英彦山の信仰と民俗
白川琢磨(文化人類学・民俗学)
古代から現代まで連綿と続く英彦山信仰を一挙に解き明かすことは難しい。大きく二分するとすれば、古代・中世・近世までの第一局面と、近代・現代の第二局面ということになる。明治初期の「神仏分離」が画期となる。これによって、神仏習合の典型ともいえる「彦山信仰」から仏教的要素が剥奪され、組織の中核であった山伏(修験者)が一斉に山を去ったのである。民俗部門では、山内や山麓に残された民俗(祭りや伝承)から、彼らの足跡を探り、民間レベルでの彦山信仰の基本構造を抽出しようと試みた。彦山信仰の中心を「中世」に置くとすれば、その原型にあたるのが、ヒコ/ヒメ/ミコの象徴的対立である。彦山の入口にあたる深倉峡には、男岩(男根石)と女陰岩(姥ガ懐という名の岩窟)があるが、陰陽石と呼ぶには巨大な自然遺跡で、その奥に位置する般若窟(玉屋窟)でその結実である「ミコ」が産まれたとの伝承にも繋がるのかもしれない。やがて、仏教(密教)との習合でこの三元対立は、南(俗躰)岳/イザナギ/釈迦:中(女躰)岳/イザナミ/観音:北(法躰)岳/アメノオシホミミ/阿弥陀の彦山の基本的三元構造となっていく。この三元を「結んだ」結果に相当するのが、玉屋窟における法蓮の「如意宝珠」感得伝承である。山麓の祭りの中に「オホシ様」とか「ミホシ」、あるいは「ミト」と呼ばれる藁苞が出現し、神聖視されているが、如意宝珠が民間に転化したものと解釈できる。
冷酒・燗酒の三献後、逆に重なる盃(北坂本神社) 平成24年11月5日 |
神仏習合時代の神祭の基本型は、宇佐六郷山で認められる「二季五節供」であり、彦山でも同一型が確認される。二季とは、旧暦の二月と十一月の祭であり、各々、播種と収穫(税の収取)に関わる律令時代に淵源する重要な祭である。彦山では、前者が本山での「松会」であり、後者が里での「霜月卯の祭」である。五節供とは、一月七日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日であり、彦山周辺を含む北部九州一帯では、第一節供(一月七日)と第五節供(九月九日)が重視され、根強く存続してきた。特に、後者は「おくんち」の呼称で知られ、収穫祭と同等視されているが、本来の収穫祭は霜月祭である。「神家(じんが)」と呼ばれる特定の家だけが参加する宮座制の祭も目立つが、それは神家というのが「徴税の単位」であったことの名残である。おくんちや霜月祭は「神家祭」であることが多いが、彦山周辺では、祭の要素として、「大飯」や「大餅」、そして「大酒」の特徴が際立っている。「神は、印度の仏が日本の衆生を救うために形を変えて現れた」とする「本地垂迹説」は、神仏習合の後期の段階で、それ以前は、神は人と同じく、性別や寿命をもつ輪廻転生を余儀なくされる「六道」世界の一段階であった。修験の修行形式は、この六道に対応する行法を地獄=業秤、餓鬼=穀断、畜生=水絶、修羅=相撲、人=懺悔、天(神)=延年と位置づけた。第一節供、修正会が「人」としての懺悔、即ち悔過を主題するのに対し、六道の最終段階に該当する延年は、神祭であり、芸能だけでなく、験力の誇示として、飯や酒の過食や過飲が競われたのではないだろうか。