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2015年10月23日金曜日

英彦山の信仰と民俗(白川琢磨先生)

  「教員記事」をお届けします。2015年度第11回は、文化人類学の白川琢磨先生です。福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町とにまたがる英彦山。その信仰についてです


英彦山の信仰と民俗


 古代から現代まで連綿と続く英彦山信仰を一挙に解き明かすことは難しい。大きく二分するとすれば、古代・中世・近世までの第一局面と、近代・現代の第二局面ということになる。明治初期の「神仏分離」が画期となる。これによって、神仏習合の典型ともいえる「彦山信仰」から仏教的要素が剥奪され、組織の中核であった山伏(修験者)が一斉に山を去ったのである。民俗部門では、山内や山麓に残された民俗(祭りや伝承)から、彼らの足跡を探り、民間レベルでの彦山信仰の基本構造を抽出しようと試みた。彦山信仰の中心を「中世」に置くとすれば、その原型にあたるのが、ヒコ/ヒメ/ミコの象徴的対立である。彦山の入口にあたる深倉峡には、男岩(男根石)と女陰岩(姥ガ懐という名の岩窟)があるが、陰陽石と呼ぶには巨大な自然遺跡で、その奥に位置する般若窟(玉屋窟)でその結実である「ミコ」が産まれたとの伝承にも繋がるのかもしれない。やがて、仏教(密教)との習合でこの三元対立は、南(俗躰)岳/イザナギ/釈迦:中(女躰)岳/イザナミ/観音:北(法躰)岳/アメノオシホミミ/阿弥陀の彦山の基本的三元構造となっていく。この三元を「結んだ」結果に相当するのが、玉屋窟における法蓮の「如意宝珠」感得伝承である。山麓の祭りの中に「オホシ様」とか「ミホシ」、あるいは「ミト」と呼ばれる藁苞が出現し、神聖視されているが、如意宝珠が民間に転化したものと解釈できる。
冷酒・燗酒の三献後、逆に重なる盃(北坂本神社)
平成24年11月5日

 神仏習合時代の神祭の基本型は、宇佐六郷山で認められる「二季五節供」であり、彦山でも同一型が確認される。二季とは、旧暦の二月と十一月の祭であり、各々、播種と収穫(税の収取)に関わる律令時代に淵源する重要な祭である。彦山では、前者が本山での「松会」であり、後者が里での「霜月卯の祭」である。五節供とは、一月七日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日であり、彦山周辺を含む北部九州一帯では、第一節供(一月七日)と第五節供(九月九日)が重視され、根強く存続してきた。特に、後者は「おくんち」の呼称で知られ、収穫祭と同等視されているが、本来の収穫祭は霜月祭である。「神家(じんが)」と呼ばれる特定の家だけが参加する宮座制の祭も目立つが、それは神家というのが「徴税の単位」であったことの名残である。おくんちや霜月祭は「神家祭」であることが多いが、彦山周辺では、祭の要素として、「大飯」や「大餅」、そして「大酒」の特徴が際立っている。「神は、印度の仏が日本の衆生を救うために形を変えて現れた」とする「本地垂迹説」は、神仏習合の後期の段階で、それ以前は、神は人と同じく、性別や寿命をもつ輪廻転生を余儀なくされる「六道」世界の一段階であった。修験の修行形式は、この六道に対応する行法を地獄=業秤、餓鬼=穀断、畜生=水絶、修羅=相撲、人=懺悔、天(神)=延年と位置づけた。第一節供、修正会が「人」としての懺悔、即ち悔過を主題するのに対し、六道の最終段階に該当する延年は、神祭であり、芸能だけでなく、験力の誇示として、飯や酒の過食や過飲が競われたのではないだろうか。

2015年10月20日火曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

LC哲学カフェ、長く中断してしまいましたが、今度こそ再開します。
お誘い合わせの上、ぜひ気軽にのぞいてみて下さい。

詳細は下記の通り。

  【マンガde哲学】
  人間であるために最低限必要な部品?――『攻殻機動隊』で哲学する

  日時 11月4日(水) 16:30-18:00
  場所 A607教室

  参考文献 士郎正宗『攻殻機動隊』、講談社、1991年、104頁


飲み物は各自で用意して下さい。
参加者の自己紹介は行いません。また、無理に発言しなくても構いません。
途中入室、途中退室も自由です。
なお、終了後の懇親会等は予定していません。悪しからず。

関連記事 LC哲学カフェって何?スマホと空と攻殻機動隊

2015年10月15日木曜日

LC哲学カフェ開催延期のお知らせ

今月28日に開催される予定だったLC哲学カフェですが、諸事情により急遽、開催延期となりました。

参加を予定されていた方々には、本当に申し訳ない限り。来月こそは必ず再開しますので、引き続き、このブログでの告知をお待ち下さい。


なお、開催延期に伴い、以前の告知記事は削除しました。

2015年10月3日土曜日

東日本復興支援プロジェクト報告(佐藤基治先生)

 「教員記事」をお届けします。本年度第十回は、心理学の佐藤基治先生が、福岡大学の「東日本復興支援プロジェクト」の報告をしてくださいました。毎年行われている同プロジェクトの活動は、現地の方々からも高く評価されています。


東日本復興支援プロジェクト報告

佐藤基治(心理学)

  8月下旬に実施された福岡大学の「東日本復興支援プロジェクト」へ参加した。45名の福岡大学生が3班に分かれ活動し、そのうちの1つのグループに同行した。文化学科の学生諸君の中には、この企画を知らなかった人も多いようなので、ここに活動の様子を記して、なにかを考える手掛かりにしてもらいたいと思う。
 
図1
  福岡大学は東日本災害ボランティア福岡大学派遣隊という名称で2011年夏の第1次から2014年の第4次まで、合計約300人のボランティアを派遣してきた(詳しくは大学のホームページの記事参照)。今年度からは名称が「東日本復興支援プロジェクト」に変更された。それは、地震から4年が経過し、さまざまな人々や組織の活動が、「東日本大震災に対するボランティア活動」から、「東日本復興への支援」へと内容が変化しつつあることに対応している。地震による被害が、人口減少、高齢化や産業の空洞化といった全国の地域社会が抱える問題を顕著化させたので、単なる原状回復ではなく、復興を契機にこれらの課題を解決し、「新しい東北」を創造したいと復興庁が唱えているからである。このような考え方の基礎となる実際の東日本地域の状況を自分の目で確かめるのも今回の活動の目的の一つである。

  8月18日午前中に、学生と教職員計50名が福岡空港に集合し、仙台空港に向けて出発した(写真1)。仙台空港から貸し切りバスで高速道路を約2時間走行すると南三陸町に到着する。最初に防災対策庁舎で線香をあげ、被災者の冥福を祈るとともに、ボランティア活動の無事を祈念した。昨年の活動の際には防災対策庁舎が更地に文字通り「孤立」していた(写真2、3)が、現在は周囲の区画に高さ10メートルほどの盛り土がなされており、防災対策庁舎は盛り土の山々に埋もれたように存在する。この辺りは津波で大きな被害を受けた場所で、「復興」が進む中で、防災対策庁舎を「忘れないでほしい」という思いと「忘れさせてほしい」という思いの間で、現地の人々は未だに揺れ動いている。
図2
図3

  19日は南三陸町の雑草で覆われた避難路の清掃をした。これは「椿道プロジェクト」という津波の際の避難路に、塩害に強い椿の木を植えて道標にしようとする活動の一環である。椿の木の成長のためには下草を抜く必要があり、それは人の手で地道にやっていくのであるが、ところがそのような軽作業に従事する人手がないのである。ボランティア活動といえば、大震災直後には体力を必要とする作業もあり、強靭な体力を持つ人が過酷な環境の下で限界まで活動するというイメージだが、現在では寧ろ軽い作業に従事するボランティアが必要とされているようだ。重機を使った復興作業が進む一方で、たくさんの人手が必要な作業は中々捗らない。派遣隊の一部、15人で3時間ほど働くと歩きやすい径になるのにである(写真4,5)。
図4
図5

  20日は南三陸ボランティアセンターの紹介で漁業作業に派遣された。作業はホタテ養殖の漁具の手入れであったが、より重要な活動は漁師の視点からの津波の体験、「復興」事業への感想の聞き取りであったように思う。「津『波』っていうから、白い波がしらのあるのを想像するかもしれないけど、『引き波』でいったん数百メートルほど沖まで海がなくなったかと思うと、『押し波』でビルのような灰色の壁が押し寄せてきた。」。ニュースなどでは復旧した道路や鉄道だけが報道され、放置された部分を目にすることは少ないが、道路沿いにはいまだに打ち上げられた漁船やグニャグニャのガードレールが放置されており、未開通の線路は雑草に埋もれてしまっている(写真6)。

図6
  21日の活動は気仙沼市の小学校で、夏休み中の学童保育の手伝いであった。普段は20人ほどの低学年の小学生を2,3人の教員で担当しているが、15人の大学生がサポートすると、ほぼ1対1での対応が可能となり、児童には好評の様子であった。

 22日、23日は石巻に移動した。海岸沿いの津波の跡を高台の日和山から見渡すことができる(写真7)。震災前は住宅などが立ち並ぶ街だったのが、一面の更地のままである。海岸沿いは大規模な公園になることが決定したが、どこまでを公園にするかという新たな問題が生じている。22日は石巻市のボランティア団体の案内で海岸部を見学し、その後、防災に関するワークショップを体験した。東日本大震災で得た教訓を生かした「防災・減災」、「自然災害への備えと対応」が主要なテーマであった。23日は石巻専修大学のボランティア団体とのワークショップを行った。「復興から地域の問題を解決する」がテーマであり、「震災の風化を防ぐ」「被災地の問題を「知ること」は、地域問題の解決を考えること」と考え、「自分が、いま、すぐ、できる「行動」を考える。一人ひとりの小さな行動が、防災や地域問題の解決へとつながることを考えてみた。

図7
  こうして約1週間の活動は終了した。ここでは現地の様子を簡単に報告したが、この企画では事前研修と事後研修も行われた。事前研修では、活動の目的、日程や場所を含めた活動内容の決定、活動に必要な物資の準備などを参加学生自らが行った。事後研修では、東日本の状況を自分自身が確実に把握するために、次年度のメンバーに引き継ぐために、家族・友人・知人に伝達するために、年末までに報告書を作成する予定である。
 
 震災直後の、多くの人がボランティア活動に参加するときには、それはそれで人手が必要な時期であり有用なのだが、4年の歳月が過ぎた今、もっと地味な形での人手、息の長い活動が必要なようだ。震災直後には何となく気を削がれて、参加できなかった人も、こっそりと東日本の復興支援に参加してはどうだろう。新聞やテレビではわからない東日本の現状、復興の様子、人々の暮らしを直接目にするのは、「文化の多角的総合的理解」を目指す文化学科の学生にとって、有意義だと思う。今後は11月25日に学内で報告会を開催し、来年4月には次期の参加者募集の予定である。