近くの有田にもあります)、太宰府市、福岡市とその近辺に広がっていたと思われる玉依姫信仰というものを伺い知ることができます(玉依姫は筥崎宮でも祭られています。おそらくは、筥崎宮に遷座する以前に、本来の祭神であった比咩大神を、福岡で信仰されている玉依姫に差し替えていたのでしょう)。
宝満宮 (写真7)

 そのあとも自宅に着くまでにいくつか神社がありますが、ここでは省略します。なお、今まで説明してきたコースは、私が思い描いているコースのなかの一つにすぎず、それ以外にもいくつかのコースとそのコース上に神社が存在しています。全部は紹介しきれないので、これぐらいにしておきましょう。

 他にも、前述のように、福岡藩から崇敬され、大正時代に現在の場所に移った、とても大きな境内をもつ紅葉八幡宮や、福岡市内のローカルな信仰だと思いますが、素焼きの猿のお面でよく知られている猿田彦神社など、早良区には興味深い神社がたくさんあります。そして、早良区の南の地域には、まだ巡ったことのないたくさんの神社が私をお待ちくださっているのです(随分、不遜な言い方をしてしまいましたが)。

 早良区近辺に限ってもこれほど多くの神社が存在しているのですが、日本全国を見渡せば、至るところに、正確な数も分からないほど、様々な神を祭っている神社が存在しているわけでして、日本の隅々まで、そのような神社が覆い尽くしていると言っても過言ではないでしょう。そして、人々が住む集落の一画に、あの特有の形をした鳥居(その鳥居の形にも実は様々な種類があります)のある神社が存在するという、どこにでもある光景なのですが、私たちに何とも言えない安堵感をもたらしてくれているように思います。それが神と共に生きる生活ということなのでしょう。このような日本の宗教文化をこれからも大切にしてゆきたいものです。


□岸根先生のブログ記事

2017年9月14日木曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

夏休みが終わり、今日から後期の授業がスタート。お休みしていた哲学カフェも再開します。

今年度後期、第一回目の詳細は下記の通り。

 【マンガde哲学】
 なぜこのマンガは怖いのか?――ホラーを哲学する

 日時 9月27日(水)16:30-18:00
 場所 A707教室

今回はマンガを扱いますが、今までのように一つの作品だけを扱うのではなく、「怖い」をキーワードに様々な作品を扱ってみる予定。

参加者は各自、「自分はこのマンガ、この場面が怖いと思う」という作品をピックアップして、哲学カフェの当日、できるだけ教室に持参して下さい。あるいは現物なしに、その場で「こんなマンガが怖い、こんな場面が怖い」と話してもらっても構いません。それらの作品を素材に、なぜそれが怖い/怖くないのか、そもそも「怖い」とはどのようなことなのか、等々、皆で考えてみたいと思います。

一応マンガをメインとしますが、怖い小説や映画、怖い絵画や音楽などでも可。試しに探してみると、いくらでも素材は見つかるはず。

もちろん、作品を用意せずに参加するのも歓迎。発言を強制されることはありませんし、途中入室、途中退室も自由です。ぜひ一度、気軽にのぞいてみて下さい。

2017年9月5日火曜日

時間地理学・生活時間・生活空間(鴨川武文先生)

 平成29年度第8回目の「教員記事」をお届けします。地理学の鴨川武文先生です。今回は、8月に開催された福岡大学オープンキャンパス2017において、模擬講義としてお話しいただいた「時間地理学で考える生活時間と生活空間」の内容を一部加筆修正してご紹介いただきました。本文中の写真は模擬講義の際のものです。



時間地理学・生活時間・生活空間

   
     鴨川武文(地理学

 教員記事として以前にも書きましたが、私の専門は地理学の中でも、人文現象を研究対象とする人文地理学です。人文地理学は、工業地理学・農業地理学・人口地理学・都市地理学・村落地理学・文化地理学など多岐にわたっていますが、今回の教員記事では時間地理学を紹介します。

 時間地理学は、1970年代初頭に、地理学の一分野として提唱されましたが、時間を研究対象とするのではありません。時間は1日24時間、誰にでも等しく与えられていますが、時間の使い方は個々人で全く異なっています。個々人の時間の使い方がどのようになっているのか、時間の使い方が結果としてどのような空間行動をもたらしているのか、さらには現代社会の一面を考える契機となるのではないか、これらが時間地理学の目的とするところ、本質であると思います。より具体的に記すとすれば次のようになるでしょう。すなわち、時間地理学は個々人の空間行動を表現し、解釈するための地理学の一分野として位置付けられ、また、個々人の行動であれば、通勤・通学や買物、アルバイト、余暇といった行動を断片的ではなく、一連の生活の中で一括して捉えることを可能にし、さらに、土地利用や施設配置、交通ネットワークなどより多くの人々が利用する対象に対して、個々人の行動を通して総合的に捉えることを可能とする。つまり、時間地理学は個々人が空間の中でどのような時間で軌跡を描いているかを、その人を取り巻く諸条件から合理的に解釈しようとする地理学の一分野であるといえるでしょう。

 それでは身近な行動を事例として考えてみましょう。1日の行動を振り返ってみると、全くの自由意思による行動は意外と少ないのではないかと思います。つまり、私たちの行動はかなり日常化されています。たとえば、大学生や高校生の皆さんは、毎日、同じルートで通学していますね。そのルートは、徒歩や自転車の場合には最短のコース、交通機関を利用する場合には最も安価なルートが選択されると思います。これら以外のルートが選択されることはめったにありません。あるとすれば、本屋に行くであるとか、友達と学校帰りに出かけるとか、何か特別な理由があるときです。通学は授業が始まる時間であるとか、交通機関の時刻であるとか、いわば自分を取り巻く社会的ルールに影響を受けた日常であるということができます。

 別の事例を考えてみましょう。

 高校生のA君とB君は小学校以来の大の仲良しです。同じ高校に通学していますが、A君は体育系のクラブに、B君は文科系のクラブに入部しています。夏休みの部活終了後に喫茶店に出かけてミルクセーキを食べる約束をしました。B君の部活動は時間通りに終わりましたが、A君の部活動はなかなか終わりません。B君は喫茶店でミルクセーキを食べた後にアルバイトをすることになっていて、A君の部活動が早く終わることを期待しています。早く終わらないと楽しみにしていたミルクセーキを食べることができない、アルバイトの時間に間に合わない、すなわちB君のこれからの行動はA君の状況次第ということになります。
 
 2つの事例から、私たちの行動は、様々な制約の中で、また、第三者との行動と密接に結びついたものとして理解することができます。

 ここで、NHK放送文化研究所による「国民生活時間調査」のアンケート用紙を利用して福岡大学の学生の1日の生活時間を紹介しましょう。

 7月のある日の男子学生の生活時間です。この日は定期試験期間中でした。午前7時に起床して、身の回りの用事を済ませて、午前7時45分から午前11時まで自宅で試験勉強、その後、昼食を食べて、午後12時30分に自宅を出て大学へ向かいました。午後3時15分に大学から帰宅。その後、音楽を聴き、夕食を済ませて、午後9時30分から午後11時30分まで自宅で勉強をしました。大学でも自宅でも試験勉強に時間を使い、そして空間行動は、自宅と大学との往復だけでした。

 次に、7月のある日の女子学生の生活時間です。この日は定期試験期間中ではありませんでした。午前8時30分に起床して、身の回りの用事を済ませて、午前9時15分に自宅を出て、アルバイト先へ出かけました。午後5時にアルバイトが終わって自宅に戻り、その後は友人とおしゃべりなどを行いました。午後11時45分に就寝しました。この日は時間の多くをアルバイトと友人との交際に使い、そして、空間行動は自宅とアルバイト先との往復でした。この二つの事例では、試験期間中であるということが、また、アルバイトに従事しているということが男子学生・女子学生それぞれの当該日の空間行動を規定しているといえると思います。

 さらに、時間地理学に関する研究事例を紹介しましょう。参照した文献については下部に記しています。具体的には、都市の郊外に住む家族の1日と、保育所への子供の送り迎えと仕事の両立に関する事例です。この家族は夫(父親)・妻(母親)・子供の3人家族です。
ある日の家族の生活時間は次のようになっています。

 夫(父親)は妻(母親)と子供を車に乗せて保育園に向かいます。子供を保育園に預けて、夫(父親)は妻(母親)を駅まで送ります。妻(母親)は駅から列車に乗り、職場の最寄り駅まで向かいます。夫(父親)は駅から職場まで車で向かい、この日は午前8時15分から午後10時30分まで仕事をして、午後11時前に帰宅しました。一方、妻(母親)は午前8時30分から午後6時まで仕事をして、その後、駅から子供を預かってくれている友人宅へ向かい、午後7時に子供とともに友人宅を出て、帰宅しました。また、子供は午前7時45分から午後5時まで保育園にいて、午後5時に妻(母親)の友人が保育園に迎えに来て、友人宅で妻(母親)が迎えに来るまで世話を受けました。

 すなわち、個々の家庭が置かれている状況はもちろんあるのですが、家庭内の社会的役割分担では女性が育児を担うことが多いので、子供を持つ女性が仕事に従事している場合には、一時的に育児を第三者に委託しなければならない状況にあるわけです。この点、事例となっているこの家庭にあっては、保育所はもちろん、妻(母親)の友人の協力が極めて大きいことが理解できます。

 以上からどのようなことが言えるでしょうか?すなわち、個々人の生活が時間という目に見える形であきらかになる。また、統計データだけでは見えていないものが明らかになる。時間地理学の役割は、現代社会における様々な問題を時間という形で可視化し、さらには問題解決の方向性を見極めさせるというところにあると理解しています。


参考文献・統計資料
・高橋伸夫・谷内 達・阿部和俊・佐藤哲夫・杉谷隆編(2008)「改訂新版 ジオグラフィー入門」古今書院
・内閣府「少子化社会白書(現在では少子化社会対策白書)」および「男女共同参画白書」
・NHK放送文化研究所(2016) 「2015年 国民生活時間調査 報告書」



□鴨川先生のブログ記事
大学(人文学部)で学ぶということ-役に立つ学問とは何か-
氷が解けると春になる

2017年8月31日木曜日

平成29年度 卒業論文中間報告書の提出について

平成29年度 卒業論文中間報告書の提出について
(LC14台以上/4年生対象)

卒業論文を提出する予定の4年生は、指導教員と相談の上、下記の期間中に中間報告書を提出して下さい。

 提出期間 9月22日(金)から9月29日(金)16:30まで
 提出場所 文系センター低層棟1階 レポートBOX

中間報告書の分量や形式は、指導教員の指示に従って下さい。

教務・入試連絡委員 小笠原史樹・本多康生

2017年8月28日月曜日

オープンキャンパスの報告(LC15台水落文佳さん、坂田愛希子さん)

 今年度7回目の学生記事をお届けします。文化学科3年生の水落文佳さんと坂田愛希子さんが、8月5日に開催された福岡大学オープン・キャンパス2017について報告してくれました。お2人とも学生スタッフとして前日、前々日の準備、当日も高校生への応対、模擬講義の手伝いと大活躍でした。


オープンキャンパスの報告(1)
LC15台 水落文佳

 こんにちは!文化学科3年の水落文佳です。

 今回は、先日8月5日に行われたオープンキャンパスの様子をお届けしようと思います。私は、1年生の頃から毎年オープンキャンパスのスタッフをさせていただいており、今年で3度目だったのですが、今年は例年に比べ文化学科の個別相談コーナー(A棟615教室)に多くの高校生、また保護者の方に足を運んでもらった気がします。ありがとうございました。
 
 展示のコーナーには、教員紹介のパネルや私たち学生の時間割、シラバス、実際に講義で使用されたレジュメなど様々な物が展示されていました。その一画には私が今年度の前期の講義で使用していたルーズリーフ(授業ノート)も…。私もそうだったのですが、高校生からすると、大学の授業は一体どんなものか想像がつかないと思ったので、少しでも伝わるといいなと思い置かせてもらいました。多くの高校生の方に見てもらえたようで、少々恥ずかしいですが参考になっていたらと思います。

 個別相談コーナーの来場者の方の中には、文化学科の模擬授業を受けた後に足を運ばれ、学生スタッフに「さっきの授業の内容が全然わからなかったんですけど、大丈夫ですかね…?」と不安そうに質問された方もいらっしゃったそうです。安心してください。3年生になった今でもわからないことがたくさんあります。ただ、入学当初さっぱりわからなかったことが、文化学科で学んでいく中で「ああ、あの時わからなかったことはこういうことだったんだ」「あの時先生の話されていたことは、別の分野から考えるとまた違ってくるな」というように少しずつ、少しずつわかっていきます。

 もちろん中には全然わからない、自分に合わないと感じる分野もあると思いますが、文化学科では7つの分野(心理学、宗教学、哲学、社会学、文化人類学、地理学、美術史)が専門的に学べるので、1つの分野が合わなければ別の分野に重きを置くことも不可能ではありません。「いろんなことを学んでみたい」、逆に「自分が何に興味があるのかわからない」という方には、文化学科はうってつけの学科だと思います。

 個別相談コーナーでは、学生スタッフと教員が待機していたのですが、高校生からの「文化学科で学んだことは就職にどうつながりますか?」「文化学科でどんなことが学べますか?」「文化学科は女子の方が多いですか?」など様々な質問に対して、学生・教員のそれぞれの立場から答えることができたのではないかと思います。また、文化学科のことだけでなく、大学生活そのものについてもお話しすることができ、「福岡大学って楽しそうですね」と言われ、とても嬉しく感じました。

 今回、スタッフをしている中で、私は、高校生の溌剌とした雰囲気をとても感じることができました。制服を着て、目をキラキラさせながらキャンパス内を歩いている姿は、懐かしく、高校時代自分が何を考えていたか思い出させてくれました。それと同時に、もう二度とあの頃には戻れないのだと思うと、少し寂しくなってしまいました。今、高校生活を送っている方たちには一生懸命色々なことについて悩んで、友達とたくさんの思い出を作って、高校生の時でしか得られないものを多く吸収してほしいと思います。

 最後に、文化学科へ足を運んでくださった方々、本当にありがとうございました。学生や教員と話したり、展示を見たことで少しでも「文化学科おもしろそうだな」と感じて頂けていれば幸いです。来年の春、文化学科でお待ちしております!




オープンキャンパスの報告(2)
LC15台 坂田愛希子

 皆さんこんにちは!人文学部文化学科3年生の坂田愛希子です。平成29年8月5日、福岡大学ではオープンキャンパスが行われました。とても快晴でオープンキャンパス日和でした!

うさぎのブンちゃん
 文化学科の展示では、去年使われたパネルや模造紙を利用した教授紹介コーナーや、卒業論文コーナーはもちろん、大学生の講義ノートやプリントの展示や文化学科キャラクターうさぎのブンちゃんの展示を新しく設置しました。うさぎのブンちゃんとは、簡単に言うと、心理学で学んだ「かわいい顔」に基づいて学生が作成したキャラクターです(こちらの学生記事もぜひご覧下さい)。

 私はオープンキャンパススタッフをするのは今回で2回目になりますが、オープンキャンパスでの文化学科の展示は、毎回教室展示は力が入っているので、まだ見たことのない人はぜひ一度ご覧ください!!教室の展示だけではなく、廊下の大きな展示もぬかりないです。また、一つ一つの展示の内容も濃い物になっていますので、来年訪れる際はぜひ一度文化学科へお越しください!

 私は、オープンキャンパススタッフの1人として、オープンキャンパスに来てくれた高校生を同じスタッフや教授達と一緒に迎え入れました。午前中は模擬講義や奨学金の説明等により、学科の展示の見学に来ている高校生はごくわずかでしたが、学科の説明や魅力を存分に高校生に伝えることが出来たと思います。

 しかし、やはり午前中に見学に来た高校生は臨床心理学科や英語学科の見学と目的をもっている方が多く、中々最初から文化学科を目的として来てくれた方は少なかったように感じます。そこで、教室の入口付近で呼び込みを行う際に、心理学に興味がある方には心理学を、語学に興味がある方には語学を、文化学科で学ぶことが出来る事を伝えると興味を示し、文化学科に見学に来てくれる方もいました。「臨床心理学科で学ぶ心理学と文化学科で学ぶ心理学科の違いが分からない」という高校生も多く、私はあまり心理学の講義を受けたことが無かったので、説明に苦戦しました。また、文化学科で学ぶ主な7つの学問領域を書いた画用紙を入口付近に貼る事によって、文化学科がどのような事を学ぶのかを分かりやすくしました。うさぎのブンちゃんも推しました。

文化学科回転パネル
 文化学科に所属している上で「文化学科って何を学ぶの?」とよく質問される事があります。今回も、スタッフとして高校生に説明している時に2,3回聞かれました。そこで、活躍したのが「文化学科回転パネル」です!各学問領域について、それぞれどのような事を学ぶのかを理解して貰い、また今年から新しくその学問の卒論のテーマも紹介しました。文化学科回転パネルを使うと、高校生もよく理解してくれて、文化学科がどういう学科なのか知ってもらえました。新しく導入した大学生の講義用ノートやプリントでは、釘付けの高校生も多く、大学生の生活をより身近に感じることが出来たのではないでしょうか。

 文化学科は学生スタッフや教授の人数も充実しており、学生の生活の方法や講義内容も気軽に聞くことが出来るので、来年のオープンキャンパスにもぜひ足をお運びください!!

2017年8月11日金曜日

磯田ゼミ紹介(LC16台 笹本優太郎さん)


今年度6回目の学生記事をお届けします。文化学科2年生の笹本優太郎さんが、文化学演習Ⅰで所属している磯田則彦先生のゼミを紹介してくれています。磯田先生のお人柄とゼミの雰囲気が伝わってきます。


磯田ゼミ紹介
LC16台 笹本優太郎

 人文学部文化学科2年の笹本です。この記事では、私が所属する磯田ゼミについて紹介したいと思います。文化学科は歴史学科や英語学科のように特定の分野を専攻するのではなく、哲学・宗教学・芸術学・社会学・心理学・文化人類学・地理学など人間社会の文化に関する学問を、幅広く領域横断的に学んでいく学科です。自由で活気にあふれた文化学科の特徴がとりわけ磯田ゼミには色濃く出ています。

・磯田ゼミの流れ(前期)

  1. 自己紹介、レポートの発表の順番決め(第1回)
  2. レポート(ワードで作った紙のレジュメ)の発表、ディスカッション(第2回~14回)


・磯田ゼミの長所

 磯田ゼミは、ほぼ毎年、希望者で定員が埋まる人気ゼミの1つです。人気の理由は、おそらく自分の好きなテーマでレポートが書けるという点ではないでしょうか。磯田先生の専門分野は地理学・人口研究ですが、レポートで扱うテーマや学問分野は完全に自由で、それぞれのメンバーに任せられています。私たちの代の磯田ゼミのメンバーも、大体の人が選んだ理由にこの点を挙げていました。ゼミは自分の好きなことをより一層深く知る機会にもなれば、新たなことを調べる良い機会にもなります。そして様々なテーマのレポートを聞けるので、知識も広がりとても有意義な時間になります。今年度は「CDはなぜ売れなくなったのか」「死刑制度のこれからについて」「外国人から見た日本・日本人」など色々なテーマの発表がありました。私も「沖縄基地問題のこれから」というテーマでレポートを書き、沖縄における基地の現状や課題について理解を深めました。

 そして次の良い点は、自分でレポートのテーマや参考図書を選択して内容を決めることによって、レポートを書く力が身につきます。これは卒論を書くときなどに役に立ってくるのでとてもタメになります。そして磯田ゼミの基本は「仲良く、誰もが堂々と意見を言えるゼミ」なので、活発的なディスカッションも出来ます。

ゼミでのディスカッションの風景
あと、なんと言っても忘れてはならないのが磯田先生のお人柄です。磯田先生は学生に対しても上から目線ではなく対等に接してくださるので、ゼミはいつも和やかな雰囲気です。発表の後の質問タイムで磯田先生から色々な質問を受けますが、それもまた質問に答える技量が身につくのでとてもメリットになっています。
 
 磯田ゼミは自由度も高く学習しやすいゼミです。文化学科に入学して磯田ゼミで学ぶことで、私は様々なテーマに対して、しっかりと自分の意見を持って、積極的に発言できるようになり、自身の成長に繋がっているように思います。機会があればぜひ磯田ゼミを履修することをお勧めします。

2017年8月10日木曜日

木曜日のラグナロク(小笠原史樹先生)

平成29年度第7回目の「教員記事」をお届けします。今回の執筆者は、宗教哲学の小笠原史樹先生です。



木曜日のラグナロク

小笠原史樹(宗教学

ある日、映画館で「マイティ・ソー バトルロイヤル」というハリウッド映画のチラシを手に入れた。バトルロイヤル……? ネットで検索してみると、英語の原題は“Thor:Ragnarok”(ソー:ラグナロク)。元の「ラグナロク」を日本では「バトルロイヤル」に変えたらしい。

ソー(トール、ソール)は北欧神話に登場する神々の一人で、最高神であるオーディンの息子。ミョルニルというハンマーの使い手で雷を司り、最強の戦士として巨人や怪物たちと戦う。このソーを題材にした映画が「マイティ・ソー」で、「バトルロイヤル」はこのシリーズの第三作目にあたる。

ラグナロクも北欧神話の用語で、元々の意味は「神々の運命」。「黄昏」の意味を持つ言葉と混同されて、「神々の黄昏」と呼ばれることもある。神々を待つ運命とは、神々と巨人たちとの間で最後の戦いが行われる、ということ。つまりラグナロクとは、そのような最終戦争を指す言葉である。

夏が一度も来ないままに冬が三年間続くと、ラグナロクの兆しとされる。世界中で戦乱が起こり、狼たちが太陽を飲みこんで月を傷つける。大地が震えて山は崩れ、フェンリルという巨大な狼の鎖が解かれる。フェンリルは口を開けて突進するが、その上あごは天に届き、下あごは大地についている。ヨルムンガンドという巨大な蛇(ミッドガルド蛇)も海から這い上がり、フェンリルや巨人たちと共に、神々の住む世界へ殺到する。それに気づいた番人ヘイムダルが角笛を吹き鳴らし、オーディンは軍勢を招集して巨人たちに立ち向かう――。

ラグナロクでソーの戦う相手はヨルムンガンドと決まっており、すでにその勝敗も決まっている。オーディンはフェンリルと戦い、ヘイムダルはロキ(神々の一員にして巨人の子であり、フェンリルとヨルムンガンドの父親)と戦う。映画でこれらの戦いが描かれるとは限らないが、少なくとも「ラグナロク」というサブタイトルは、以上のような一連の物語を含意している。

ところで、今日はちょうど木曜日。木曜日を意味する英語の“Thursday”はソーに由来する、と言われる。つまり、木曜日は「ソーの日」。ちなみに、水曜日の“Wednesday”は「オーディンの日」。非日常的なハリウッド映画の中に留まらず、身の回りの一つ一つの言葉の背後にも、遠い異国の神話世界が広がっていたりする。神話の知識を少し手に入れるだけで、映画の楽しみ方も日常の見え方も変わる。

……と、いくら北欧に思いを馳せてみても一向に涼しさは感じられず、それもそのはず、ラグナロクには炎の巨人スルトも参戦しているのだった。

酷暑の日々、ラグナロクの到来はまだしばらく先のようである。


参考文献
 V・G・ネッケル・他編『エッダ――古代北欧歌謡集』、谷口幸男訳、新潮社、1973年
 R・I・ペイジ『北欧の神話』、井上健訳、丸善ブックス、1994年

小笠原先生のブログ記事
真昼の悪魔
スマホと空と攻殻機動隊
歌詞の中の神々

2017年8月9日水曜日

オープンキャンパス2017が開催されました

 福岡大学オープンキャンパス2017が、8月5日(土)に開催されました。

  文化学科関連では、鴨川武文先生の模擬講義「時間地理学で考える生活時間と生活空間」、 平井靖史先生の模擬講義「タイムトラベルを哲学する」に計400名近い多くの方々が聴講に来てくださいました。

 また、教員・在学生による個別相談も例年以上に盛況で、熱心なご相談、ご質問を数多くいただきました。

 模擬講義を担当してくださった先生方、教員スタッフ、学生スタッフの皆さん、そして何よりも文化学科を訪れてくださった高校生、保護者の皆さんに心よりお礼申し上げます。

 学生スタッフによる体験記も近日中にアップロードする予定です。お楽しみに。


2017年8月3日木曜日

心理学から見る福岡大学のマスコットキャラクターたち(LC16台 坂本景菜さん)

 今年度第5回目の学生記事をお届けします。LC16台の坂本景菜さんが、福岡大学のいくつかのマスコットキャラクターについて紹介し、心理学の講義で学んだ事を生かして分析してくれました。
 「うさぎのブンちゃん」という、文化学科のマスコットキャラクターも考案してくれています。



心理学から見る福岡大学のマスコットキャラクターたち

LC16台 坂本景菜

 皆さんは福岡大学のマスコットキャラクターをご存じだろうか。福大生の中にも「見たことはあるけど名前は知らない」「全く分からない」などという意見の人も多いと思う。かくいう私も1年生の間は全くといってもいいほどその存在を知らなかった。今回私は福岡大学のいくつかのマスコットキャラクターについて紹介するとともに、自分が1年生の時に受講した心理学の講義(2016年度末に定年退職された感情心理学がご専門の髙下保幸先生の講義)で学んだ事を生かして簡単に分析してみたいと思う。

福太郎先生
 まず最初に紹介するのは福岡大学図書館マスコットキャラクター「福太郎先生」。福太郎先生は福岡大学新中央図書館に住んでいるふくろうである。ホームページのキャラクター紹介では、チャームポイントはふくよかなお腹、つぶらな瞳、好物は辛子高菜のトッピングをしたバリ堅のとんこつラーメンで、替え玉は当たり前といういかにも福岡人らしい味覚をしている。趣味は閉館後の書架整理で、そのスピードは図書館スタッフ顔負けの手さばきらしい。そんな福太郎先生は、2015年に開催された「図書館総合展」で図書館キャラクターグランプリ「館の働き者部門」に入賞したという経歴もある。ちなみに、絵本や漫画など物語の中でふくろうが他の動物たちに比べ「知識人」として描かれがちなのは、一説によるとギリシャ神話の知恵の女神アテナ(ミネルヴァ)の使いがふくろうであったことから、いつしかふくろう自体が知恵の象徴になったのが始まりだという。福太郎先生も例にもれず博識なふくろうであり、「先生」と呼ばれているからには教えている生徒が存在する。その名も「ペンギンズ」。

ペンギンズ

 ペンギンズはカラフルなペンギンたちで、れっきとした福大生である。総員9羽で、それぞれが福岡大学の学部に所属しており、1学部に1羽いる。人文学部はペン、法学部は天秤、商学部は電卓…といったようにそれぞれの学部に関係したアイテムを持っており、福太郎先生に図書館の活用方法を習って、卒論やレポートを仕上げようと思っているらしい。「いつかは福太郎先生と一緒に空を飛ぶのが夢」ということだが、福太郎先生はふくろう、彼らはペンギンである…という事についてはあまり触れないほうがいいのかもしれない。(福岡大学図書館 キャラクター紹介[http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/character/])

ステッピイ
  また、福大生ステップアッププログラム(FSP)マスコットキャラクターは階段「step」と勉強「stady」をかけたニックネームの「ステッピィ」。黄色いカラーリングと階段を模したシンプルなシルエットが特徴である。詳しい設定などの公開はされていないが、ホームページのイラストを見るに、植物を育てたり、様々な分野に興味を持っていたり、飛び跳ねたりとアグレッシブな様子が見られる。ちなみに福大生ステップアッププログラムとは、「学び」「豊かな人間性」「「社会」の3つのステップから本学生の人間的成長をサポートするプログラムで、学生同士のコミュニケーションをベースにした学生参加型の授業や、アジア圏の協定校との国際交流セミナーを開講したり、本学の学生が自主的に企画した独自のプロジェクトを支援したり、卒業生の方から大学生活で学んだどのような事がいかに人生で大切なものであるかを教えて頂く講演を開催したりなど盛りだくさんの内容になっているので、気になる方は受講してみる事をお勧めする。(福大生ステップアッププログラム2017 ステッピィのプロフィール[http://www.fukuoka-u.ac.jp/fsp/fu/profile/])

 さて、ここまでにあげた3つのキャラクターの中で、一番心理学の観点から「一般的にかわいい」とされるキャラクターはどれだろうか。

 心理学的に「かわいい顔」とされるのは「幼児図式」、つまり赤ちゃんのような顔である。細かく挙げると、高く張り出した額、顔に相対して大きな目、適度な目の光、丸く膨らんだ頬、小さな口、体に比べて大きな頭、丸い感じの体つき、ぎこちない動き、などがある。中でも中核的な部分は「上顔に比べて短い下顔」である。人間に限らず、他の動物やぬいぐるみや人形、アニメのキャラクターでこのような要素があれば「かわいい」と思わせることが出来るという。そしてこの「幼児図式」を参考に考えると、目の大きさ、目の光、小さな口、全体的な丸みなど当てはまる部分が一番多いのは福太郎先生であると言える。特に前述した福太郎先生のチャームポイント「つぶらな瞳、ふくよかなお腹」が決め手になった。

 せっかくなので私も幼児図式になるべく沿った、文化学科のマスコットキャラクターを考えてみた。名づけて「うさぎのブンちゃん」である。耳は福岡大学の「F」をデザインに、文化学科の幅広く学べる特性からいろいろな物を詰め込めるように大きなリュックを背負わせた。手に持っているのはにんじん型のメモ帳、首元には文化学科の頭文字でもあり、自分の名前の頭文字でもある「B」が入ったバンダナをしている。体に対して大きな頭、小さい口、全体的に丸いフォルム、丸い頬、下部に寄った大きくつぶらな目、ありきたりなキャラクターデザインのような気もするが、それだけ幼児図式が様々な「かわいい」キャラクターの基礎として使われていると言えるだろう。

うさぎのブンちゃん

 今回は一部のキャラクターの紹介と、髙下先生の心理学の講義で学んだ内容を踏まえて「幼児図式」から見る「かわいさ」について分析したが、これを機に福岡大学のマスコットキャラクターを身近に感じてくれる人が増え、さらには図書館や福大生ステップアッププログラムなどに興味を持つ人も増えてくれれば、マスコットキャラクターたち(関係者の方々)にとっても喜ばしいことだと思う。