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2017年12月29日金曜日

知的に自由であるということ(平井靖史先生)

 平成29年度第12回目、今年最後の「教員記事」をお届けします。哲学の平井靖史先生です。今回は、平井先生が代表を務められた国際研究プロジェクトPBJ (日本ベルクソン・プロジェクト Project Bergson in Japan)について、マネジメントのご苦労と、その苦労を大きく上回る他では得難い知的な歓びと自由について熱く語られています。



知的に自由であるということ
   
     平井靖史(哲学

 2015年から2017年までの三年間、平井はとある国際研究プロジェクトの代表を務めました。文科省の科学研究費というところから財源をもらって、一年に一度、合計三回の国際シンポジウムを企画・運営・出版するという大きなお仕事のとりまとめ役と言うと立派に聞こえますが、まあやっていることは発表者に登壇を打診したり、皆さんの出張の書類作ったり、ホームページ作ったり、開催にかんする事務手続きなどをする、雑用が大半です。でも、なかなか得がたい経験で、そこからあらためて学ぶことも多くあったので、ご報告がてら少しお話しします。

図1 シンポジウムのポスター

図2 論集として出版
 まず、書類がびっくりするくらい多いです。例えば国内の他の大学からも先生をお呼びします。すると、その先生自身の代理出張手続きをこちらがするのですが、それだけでなく、福岡大学の人文学部長から、その先生の大学の所属部長宛てにその先生を出張させることを許可して下さいという依頼の文書を作って、さらに、その先生を出張させることを向こうの所属部長がうちの学部長に許可しますよと返事をする承諾の文書も僕が作り、先の依頼文書と一緒に送ってそれにはんこを押して返してもらいます。ん?違うか、うちの学部長がじゃなくて向こうの所属部長がその先生を出張させるように命令してくれるようにうちの学部長が依頼をする(ように僕が学部長に依頼する)のだから、それに対して承諾するということは、向こうの所属部長にしてみれば、自分が自分のところの先生に出張命令を出すことを依頼してくることに対して許可を出していることになる(命令させるようにお願いしてもいいよ?)…のかな?あーもう分からんし!ちなみに返信用封筒の切手貼りと宛名書きも僕がやります。侘びしくなんてないです。全然…。

 会場のアルバイトの皆さんには事前登録・勤務表・振込などの書類を人数分(16〜18名/年)用意します。シンポジウムは4日間に及び、外国人・日本人の参加者一人一人でスケジュールが違い、ホテルの予約や移動の計算も複雑を極めます。一年目はもうこれらの事務処理にやられて完全にグロッキーでした(笑)。自分も発表するんです。なんとかこなせたのは同じプロジェクトの先生方や福大の優秀な事務の方々のサポートのおかげ。

図3 シンポジウムの様子
 慣れない書類と電卓に無駄に時間かかる。自分の哲学の研究が進まない。苛立つ。一分も研究できないまま日が暮れる。なんか悲しくなる。でも、それはちゃんと報われたんです。

 ベルクソンの『物質と記憶』という書物には、〈心〉と〈時間〉の謎を解き明かすためのアイデアがモリモリに詰め込まれています。その意味は、伝統的な「フランス哲学」の範囲に留まるものではなくて、近年進展の著しい「意識の科学」や分析系の「心の哲学」に深く関係しています。この本を長らく研究対象にしてきた僕にはそのことは分かっていましたが、これら全ての分野を一人で網羅することは到底不可能です。だから今回PBJ(日本ベルクソン・プロジェクト)の代表を引き継ぎ、『物質と記憶』について集中的な協働研究の采配役を任されたことは、ほんとうに光栄であると同時にまさにうってつけのタイミングだったのです。

 今回、ベルクソンの学会なのに発表者のほとんどがベルクソン専門家でありません。しかも、海外についても国内についても非哲学の分野の方々は、書籍を通じて知っているだけでほぼ面識ゼロでした。中心的な論者となった英国の分析哲学者バリー・デイントンに、最初にメールを書いた日のことをよく覚えています。見知らぬ日本人から突然ヘタクソな英語でメールが来て、あなたの説はベルクソン的だからベルクソン読め、そして発表しろと言われ、あれこれ注文されたにもかかわらず、快く引き受けて、来日し、初めてのベルクソン論を仕上げてくれました(その後彼は毎年参加してくれています)。ゲーム人工知能の三宅陽一郎さんとは渋谷の貸し会議室で初めて待ち合わせして、神経科学者の太田宏之氏といきなり6時間ぶっ通しで夜まで議論したっけ。別な心理学の国際学会で知り合った社会心理学者スティーヴン・D・ブラウン。初対面なのにイギリスやイスタンブールからお土産を持ってきてくれたデイヴィッド・クレプスとジャン=リュック・プチ、お別れの夜に白くなってた僕にあついハグをしてくれたアメリカのマイケル・R・ケリー。京都や大阪に移動した日は、あてもなく寺を訪ね、みんなでたこ焼きを一緒に食べたのもよい思い出です。

図4 議論の続き
 やっぱり学問ってすばらしいなって思いませんか。謝礼もありません、それどころか、こちらの予算が限られた中、多くの人が旅費を自前で出してくれてるんです。本には執筆料も印税もありません。ただ働きですよ?なぜ、そんなことが起こるのでしょう?

 それはみな、ある日、見も知らぬ研究者からメールボックスに届いた、純粋に学問的な問題提起から始まったのです。それに共感して予定を調整し参加を決め、もうテーマは暖まっているから会場で出会ったその瞬間にはガチの議論です。初対面とか関係なし。お互い発表を持ち寄って、徹底的にやり合って、飲み語らい、数ヶ月後には討議を踏まえた論文に仕上げ、それを翻訳し、本になるまで、そしてその後も、ただその純粋に学問的な問題だけが、のべ37人の発表者と18名の特定質問者を導きつづけたのです。人間ってすごい。

 そんな知的な歓びと自由を目の当たりにできるのなら、書類くらい書きますってば。書かせて下さいお願いします(涙目)。



2017年12月14日木曜日

忘年会に、いくべきではない理由(林 誓雄先生)

 前回から少し間が空きましたが、平成29年度第11回目の「教員記事」をお届けします。哲学の林 誓雄先生です。今回は、暴走列車や池で溺れる子どもの話を使った思考実験を手がかりに、わかりやすくかつ楽しく、貧しい国や地域の人たちに対する豊かな日本に住む私たちの果たすべき義務の問題を考察されています。



忘年会に、いくべきではない理由
   
     林 誓雄(哲学


ボブはもうすぐ定年を迎える。彼は、ブガッティという非常に珍しく高価なクラシックカーに自分の貯金の大半をつぎ込んだが、その車に保険をかけることは済んでいない。ブガッティは彼の自慢の種である。この車を運転し、きれいにすることによって得られる快楽に加えて、ボブはこの車の市場価値が上がっているため、この車をいつでも売って引退後も快適に暮らせることを知っている。ある日ボブがドライブに出かけたとき、彼はブガッティをもう使用されていない鉄道の側線の終端近くに停めて、線路に沿って散歩した。そうしていると、誰も乗っていない暴走列車が線路の向こうからやってくるのに気付いた。線路のずっと先をみると、線路の上で夢中になって遊んでいるように見える子どもの小さな姿が目に入った。その子どもは暴走列車に気づいておらず、大きな危険が迫っている。ボブには列車を止めることはできず、まだ子どもはずっと遠くにいるため、大声で叫んで危険を知らせることもできない。しかし、彼は切り替えスイッチを入れることにより、列車を彼のブガッティが停車している側線に導き入れることができる。そうすれば誰も死ぬことはない———しかし、側線の終端にある防御壁は破損しているため、列車は彼のブガッティを破壊するであろう。(シンガー [2014] pp. 15-16)


 倫理学では、暴走列車(トロッコ/ トロリー)を使った思考実験が数多く提案されている。基本的なものとしては、暴走列車を放っておくと5人が死ぬことになる一方、自分の目の前にある切り替え線のレバーを切れば、5人は救われるが別の1人が死ぬことになる。さぁ、あなたはレバーを切る? それとも切らない? というやつだ。

 さて、今回は車か子どもか、である。ちなみに、ここで登場する高級車ブガッティは、先日とある雑誌を読んでいたときに見かける機会があり、目が飛び出かけたのだが、なんと3億円もするらしい。もちろん、3億円払えばそれで済む話でもなく、維持費も年間数千万はかかるとのこと。いったい、どこにそんなお金持ちがいるのやら。(そういえば、高級車アルファ・ロメオに乗ってらっしゃる先生が、いたような気がするが…)

 と、そんな話をしているのではない。車か子どもか、である。悩ましい問題である。細かな条件について詰めておくと、この暴走列車の事例では、子どもの死は必然的なものではない。もしかするとその子どもは、列車が迫っていることにギリギリで気がついて、線路から跳びのき、死なないかもしれない。だが、子どもが列車に気づいても、腰を抜かして動けなくなり、死んでしまうかもしれない。つまり、子どもの死は、不確実なものである。

 他方で、車の方はというと、ボブがその車の方に向かうよう線路のスイッチを入れると、その高級車は(必然的に)パァになる。しかし、だからといって、ボブは、自分の住む場所を失ったり、借金を背負うことになったりするわけではない。ブガッティの支払いは済んでおり、また、自宅も(それが大豪邸かどうかは不明だが)確保されている。こうした条件下で、それではボブは、あるいはわれわれがボブの立場だったとしたら、どちらを選ぶべきか。車なのか、子どもなのか。

 この事例を「紹介」しているピーター・シンガーによると(この事例自体は、ピーター・アンガーという別の哲学者による創作である)、一般的に考えて多くの人は、仮にボブが切り替えスイッチを入れずに、車に被害が及ばないようにしたのだとしたら、彼の行為は誤っていたと答えるという。なぜなら、「ボブは切り替えスイッチを入れて自分が一番大切にしている高価な所有物を破壊し、それによって経済的に安定した老後を暮らすという希望を犠牲にすることを選ばなかったからだ」(シンガー [2014] pp. 16-17)。なるほど、われわれの直観からすると、ボブは、自分の経済的安定よりも、未来ある子どもの命を、たとえ暴走列車によるその子の死が必然的なものではないとしても、優先して守るべきであるような気がする。そしてそれは、「自分たちは困っている人を助けるべきであり、少なくとも彼らが自分の目に入るところにいて、また彼らを助けられるのは自分だけである場合には、助けるべきである」という、われわれが普通に持っている信念によって、支えられるものであるように思える。そのため、ブガッティを失うことは、無辜の命が失われることと同じくらい重大な問題だ、などと主張するのは困難であるし、そのように主張する人間は、どこか性根が腐っている、あるいは不道徳だと非難されても仕方がないように見える。

 しかしながら、「実はこれは、世界の貧困問題について考えてもらうための架空の事例なんですよ」とタネ明かしをされて、そして「ブガッティよりも無辜な子どもの命の方が大事であることを認めるのなら、あなたが余分に持っているお金すべてを、アフリカで今にも死にそうになっているかわいそうな子どもたちのために寄付しましょう」と言われると、われわれの多くは途端に、先ほどの考えを撤回する方へと傾くように思われる。あるいは、次のように言われても、われわれの多くは、すぐに説得されようとはしないように見えるのである。


「もしあなたに、何か悪いことが生じるのを防ぐことができ、しかもほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることなくそうすることができるのであれば、そのように行為しないことは間違っていると、あなたは認めたのでしょう。そうであるなら、世界には何百万もの、死が迫っている状況下にある子どもたちがいます。遠すぎてわからないというなら、ほら、そのひどい状況を、こうやってネット中継して、あなたにお見せすることができます。世界がこのようであるにもかかわらず、それを無視して、自分の快適な老後のために貯蓄をすることは、道徳的に間違っています。だから、余分なお金を老後の貯蓄なんかにはまわさずに、これ以上寄付すると、子どもの命とほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることになるぐらい貧しくなるまで、あなたは寄付をするべきです。」


 このように言われると、われわれは途端に及び腰になり、この寄付を求める議論には、どこか不可解なところがあるのではないかと思うようになる。(この議論が不可解だと思わない人は、どうぞ老後の蓄えをすべて、慈善団体に寄付していただければよい。)

 この議論が不可解であり、間違っていると思われる理由のひとつとして、ボブとわれわれとの間の「違い」を挙げることができるかもしれない。ボブは、3億円もの車を購入し、それを維持できるほどの大金持ちだ。他方で、われわれ一般の人間は、例えば日本の世帯平均所得で考えるなら、年間約546万円の稼ぎしかない(厚生労働省「各種世帯の所得等の状況」)。このように、われわれ一般人とボブとの間には、その収入や貯蓄の額に大きな差がある。だから、ボブにはブガッティを犠牲にする理由がある一方で、われわれ一般人は、日々慎ましい生活をするほどの余力しかないのだから、われわれの方には、寄付をするべき義務は発生しないように思われる。

 だが、シンガーはそういう言い訳(?)を許してくれない。われわれ一般人にも、やはり寄付を求めてくる。それは、どの程度の寄付なのかというと、「これ以上寄付をすれば、自分が寄付することで防ぎうる悪い事柄とほぼ同じくらい重要な何かが犠牲になってしまうところまで」(シンガー [2014] pp. 187)である。無辜な子どもの命が失われることと同じくらい重要な何かが犠牲になるまでは、ひたすら寄付しなければならないというのだ。こりゃあ、いくらなんでも大変だ。

 いまいち、寄付を進んでする気持ちになれない私は、次のように考えてみるのである。すなわち、毎年きちんと税金を支払っている私は、すでにODA(政府開発援助)の形で、世界の貧困をなくすために寄付していることになっているのではないのか。そうであるなら、一日本国民として、世界に対して果たすべき義務を、しかも公平に負担されるべき義務を、しっかり果たしているのではないか。そして、私には、自分が負うべき公平な負担以上のことをする理由は、もはやないのではないか、と。

 しかし、この「公平な負担」論に対しては、次の事例を考えてみよ、とシンガーは切り返してくる。


あなたが浅い池のそばを歩いていると、10人の子どもが池に落ちて助けを必要としているのを目にする。辺りを見回すと、親も保護者もいないが、自分と同様、たった今池のそばに来て溺れている子どもたちを見つけ、あなたと同じくらい子どもを助けられる立場にいる大人が9名いることに気付く。そこであなたは急いで水の中に入って1人の子どもをすくいあげ、池から離れた安全なところに連れて行った。あなたは他の大人たちも同様のことをして子どもたちは全員無事だろうと思って池の方を見ると、驚いたことに4名の大人がそれぞれ子どもを1人ずつ助けたのに対し、残りの5名はそのまま立ち去ってしまったことに気付く。池にはまだ5人の子どもがいて、明らかに溺れそうになっている。(シンガー [2014] pp. 192-193)


 この事例における「あなた」は、放っておくと5人の子供が溺れて死ぬと知りながら、「公平な負担」を理由にして、1人の子どもを救っただけで、救助をやめてもよいものだろうか。シンガーの答えは「ノー」である。彼は、他の人々が自分の公平な負担を果たしていないという事実は、「あなた」が子どもを容易に助けられるにもかかわらずその子どもを見殺しにするのを正当化する十分な理由にはならないと断じる。そしてさらにシンガーは、自分の公平な負担以上のことをするのを原則的に断る(私のような)人間は、公平さをフェティシズム(盲目的な崇拝)の対象にしているのであり、一種の性格のおぞましさを露呈しているのだ、とまで言う(シンガー [2014] pp. 194-195)。

 このように、仮にシンガーの言うことが妥当であるならば、私の性根は腐っている、ということになる。すなわち、これまでやっていたような、忘年会と称して、ちょっとお高めのお店にて、同僚たちとともに、この一年、研究や教育、そして学内の仕事を本当によく頑張ったことを労い合うだとか、今年もお世話になった自分の師匠に御礼の気持ちとして、ちょっといいお酒を贈って差し上げるだとか、ゼミ生たちとクリスマスパーリィーを開催して、おおかた奢ってやるだとか、そういったことに自分のお金を費やし、他方で寄付をまったくしないでいると、それは溺れて死にそうな子どもを見殺しにすることと同じだと言われ、自分の性根が腐っていることを示すことになるのである。私は、自分の性根を叩き直すべきなのだ。私は、心を入れ替えて、これまでそういった享楽に費やしてきたお金をすべて、世界の貧しい地域の子どもの命を救うために、寄付するべきなのだ。自分の気前のよさを、周りの比較的恵まれた人々にだけ振り向けるのではなく、それを恵まれない世界の人々へと向けるべきなのだ。貧しい人々が直面している多くの問題に、恒久的な解決を与えることができるまで、われわれは、寄付をし続けなければならないのだ……。

 うーむ、シンガーの言うことはわかるのだけれど、やはりどこか、何か、しっくりこない。これはいったい、何がどうおかしいのだろう。シンガーの議論のどこかに、何かおかしい点があるのか、それともやはり、私に徳が欠けているだけなのか。性根が腐りきっている私とは違い、私の出身研究室の某先輩(今回取り上げているシンガーの本の訳者の1人)は、毎月、国境なき医師団に寄付をしていらっしゃる。大変素晴らしい先輩である。腐った自分の性根を叩き直すために、今度、その先輩の爪の垢を譲ってもらい、煎じて飲めば、寄付できるようになるのかなぁ…。

 あれ? そういえば、ブガッティの事例でも、池で溺れている事例でも、どうして子どもたちの親や保護者が、どこにも見当たらないのだろう。本来、子どもたちの命について、その責任を負うべき親や保護者たちは、いったいぜんたい、どこで何をやっているのだろう。貧困な国や地域の大人たちは、後先考えずに、子どもを好き勝手に作るだけ作っておいて、貧しさのためにその子どもたちを不幸にし、そして、その子どもたちを死へと追いやっているとも言える。仮にも、この問題の「恒久的な解決」を目指すのならば、まずはその構造から、根本的に変えていくべきである。「かわいそうな子ども」を、これ以上、生み出すべきではない。もちろん、貧しさということが、子どもをかわいそうな状態にするのであれば、その貧しさを改善するために、われわれ裕福な国の人たちが寄付をするのも一つの方策かもしれない(そしてその方策を強く推し進めるのがシンガーである)。しかし、それとは別の手段もありえる。それは、そうした国や地域の大人たちが、これ以上子どもを持たないようにするのである。子どもたちが生み出され、存在してしまうからこそ、生み出され、存在してしまった子どもたちが苦しんだり死んでしまったりするのである。逆に、子どもたちが生み出されず、存在しなかったのだとしたら、そうした苦しみや悲しみは、この世に発生しないことになる。そして、こちらの手段の方が、シンガーのやり方よりも、「恒久的な解決」に資するものだと思われる。

 最近、デイヴィッド・ベネターという哲学者が主張する「反出生主義(anti-natalism)」という考え方に、注目が集まっている。われわれ人間が「存在する」ことは、「存在しない」ことに比べて、常に害悪である。それゆえ、害悪をこれ以上、この世の中に増やさないために、われわれには子どもを作らない義務がある、というものである。この主張を支える議論は、極めて難解なものではあるけれども(詳しく知りたい方は、ベネター『生まれてこない方が良かった』を読んでみてほしい)、仮にこの議論・主張が妥当だとするならば、貧困のために子どもの命が危機にさらされるような国や地域の大人に対して、避妊や(初期段階の)中絶を奨励することが、道徳的に正しいことになる。そうだ、それがよい。今後、子どもたちが生み出されない・存在しないのであるなら、彼らに関する悲しみや苦しみがこの世に生み出されることはなくなる。子どもたちが、死ぬこともなくなる。そしてそのことに、われわれは思い悩むこともなくなるのである。

 線路の上で遊ぶ子どもにも、池で溺れている子どもたちにも、これからは出会うことがなくなる。したがって、命の危険にさらされている子どもを救う義務を、われわれが負うこともなくなるのであり、われわれは寄付をしなくてよくなるのであり、自分で稼いだお金を、これまで通り、自分の楽しみに、あるいは自分の仲間との楽しみに、惜しみなく使うことができるようになるのである……。

 さて、このように、性根が腐りきっている私は、なんともうまい結論を引き出したもんだと思われるかもしれない。すなわち、貧しい国や地域の人たちが子どもをもたないようにしてもらうことで、自分が寄付をする義務を消し去り、自分のお金を自分の使いたいように使える状態にしたのだ、と。確かに、私の寄付をする義務は、ベネターの「反出生主義」を使うことで、消し去ることができるのかもしれない。しかし、「反出生主義」を支持することは、次のような反直観的な結論にもつながってしまうことを覚悟しなければならない。

 「反出生主義」は当然のことながら、人間であれば誰にも当てはまるものである。すなわち、「われわれは皆、子どもをもたない(これ以上もうけない)義務をもつ」と言われるのである。なぜなら、われわれ人間が「存在する」ことは、「存在しない」ことに比べて、常に害悪であり、人間を存在してしまうようにすること(=子どもをもうけること)は、害悪をこの世に生み出すことに寄与することになるからである。(ただし、「反出生主義」においても、「死」は悪いものなので、すでに存在してしまっている人間については、なるべく苦しみや悲しみを受けることなく生きるよう努力すべきとされる。)かくして、「反出生主義」にしたがうと、最終的にわれわれ人類は、絶滅することになる。そしてそれこそが、道徳的に目指すべき状態なのだと言われるのである……。

 さて、どうしたものか。やはり私は、忘年会なんぞには行かずに、あるいは今後は贅沢することを慎んで、余ったお金を貧しい国や地域の人たちのために寄付しながら生きていくべきなのか(おそらく、それが正解)。それとも、忘年会に行って(なんなら新年会にも行って)、自分のお金を好きなように使いながら、それでいて、人類の絶滅を導くように、生きていくのか。どちらが、正しい道なのか…(多分前者)。寄付をするのか、絶滅か……(だから、前者だって)。考えるのも疲れたので、とりあえず、酒でも飲みに行こうかしら。


参考資料

  • 厚生労働省「平成28年国民生活基礎調査の概況 II 各種世帯の所得等の状況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa16/dl/03.pdf)(2017年12月14日閲覧)
  • デイヴィッド・ベネター [2017] 『生まれてこない方が良かった:存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宣義 訳、すずさわ書店
  • ピーター・シンガー [2014] 『あなたが救える命』児玉聡・石川涼子 訳、勁草書房